十七話


 この世界を最良だと思ったことはなかった。無慈悲で理不尽な現実は、いつだって無理やり眼前に突き立てられ飲み込めと強要される。それは一般社会だろうと呪術界だろうと変わりはしなかった。正しさも、常識も、全ては容易く踏み躙られる。それを矯正する気も、改革する気も私にはなかった。

 だから、諦めた。私には五条さんのように、夏油さんのように自らの道を突き進む強さはなかったから。──中途半端。そんなもの自分が一番分かっていた。灰原のように、人助けをすることに満面の笑みをこぼすことも……出来やしない。

 私は、心のどこかで皆の背中をいつも羨望の眼差しで見つめていたのかもしれない。理想と現実に板挟みになりながら、いつも共に戦う人たちが持ち得ていたものは私にはないもので、私には、私の手には──

『おかけになった電話は、現在電波の届かないところにあるか──』

 この時間、この日にはあり得ないほど静かな街は世紀末かのようだった。項垂れた手から聞こえる無機質な音と、私が地面を踏みしめる音だけが音として存在している。

 ことはよろしくないどころか、最悪だった。冥さんたちと共にいた虎杖くんからもたらされた五条さんが封印されたという情報。それゆえに致し方なく伏黒くん猪野くんと別行動をせざるを得なくなり伊地知くんを探し出した先にあった、血溜まり。

 彼に限っていえば高専時代術師を目指していたこともありなんとか一命を取り留めた、が、道中路上に倒れた黒スーツの大半がすでに息絶えていた。

──ナメやがって。

 研ぎ澄まされた神経、怒りは私の五感を侵食し、過去の記憶さえもを映し出す。どうして、なぜ、いつだって呪いは奪っていくだけだ。目に映るもの、私の、心に映るもの、全てを。

「……」

 帳の外、建物の中に呪力の気配を察知し、携帯をポケットへと押し込める。ようやく静寂が訪れたそこに、私がガラスを砕くけたたましい音が響き渡った。破片となったそれを踏み締めたその先には、床に倒れた補助監督と思わしき女性、高専制服を着た女子、そして、その子供に剣を振り下ろさんとしている──敵。

 ここに来るまでに倒れていた人を調べればその傷口はどれも細長い刃物のようなもので刺されていた。何度も、何度も、戦う力のほとんどない相手に向かい……まるで、殺戮を楽しむかのように。刃渡りや現場から近いことを考えても、その男がその諸悪であることはほぼ確信に近かった。

「二人はここで救護を待ってください」

 呪詛師を退け、怪我人である二人を椅子へと座らせてから情報の共有をする。膝を付き二人の様子を確認したが、傷はあれど意識も受け答えも問題なかった。今度は、間に合ったらしいことに僅かに安堵したのも束の間。

 あの呪詛師からは目立った呪力を感じなかったことからも恐らくは補助監督や窓を狙うよう指示された下っ端であることが予想された。新たな情報も出て来ない。となれば欠片ほどの慈悲もかけてやる余地はなかった。

 ──すぐに動かなければ。一刻を争っていた。特に、私は。未だ私の携帯が鳴ることはない。着信も、メッセージも。術式もなく呪力も使えないとはいえ、呪詛師だろうと呪霊相手だろうと彼女がそう簡単にやられるとは考えにくい。だが、それでも彼女だって術師だ。きっと一般人が襲われている場面に直面して、生身だけでは助けられないと判断したその一秒後には躊躇いもなく呪力を使うだろう。自分の身を、犠牲にして。

「私は、」
「七海?」

 二人の顔を見ながら、聞こえた声に瞠目した。幻聴かとさえ思ってしまったのはきっと、それほどまでに私が待ち望んでいたものだったからだろう。ゆっくりと顔を声が聞こえた方向に向ければ、所々汚れた私服を翻し、目を瞬かせた、彼女がいた。

「え、野薔薇もいるの? もう本当どうなってんのよこれ。突然帳は降りるし人波に巻き込まれて落っこちてさ。折角の休暇だってのにパニックもいいとこよ。見てこれ! この前買った服がもうボロボロ! 鞄も失くすし!」

 もう絶対許さないんだから! と捲し立てる彼女は、昨日までと変わりはしない。駅構内にいた彼女から聞かなければいけないことは山ほどあった。首謀者は、敵の数は、目的、一般人は。そして迅速にそれらを皆に共有し地下へと向かわなければならない。なんたって五条さんが封印されてしまったんだ。そんなことが続けば続いただけ、この国の終わりに決定打を与えかねない。

「なんか呪霊もいっぱいいてやっと出て来れたってのに誰にも会えなく、て」

 だが、私の頭を働かせる理性を押し退けて、今にも暴れ出しそうな感情が渦巻いていた。……彼女だ。上から下まで、仕草が、言動が、私に彼女が彼女であると知らしめる。

 立ち上がり歩いてくる彼女と同じようにその距離を縮めた。……いや、同じではない。ゆっくり踏み出した足は次第に速さを増し、ほぼ駆け出すに近かった。手の届く距離。気付けば身体は勝手に動き出し、ぐっと、その後頭部を引き寄せていた。ああ、君はちゃんと──

「──生きてますね……っ」

 彼女を抱き締めた腕が震えている。彼女はきっと驚いているだろうが関係なかった。指の間を通る髪も、そこから香る匂いも。鼓動も、体温も、全てが私をこの世界に引き戻していくようだった。

「……当たり前でしょ。誰に言ってんのよ」
「そう、ですね」

 私の言葉を噛み砕く一瞬の間のあと、彼女の手が私の背にそっと回される。温かい。「バカだなぁ、七海は」なんて鈴を転がしたような笑い声が鼓膜を撫で、その声を噛み締めるように目を閉じた。大丈夫。まだ、失ってない。熱を持った瞳の奥は、確かな安堵に泣き出してしまいそうだった。

「……怪我は」

 身体を離しそう問い掛ける。見たままだとそれほど大きな傷はなさそうだが、彼女の場合外側だけがその代償ではないのだから厄介だ。

「ないよ。呪力も使ってない。どっかの誰かさんがうるさいからね」
「でなければまた腕のないあなたに会わなければいけなかったと思うと、そのどっかの誰かさんには頭が上がりませんね」
「そんなホイホイもげた記憶はないんだけど?」

 人生で二度も腕がなくす人間なんてそういはしないのだからこちらとしてはトラウマだというのに、当の本人にその自覚は皆無らしい。だが、良かった。問題は何一つだって解決していない。だけど私はようやく、呼吸ができた気がしていた。

「下はどんな様子です」
「どうもこうも、落ちてからそれなりに経ってるから参考になるか分かんないけど」
「構いません。こちらにある情報と照合しましょう」

 険しい視線が交差する。それを彼女はスッと外しては、顔を顰めた。

「地獄だよ」
「……」
「落ちてすぐ友達とはぐれて探してた。だけど壁一枚先にうじゃうじゃ呪霊の気配がして、やばいと思って出来る限り情報を集めようと思ったの」

 でも、と彼女は続ける。

「そんな場合じゃない。ううん、もうそんなことでどうこう出来る状況じゃなくなった。隔ててた壁が崩れたみたいにあちこちから悲鳴が聞こえてきて、何も把握してない私が一人動いたところで解決できる問題じゃないって思った」
「だから出口を探したと」
「そう。お生憎、私は一般人でも術師でもないから帳の影響も受けなかったし」

 ふっと、腕を組み自嘲を漏らす彼女に、ぐっと眉間に皺が寄った。だがそれをすぐに察知した彼女はやれやれとでも言いたげに笑みを変え、わざとらしく肩を下ろす。

「別に七海のことを言ってるわけじゃないでしょ」
「なんのことを言っているのかわかりませんが、次はこちらの番ですね」

 話を逸らすようにそう告げて、新田さん釘崎さんと共に現段階で把握している全てを彼女へと伝えた。五条さんの封印に関しては言葉で聞いたとしても俄かには信じられないといった様子で、口元を抑え滲む冷や汗や動揺はその表情からも容易く手に取れた。当然だろう。彼女もあの人の規格外な強さは理解している。だからこそ封印されたということに驚きを隠せない上に、それによって起こり得る地獄が、この渋谷に止まらないことを簡単に予見してしまう。

「五条さんの封印には恐らく夏油さんが関わってるようです」
「は? や、待って……私その名前一人しか知らないんだけど」
「私もですよ」

 混乱した頭をそのままに、私の言葉に大きく目が見開かれていった。「本当にわけわからん」と盛大に吐き出された溜め息は、私の分も混ざっていたと思えるくらい深く、重い。

「私は禪院さんたちとB五階に向かいます」
「……私も」
「駄目です。これからの戦いは私で最低レベルです。足手纏い、邪魔です」

 躊躇いがちながらも出た釘崎さんの言葉を遮り、そう強く、有無を言わせんと遮断した。そして、私へと鋭い視線を刺す彼女へと、その瞳を向ける。

「あなたも、ここで待機を」
「……」

 彼女との付き合いは長い。それは逆も然りだ。だから私は彼女が言い出す言葉を先読みし、牽制。それを分かっていた彼女はこれみよがしに顔を顰めては私を睨み付けた。だがこれは、虎杖くんと行った任務とは訳が違う。呪力を使わず、なんて生ぬるいことがいつまで通用するかなんて分かりはしない。私は何としてでも……例え、彼女のなにを傷付けてでも、ここに止まらせる必要があった。

「私がそれを聞くと思って言ってるの」
「私がなぜそう言い出すであろうあなたに全てを話したか、わかりませんか」
「だとしたって私は」
「また気絶でもされては迷惑です」
「っ……!」

 彼女の顔が、苦渋に歪んだ。あの件を彼女は自分の犯した汚点だと思っている。長くこの世界に身を置いているにも拘らず、意識を手放してしまったことに自分で自分を許していない。誇りは、意地は、立場は、そう自分に問い掛けているのを知っていて尚、私はそう言った。

「でも、私だって!」
「盾にくらいにはなる、ですか?」
「!」

 どうしてそれを知っているのか。その大きく見開かれ揺れる瞳にはそう書かれている。だけど、そのまま言葉をなくしたまま呆然とする彼女の横を静かに通り過ぎた。我ながら最低だ。だけど、五条さんを封印した相手のいる戦場へ彼女を連れていくわけにはいかない。彼女を、死なせる訳にはいかないんだ。だって私は──

「あなたを盾にして生きるくらいなら、死んだ方がマシです」

 私は──あなたのいない世界では、呼吸すらできないのだから。