十五話


 朝九時を告げる鐘がこの応接間に響き渡った。携帯を確認すれば、通知には彼女の名前と共に【もうすぐ着く】の文字が並んでいる。それに早くしてくださいと急かしたい気持ちを抑え【分りました】とだけ打ち込み一つ息を吐いた。

 どれもこれも斜め向かいに座り、背もたれに項垂れて「七海ィ、なんか面白い話して」と嘯く五条さんのせいであるのだけれど。その面倒臭い上司はこちらのレスポンスがないにも拘らずネット炎上を企てたり一ミリの愉快さも湧かないゲームを始めるもんだから、一人での対処は些か難儀だ。

「そういやあの吉野って子の家にあった指について悠仁に」
「言ってません。彼の場合不要な責任を感じるでしょう」
「お前らに任せてよかったよ」

 五条さんの言葉に英字新聞を捲りながら返せば、五条さんはようやくその無駄に長い上半身を起こす。回収した指はきちんと上層部へと提出したことを告げれば舌打ちをされたが、この人が虎杖くんに指を食べさせてしまうよりかはずっとマシだ。それが、私と彼女の出した結論だった。

「お待たせ、って……最悪」
「だってさ七海」
「五条さんを見て言ってますよ」

 部屋に現れた待ち人は部屋に入るなりこれみよがしにそう顔を顰めたが、当の本人に届かないのはいつものこと。それに私も、そして彼女も慣れているとはいえ昨日のことがあったからか、彼女は眉間の皺を濃く深く刻んだまま私の横にあるソファーへと腰掛けた。私は新聞を元あった状態まで折り込み、テーブルへと置く。

「はい、朝起きたら七海の時計が机にあるからびっくりしたよ」
「どうも。あなたが酔って持ち帰ったんですから当然でしょうね」
「おいおいおいそれ僕呼ばれてないんだけど」
「呼んでねーから当たり前だろハゲ」
「だってよ七海」
「だから五条さんを見て言ってますってば。あとハゲてません」

 カチャ、と物足りなかった腕に昨晩強奪されたそれを装着し、袖を直した。これでいつも通りとなったわけだが、とはいえその表情以上に彼女の怒りはまだまだ健在で、そちらはなかなかいつも通りとはいかないらしい。時を経て落ち着いたはずの口調はまるで高専時代さながらだ。まぁ私たちに起こった一悶着を考えれば、当然と言えるのだろうが。

「で、お前は好きな人いんの?」
「は?」

 なんの脈略もなく、さも今までそんな話をしていたかのように告げられた言葉に彼女は眉間に皺を寄せることも忘れ、逆に私にその皺が降り注いだ。この人は去った嵐を呼び戻す気なのか。また下手に口を挟んでとばっちりを受けるのは御免被りたかったが、昔からこの二人が巻き起こすそれは他者の介入がなければ延々と続いていくので厄介だ。私が不快感を表情に乗せたって、当の本人はそよ風とも思っちゃいない。

「なにいきなり」
「命短し恋せよ術師ってね。僕くらいになると可愛い後輩が売れ残ることを危惧してあげるんだよ」
「聞いたことねーよ。あと死ぬほど余計なお世話だな」

 全く。それでも、恐らく五条さんの頭の中には北海道のバーカウンターで話した内容が浮かんでいるのだろうから、本当に余計なお世話以外の何物でもなかった。

「そりゃいるよ」
「……は?」
「え? そこ七海が驚くの?」
「いえ……そんな話は聞いたことがなかったので」

 彼女の口からは出るのはせいぜいはぐらかす言葉くらいだと思っていた。だからこそ、そのはっきりとした肯定に戸惑いは私の意思に反してこぼれ落ちてしまい、動揺を隠すためズレてもいないサングラスを押し込んでしまう。マジか、なんて彼女が逆の立場なら言うのだろうが、まさにそんな心境だった。

「まぁ言ったことないしねーでも私だってアラサーだよ? 恋の一つくらいしてるっての」
「あ、さぶいぼ」
「本当殺したいこの男」

 袖を捲り自身の腕を興味深々に眺める五条さんに、隣の彼女は拳を握り震わせる。だが、私はそのやり取りですら右から左へと流れ出ては、身体には何も残りはしなかった。

「で、ソイツにはいつ振られる予定?」
「一から十まで喧嘩売ってくんのなんなの?」
「で、で? お前がソイツに求めるものは?」
「ナチュラルに続けんのかよ。そんなのないよ」
「うわー無償の愛とか言っちゃう感じ?」
「別に、そんな大層なもんじゃないけど」

 そう言いながら彼女は徐ろに立ち上がり、部屋の入り口へと向かう。廊下を駆ける音がする辺り、その人物をこの部屋に迎え入れるためだろう。彼女が背を見せたタイミングで身体を乗り出してきた五条さんが「ドンマイ」と哀れみを含んで言うものだから今にも暴れ出してしまいそうだった。

 膝に置いた腕の先、交差した手を口元に当て平静を保つため息を吐く。も、「泣くなよ七海」なんて声に本当に殴り倒したくなった。まさか彼女にそんな人がいて、今まで気付かなかったなんて。盲点もいいところだ。

「ただ私は、想ってられればいーの。……なんてね」

 ちらりと、顔をほんの少しこちらへ向けそう言った表情に、眉間に集めた皺がほどけていく。彼女はさっと再び背を向け、駆け足で扉へと向かった。だが、私の見開いた瞳には数秒前の彼女が焼き付いてしまったらしい。頬を染め、くしゃりと笑いながらも確かな意志と強い決意のこもった迷いのない双眸に、時計の針は動きを止めてしまった。そんな五感全てを奪われ茫然としている私の耳に聞こえた「七海」と呼ぶ声に、今は反応したくないのが本音だ。まぁ、そうもいかないからこの男は厄介なのだけれど。

「悪い」
「それは一体いつの謝罪ですか。今のだけだったとしてもあと五億回は聞かないと終わりませんが」
「アイツに悠仁を任せた件。あれ間違いだったわ」

 は? と現実に戻って来た思考は五条さんの変化を確かに捉えていた。散々人をちゃかすため開かれていた口はそれを渋るように控え目に動き、その視線は部屋に入ってきた虎杖くんと話す彼女へとまっすぐ向けられている。だが、その目隠しの下にある六眼がどんな色を灯しているのかまでは、分りはしなかった。

「確かに彼女の縛りを考えればこちら側は気が気ではないですけど、」
「そうじゃない。多分僕は、アイツに与えちゃいけないものを与えてしまった」

 五条さんの声音ははっきりとしている。一字一句聞き間違えることはなかった。だけど、この人は自分の頭の中にある全てを口に出しはしない。だからこそ会話の難航に加え人の神経を逆撫ですることは多々あるのだが、今回に限って言えば百パーセント私は首を捻らざるを得なかった。

「お前にはアイツの言葉はどう聞こえた?」
「それは……相手のことを真剣に」
「違うよ」

 やたらきついとさえ思わせる否定。ならなんなんだ。こちとらアンタのせいでテンションは最低を記録している。というのに、五条さんは先程までの軽薄さを微塵も出さずにゆっくりと体勢を私の方へと向けた。一体五条さんはなにが言いたいのか、なにを危惧し、なにを後悔して聞いたこともない謝罪をしたのか。私には分からない。分かるのはこの人に見えていて、私には見えないものが目の前にあるということ。それと──

「ずっと朧げで、なんとなく漠然としてたんだろうな。だけど、アイツには今はっきりとそれが見えてる」

──目隠しの下に隠された表情が、一ミリも笑ってないことくらいだった。

「自分の、終着地点だよ」



 ◇



「なんかあった?」

 そう言われ、私は自分が初めて物思いに耽っていたことを知った。

「いえ、なぜです?」

 あたかもなんでもないふりをして、握ったままその水面を見つめていたウイスキーのグラスを煽る。ロックを頼んだはずのその酒は、もうだいぶ薄くなっていた。

「なんか最近ボーっとしてること多いからなんか悩みかなって」
「そんな大層なものじゃないですよ。ただ、少し疲れてるのかもしれませんね」
「へえ、七海も疲れるんだ」
「当たり前でしょう」

 私をなんだと思ってるんです、なんて正方形のテーブルを挟んだ向かいにいる彼女を見れば、「冗談だよ」なんて頬杖をついてけたけたと笑う。それになんとか誤魔化せたか、と僅かに肩の力を抜いて、いつものように雑談を再開させた。

「あ、私来週の水曜休みもらったんだぁ」
「羨ましい限りですね。疲れているという男の前でその話をする神経の図太さには恐れ入ります」
「ちゃんとお土産買ってきてあげるから」
「遠出でもする予定なんですか」
「いや、東京」

 私たちが今いるここも東京だということを彼女は理解していないのかもしれない。だが彼女はそう遠くはない地元の友人を観光案内すると頬を綻ばせていた。……私の知らない、彼女の友人。そんな部分に干渉する権利は私にないし、根掘り葉掘り聞くべきものではないのだろう。分かってる。だけどそれはもしかしたら、彼女の言っていた“想っているだけでいい相手”なのかもしれない。私の知らないところで彼女はその人に恋をし、未だに純粋すぎる感情を抱いている。なにも求めず、ただ、一心に。そう思えば、再び私の思考は現実世界から緩やかに落ちるように離れていった。

──なにが彼女が幸せならいい、だ。

 飲み込んだのは澱み切った自嘲で。ざらりとした不快な感触は心臓の裏側を這いずり、高専時代に抱いていたものとは明らかにその質感が違っていた。自分に湧き上がっているものが嫉妬であると気付かない子供ではない。いや、こんなものを抱いた時点で私はまだ子供の部分を持ち合わせてしまっているのかもしれないと思った。だが、振り回されることはない。それこそただの子供だ。

「って、聞いてる?」
「聞いてますよ。楽しんできてください。ですが酔って人のものを強奪しないように」
「もう、そんなことしないよ」

 それは一体、どういう意味なのか。その相手にはそんな子供じみたことはしないということか。ああクソ。考えるな。そう十代の時に何度も唱えた言葉を反芻した。だけど、想い人を初めて語った彼女の顔が浮かんでは、息のしづらさを自覚せざるを得ない。飲み込んだ酒も、口に含んだつまみも、店内に流れる最新曲も、全てが無色透明になって……全てが自分を蝕んでいく感覚。

 あの表情を自分に向けてほしいという願望と、いつか彼女が誰かのものになってしまう消失感は指先どころか全身の神経を奪い去り、テーブルの木目だけがただ呆然とこの目に映った。

 願っていたはずだ。そんな彼女を。だけど突き付けられて初めて、私は自分の中にある醜いとも取れる塊の存在を知る事となって……まさか、こんな風に苦しめられるなんて思ってもみなかった。予定外だ。予想外だ。──私はきっと、どこかでこのままの私たちが続いていくんだと、思っていたのだろう。そんなんことはないと思いながらも、その変化が当たり前だと思いながらも、そう、願っていた。彼女がいつまでも私の隣にいて、笑いかけてくれることを。

「それでね、」
「私に」
「ん? なに?」

 浮足立つように声を弾ませる言葉の途中にも拘らず、私は気付けばそう声を発していた。ゆっくりとテーブルに注がれていた視線を彼女へと向ければ、瞬きの動きに合わせ彼女の睫毛がふわりと揺れる。飲み込むことは慣れてるだろ。ずっと、ずっと、この十数年何度も吐き出しそうになってしまったとしたって押し返してきた。だから、

「私に、出来ることはありますか」
「え? なになに、当日のしおりでも作ってくれるの?」
「いえ、そちらではなく……この前言っていたあなたの想い人です」

 瞬間彼女の瞳が瞠目する。空白、それを突き破ったのは、他でもない彼女の押し殺すような声だった。

「っ、くく」
「……笑いたいなら笑えばいいでしょう」
「あはは!」
「本当、いい性格してますね」
「へっ、へへ、ありがと」
「褒めてません」

 人が無理やり捻り出し、絞り出した言葉をこの人は。ヒーヒー言いながら腹を抱え、テーブルを彼女が叩く度にその上のモノたちが驚いたように跳ねている。そんな笑われるようなことを言ったつもりは微塵もないが、こんなことは多くなくとも少なくもなかった。全く、人の気も知らないで。

「ご、ごめんて」
「結構です。すみません、この店で一番強い酒を」
「ぶは! やめ、お腹痛い……!」

 きっちりと閉められていたネクタイを緩め、通りがかった店員にそう注文を頼んだ行為ですら彼女のわけが分からない笑いのツボを刺激してしまったらしい。もう飲まずにやってられるか。ふー、と長い息を吐き、こめかみに浮かんだ青筋を宥めるため僅かに残っていた水増し増しのウイスキーを一気に飲み干す。彼女は椅子の背もたれに最大限寄りかかり天を仰いでは、思う存分笑っていた。

「はー、笑ったわ」
「それは何よりです」
「めちゃくちゃ機嫌わる!」

 誰のせいだ。本当、私はなぜこの女が好きなのか理解に苦しむ。だけど、

「言ったでしょ」
「……なにをです」

 到着したアルコールのきつい匂いを放つグラスに口をつけたまま彼女へと視線を向ける。ふふ、と笑うその視線は細められ、私は、

「七海は、ここにいてくれればいいよ」

 彼女が好きだと、思い知らされるんだ。