十六話


──二〇一八年、一〇月三一日。午後七時。
 東急百貨店東急東横店を中心に、半径およそ四〇〇メートルの帳が降ろされた。異常事態の発生に伴い、高専に所属する呪術師、補助監督や窓までもが駆り出され、夜の訪れた街は異様さを漂わせている。一般人のみを収容する帳の中、それなりの呪力を持った人は口を揃え「五条悟を連れてこい」との発言をしているあたり、只事ではないことは確かだった。

「という状況です」
「……現状、私たち術師ができることはなさそうですね」
「いざという時動いていただくのは皆さんですから」

 私は猪野くん、伏黒くんと共に伊地知くんから現状で知りうる限りの情報を共有し、五条さん単独での解決を計る上層部の指示通り帳の外で待機。閉じ込められているであろう一般人の数を考えても得策とは思えなかったが、やむを得ないあたり呪術師といえど組織の一部に過ぎないという皮肉さが浮き彫りになっているようだった。それに嘆いたわけではなかったが、伊地知くんは気遣うようにそう言っては小さく笑う。だがその肩はここに来てから常に強張っているように思えた。普段よりも、ずっと。

 五条さんを襲った領域展開までを会得している呪霊、そして、私と虎杖くんが対峙したツギハギ呪霊は今回の件に関わっているのか。恐らく、その可能性の方が高いだろう。とはいえ五条さんが直接動き出すとなれば私たちが動かずともことの収束を得ることは難しくないと思われた。余程のことが、ない限りは。

 面倒な事態。高専関係者が総動員されているのだから恐らく彼女も伊地知くんたち補助監督や窓と同じような役割として駆り出されているはずだ。ここに伊地知くんがいるあたり彼女は他を受け持っている、よりかは、彼女の性格を考えれば電波の閉ざされた帳内にいる可能性の方が高いだろう。

 揚々と彼女がこの帳の中へ突き進んでいく姿が容易く想像できてしまうが、まぁ、上が本丸を五条さんに丸投げなのだから彼女が呪力を使わずとも持ち合わせた実力を考えればそう深刻に考える状況ではないように思えた。そろそろ連絡の一つでもよこして来そうなところではあるが、今一番忙しいのは情報収集に明け暮れている人たちだ。あの彼女とてそんな暇もないのかもしれない。

「あ、七海サンあの人に連絡っすか?」
「……」

 猪野くんはこういう時鋭い。徐ろに携帯を取り出しただけだというのに、ピンポイントで正解を当ててくるその嗅覚は一体なんなのか。不思議でならない。

「忙しいでしょうし、手が空いたら連絡するよう伝えるだけですよ」
「へー仲直りしたんすね!」

 全く、いつの話をしてるんだ。とはいえ猪野くんとの任務だってそうしょっちゅうあるわけではない。そういえばあの時のことを彼に謝っていなかったなとふと思った。まぁ、この様子だと突然謝ったとて理解を得られそうにはないが。

「いいか伏黒、七海サンとあの人はな」
「猪野くん、要らぬ情報を与えないように。伏黒くんが迷惑でしょう」
「えー! そんなことないよな!? 伏黒!」
「はぁ、まぁ」

 興味が全くない、というわけではないが、どちらといえばその顔は猪野くんのテンションについていけないといった様子だろう。いくら待機とはいえもう少し緊張感があっても良さそうではあるが、緊張感の方から見限られた同期を思えば無駄に肩肘張らずにいられることが良点に見えてしまうから不思議だった。

【お疲れ様です】
【余裕が出来たらで結構ですから連絡ください】

 吹き出しに浮かんだ文字を数秒見つめ、既読が付かないあたりやはり忙しいのだろう。帳の中にいればそれこそ電波は届きはしない。報告を終え「では」と言葉を残し、そそくさと次へ走り去って行った伊地知くんを見ればそれも仕方ないことに思えた。いつ状況が変わるか分からないから私たちはここを動くわけにはいかない。それが少しもどかしくもあったが、何より事がより早く終息することを願った。



──二一時二二分。
 私の願いとは裏腹に、一本の着信で事態は大きく動き出した。中にいた形を変えられた人間がここに来て閉じ込められている一般人を襲い始めた為、私たちと同じように帳の外で待機していた三班に突入の指示が下されたのだ。

 だが理由はそれだけではない。一般人を閉じ込めるだけだったはずの帳。それに加え今になって術師を拒否する帳までもが降ろされた。中で何かあったのか、はたまたあえてこのタイミングだったのかは分からない。だが、状況は思っていたよりも数段、よろしくはない方向に傾いているようだった。

「……はい」
『すみません七海さん』

 着信を知らせる振動に携帯を耳に当てれば、伊地知くんとは違う補助監督からの電話だった。突入の指示が降りてから数分後の折り返し。彼が報告漏れ、ということは些か考えにくいが、その相手は電話口でも分かるほど言葉を言い淀んでいた。重い口は二、三度何かを紡ごうとするがまともな音とはならず、喉はひどく乾いているかのようで唾を飲み込むのも一苦労といった様子だ。

「何かありましたか」
『いや、あの……伊地知さんの指示で非番の人にも連絡をしてるんですが、一人連絡が取れない方がいまして』
「この非常事態にですか?」

 というかなぜそれを私に報告してくるのか、皆目検討がつかない。それならば伊地知くんに言うべきであり、繋がらなかったなどの理由であれば高専教員である日下部さんあたりに連絡するべきであって私は二の次三の次のはずだ。だが時間を考えれば恐らく彼は真っ先に私に掛けてきたと思われる。ますます意味が分からなかった。とはいえ他の人に言えと邪険にする訳にもいかない。こんな状況だ。皆混乱しているのは仕方がないだろう。

『ええ、なので何かご存知ないかと』
「私が、ですか? というか一体誰の話を……──!」

 瞬間、耳に当てていた画面を勢いよく見つめ、そこにあった曜日にぐわんと視界が揺れた。突然ぴたりと足を止めた私に倣い、両隣りを歩いていた二人も自然と足を止め瞠目する私を首を傾げ見上げていたが、気遣う余裕はもはやありはしない。この補助監督が私へと真っ先に連絡して来た意図は、混乱が生じてでも、ましてや見当違いでもなく"適切"だった。

『私来週の水曜日休みもらったんだぁ』

 蘇る声に背筋が下から瞬く間に凍りつく。なぜ忘れていたのか。しかも彼女はこの東京を案内すると言っていた。

──思い出せ……!

 駆り立てられるように数日前の記憶を遡り、彼女の目的地を探る。例え意識はそこになくとも、耳はきちんと彼女の話を聞いていたはずだ。彼女はどこに、なにをしに行くと話していた? 脳裏に仄暗い居酒屋、目の前でグラスを揺らす彼女を思い浮かべる。カランカランという氷の音と、周囲の喧騒、その時流れていたBGMは流石に出て来なかった。だが、緩やかに三日月を描いた口元が、視界いっぱいに映し出される。

『その日はハロウィンだからさ』

──ああ、最悪だ。

『やっぱ渋谷に連れてってあげようと思うんだよね』

 その後、彼女は私に話を聞いているのかを尋ねた。この日の渋谷に訪れる人のピークはちょうど今回の件が起きた頃。その様子を友人に見せるのであれば、彼女が現場にいた可能性は恐ろしいまでに高い。そして、巻き込まれた可能性も。どうしてもっと早く気付かなかったのか。そう顔を上げその先にある“闇”を見つめる。握り締めた携帯が手の中で嫌な音を立てては、夏は終わったというのに全身から吹き出した汗が急速に冷えていく感覚がした。だが今は、そんなことを言っていてもいられない。それを伝えたとして、誰かが動けるわけでもないのだから。

「……彼女は今日知人に会うと言ってました。話しに夢中になって電波状況に気付いてないという可能性もありますので、私からも連絡をしてみます」
『わかりました。よろしくお願いします』

 そう言って電話を切り、すぐさま二時間前に送ったメッセージを確認する。が、そこに彼女が読んだという印はなかった。そのままリダイヤル画面の一番上にあった名前をタップし、耳に当てる。心臓が、動いている気がしなかった。

『おかけになった電話は、現在電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため──』

 一瞬の無音の後、祈るまでもなく聞こえた望まぬ声に降ろした携帯をじっと見下ろす。

「七海サン? なんかあったんすか?」
「……いえ、なんでもありません。行きましょう」
「?、了解っす」

 歩き出した私に首を傾げながらもついてくる猪野くんと伏黒くんに、私の個人的な動揺を察知されるのは憚られた。私はこの子たちを率いて、この事態終息に対し尽力する役目がある。仮に今すぐ駆け出し彼女を探しに行きたくともそれが許される立場にはない上に、たった一人とその他大勢を天秤にかけた場合術師としてどちらを手に取るかなど考えるまでもなかった。

 スッと、手の中の携帯に再び視線を落とす。そこからは未だ無情なアナウンスだけが流れているだけだ。赤い丸に触れれば声は止み、だけど、代わりに聞こえた自分の逸る鼓動が、耳障りなほど鼓膜に響いていた。