十四話


「……」

 死体安置所を出た先。街灯も少ないその場所で、月明かりだけがその揺らめく影を照らしていた。

「身体はどうですか」

 ゆっくりと歩み寄りその人にそう問い掛ける。が、俯き表情の見えないままの彼女は、ピクリとも動きはしなかった。まだ昨日のことを怒っているのか。となればその解決策を導き出すことは些か難儀だ。どうしたものか……剥き出しのシャツを捲り上げ、腕を組んで思案する。頭に浮かんだのはやはり死を覚悟した際に思い出した一度きりの喧嘩で、そこに糸口を探したモノの喧嘩したという事実すら忘れていたくらいだ。視線を緑生い茂る闇に向けようとも、閃きが流星の如く舞い降りるわけもなかった。そもそも状況が違う。思い出したとしてそれは、今も通用するとは限らないのだからその行為すら無意味なのかも知れない。ならば、私が取れる手段は一つしかなかった。

「あの、昨日は、!」

 一歩、踏み出した彼女の頭部が項垂れ、それは私の胸に衝突して動きを止めた。あけすけになったつむじが見下ろしたそこに晒され、色のない風が彼女の髪をそっと撫でている。……静寂が、私たちの間を駆けていった。言おうとした謝罪を堰き止める体温は、まるで何かを確認するかのようにじっと、そこに当て付けられている。

「ごめん」
「……あなたから謝るなんて、明日は槍が降るかも知れませんね」
「私が倒れなければ、呪霊、祓えたでしょ」

 どうやら、私の謝罪の行く末と、彼女の向かう先は違っていたらしい。確かに彼女が意識を失った後、あと一歩まで追い詰めた呪霊は取り逃してしまった。だがそれは彼女の所為では決してない。虎杖くんも、限界だった。当然だ。私が到着した時点で彼の身体には幾多の穴が空いており、おまけにその状態での戦闘に加え敵の領域をも破っている。

 それに彼は、"友人"を亡くしていた。長く持つわけがなかったんだ。彼女がいればそんな虎杖くんを任せ私が追うことは出来たかもしれない。だがそんなたらればの話に今更意味はないのだから、誰かに責任を押し付けることこそ無意味なのだ。

「それこそ、あなたらしくないですね」
「え、」

 ふう、と息を吐き、片手を腰に当てれば、彼女が驚いたように顔を上げた。そんな反応をされるようなことを言った自覚は微塵もないが、逆をいえばこの言葉で驚いた彼女に驚いた、と言っても過言ではない。

「いつものあなたなら私にあのくらい祓えと罵るでしょう」
「ちょっと、私そんなひどい奴?」
「今更気付いたんですか」
「否定しろ」

 ドス、と控え目にぶつかった額とは裏腹に、今度は無駄に重い拳が胸に宛てがわれた。そんないつもの彼女らしい返しについ口の端から息が漏れれば、彼女は一瞬瞠目して、そしてその視線を逸らす。罰が悪いのは、どうやら彼女の方らしい。

「ばか七海、」

 そう、再び彼女が私に身を預けた。本当、しおらしい彼女ほど気持ちの悪いものはない。いつだって勝ち気で、呆れるくらい怖いものなんてなくて、こちらが慄くほど彼女は前を見ていた。だから彼女がこんな風に足元を見て立ち止まってしまうのは違和感しかない。それに、そんな違和感を抱いた時は大抵、よくないことが起こっていたから。

 それでも「ありがと」と呟く声は第一声よりも小さくて、そんなところは彼女らしくて、こんな彼女も悪くないと思ってしまう。だって彼女の弱った姿を見れるなんて、未確認生命体に出会うくらいの確率だろうから。こんなことを言えばまた、殴られてしまいそうな気もするが。

「もういい時間ですし、食事でも行きません、か」

 呼吸だけを繰り返して尚、動き出しそうにない彼女にそう言った。が、それはぎゅっと私のシャツを握る手に感じた震えによって尻すぼみに消えていってしまった。──ああ、と彼女が次に言う言葉が分かって、彼女を映した視線を細める。彼女の息を震わせたのは、秋の夜長に吹いた少し冷たい風じゃない。その原因はきっと──

「死んだかと思った」
「……私も、そう思いました」

 そんな私の言葉に握った手は力がこもり、奥歯を噛み締める気配がした。領域内から出た後の彼女の表情。あの時は起こった事柄に混乱し噛み砕くことの出来なかった彼女の見たこともない生気のない青ざめた顔は、思い起こせばこちらまで胸が痛むほどだった。おまけにそれを原因とした意識の喪失、目尻を拭った時の……涙。罰が悪いのは、今度は私の方らしい。

 あの瞬間、本気で死ぬんだと思った。あの状況下ではそれしかないと、もう、この人には会えないのだと、覚悟した。それでも──

「生きてますよ、まだ」
「っ、あったりまえでしょ! 七海のばか!」

──あ、
 ふと、声が二重になって聞こえた。凍てつくような寒い日、そうだ。あれは、雪で遊んだ翌日に彼女が風邪を引いた時のことだ。私たちは些細なことで喧嘩をして、灰原に促され彼女の自室に赴いたというのに、そこに病人の姿はなくて……私は高専内を外套も羽織らず駆けずり回る羽目になったんだ。

『七海の、ばか!』

 あの時も、そう言われたんだ。白い息を吐きながら、葉のひとつも付けていない木の下で蹲る彼女に。

 断片的な記憶の欠片。どうしてこうなったのか、この後私が彼女になんと言ったのかは映像として流れてこない。だけど、

「おんぶ、しますか?」

 そう、彼女に要求された。互いに悴む手と鼻先を赤くしながら、互いのせいで寒いと悪態吐きながら、それでも重なった部分はやたら熱くて……どうして忘れていたか、と言えば、その翌日に私が高熱に魘されたことにあるのだろう。

「……丁重に扱ってよね」
「善処します」

 彼女が、あの日のことを覚えているのかは分からない。だけど、その瞳に月光を集めながらもむくれた頬が、彼女に背を向ける直前緩やかに弧を描いたあたり、彼女の機嫌を直す最適解を見つけられたようだった。

 少し屈んだ両肩から彼女の腕が伸び、それは私の首元でクロスしては背中に体温がぶつかる。飛び乗った彼女の両足を抱え、私たちは影を一つにして歩き出した。

……私たちは、呪術師だ。いつ死んだっておかしくはないし、あの時死んでいた可能性の方が大きい。受け入れたはずだ。分かってたはずだ。あれは予期せぬ出来事ではない。この世界にいればすぐ隣に常にあり、首元にいつも突きつけられている現実だ。だけど今は、今だけは彼女の暖かな腕が触れている。生きて、いる。昨日も一昨日も、十年前も、この人に別れを告げても、尚。当たり前のことのようだが、あんな心境になればいやでも実感してしまう。これは、当たり前ではないことを。

 奇跡なんてものはない。私が思う以上に虎杖くんは呪術師だったと言うだけだ。例えそれに私が恐れを抱いたって、彼にいくら諭すような言葉を吐いたって、虎杖悠仁という人間はこうして他人を救っていくのだろう。今日のように苦しみ、もがき、葛藤しながらも真髄に呪術師としての道を歩み進める彼の姿は、私には眩し過ぎるくらいだ。

「七海」
「なんです」

 誰も通らない夜道で、彼女の声が私の名を呼ぶ。地面を踏みしめる音だけが静寂の中響いて、まるで世界には私たちしかいないとさえ錯覚してしまった。そして……そんな世界も、悪くないと。

「死ぬって分かった時、何を思った?」
「……」

 空白、私はその問いにすぐには答えられなかった。「私は」そう言ったはいいモノの次の言葉が出てこない。見つめた影は足元から伸び、地面に私たちの存在を記している。私は、さもそれが当然かのように……この世界になにも、残して逝かないようにと思った。潔く、彼女にさよならを言って、そして、私は最後に──

 ぎゅっと、前に回った腕が力強く私を抱きしめた。その温かさ、心地よさに足元から湧き上がった感情は、昨日彼女に告げようとしたものと同じだ。いや、子供じみた苛立ちがないあたりほんの少しの違いではあるが、それは大きな差だった。

「……私は、」

 もう一度、今度は視線を背後の彼女へと向け言った。ぴったりと張り付いていた彼女の身体が僅かに離れ、私の肩に彼女の両手が添えられる。そんな僅かな距離で、暗闇の中、彼女と視線が合わさった。

 私が小さく息を吸う代わりに彼女はその瞳を大きく開き、息を止める。今思えば考えることなどもっとあったはずだ。私にだって非術師といえど家族もいる。だけど、浮かんだのは彼女だけだった。そして例え、何度あんな場面に出会したとしてもそれは同じなのだろう。この命が完全に消えてしまうその一瞬まで、きっと私は──

「──あなたを、」
「!」

 途端、耳を劈くような音があたりにこだました。ピクリと肩を跳ねさせた私たちは慌ててその音の発生源を探し、それが彼女のポケットから鳴ってることに気付いた。

「げ、五条じゃん」
「……出ないとあとが厄介ですよ」
「めんどくさ」

 はぁ、と一つ盛大に溜め息を吐いて、彼女はその端末を耳へと当てた。

『やっほーみんな大好き五条さんだよ!』
「うぜえ」
「本音が漏れてますよ」
『お、七海もいるね』

 至近距離にいるからか、互いの声は筒抜けだ。そんな五条さんの言葉に、彼女は携帯に当てた耳をぐっと私へと寄せ、よりその声が聞こえやすくする。互いの髪が触れそうな距離。私たちの間にあるのは薄っぺらい無機物だけだ。

『ご苦労様、まずお前たちにそう言いたくてね』
「労うなら休みの一つくらいよこせや」
『ん? それは無理』
「要件はそれだけですか」

 学生時代からの経験により、この二人に会話をさせ続けるとろくなことがないことを知っている。まぁ昔のように彼女の首根っこを掴む、なんてことには流石にならないが、静かに荒れ狂う空気は秋雨前線のように長く停滞するのでこちら側はうんざりしてしまうから困りものだ。

『まぁあとは僕の可愛い後輩たちが寂しがってるかなって』
「無用な心配なので切ってもいいですか」

 こちとら一世一代、長年溜め込んだものを吐き出す機会を邪魔され、表には出さずとも心中穏やかじゃない。加えて内容がドーナツの穴のように見えるようで見えないのであれば尚更だ。

『なになに、七海機嫌悪いじゃん。もしかしてお邪魔だった?』
「ええ、とっても。なので切っても」
「五条、」

 畳みかけるように同じ言葉を繰り返そうとした私の声を遮ったのは、凛とした彼女のそれだった。顔を並べているため視線だけを彼女へと向けたが、当然その表情は見えやしない。だけどその声音から私は口を噤み、息を殺して彼女の言葉を待った。

「私、あんたとは結婚しない」
「!」
「その気は一切ないって言っておかなきゃと思って」

 はっきりとした拒絶。昨日、自分の幸せは自分で決めると言った背中が脳裏に浮かんだ。引き締まり、彼女から滲み出る意志の強さはその場の空気を切り裂き君臨する。例えその眼前に、最強の男が居ようとも。

『ごめん、なんの話?』
「は?」

 私も、きっと彼女も、自分の耳を疑った。彼女は耳から端末を剥がし、画面を確認している。恐らく表示された名前を確かめたのだろうが、そんなもの確かめるまでもなくて。

「はあ!?」
『僕とお前が結婚? 何それ面白そうじゃーん。日取りはいつにする?』
「しねえつってんだろ!」
『七海に余興やらせようぜ。特大にバカっぽくて面白いやつ』
「……はぁ、」
「バカはお前! 死ね!」
『それは無理かなぁ、お前らも知ってる通り僕最強だし』
「うざ!」

 本当、どうしてこうなるのか。随分落ち着いたはずの口調さえもあの頃に戻ってしまった彼女は、「じゃあな!」とほぼ叫ぶように一方的に電話を切ったようだった。となれば私たちにのし掛かったのは要らぬ疲労で。

「……疲れた」
「……同感です」

 あと右耳が痛い。キーンとハウリングのような耳鳴りが鼓膜の奥で響いていたが、これはもう全面的に五条さんが悪いので咎めはしなかった。それにこれは、私の所為でもあるのだから。

「……すみませんでした」
「いや、もういいよ。わかってる、つもり。私こそごめん」

 俯き見た影は、ほんの少し短くなっていた。先の言葉を探し、だけど見つけられない中、コツン、と私の肩に彼女の額が降り注ぐ。それを見つめていれば、「でもね」と彼女が体勢そのままに視線をこちらへと向けた。

「覚えておいて。私だって、七海の幸せを願ってる」

 見開かれていく瞳に、月に染められた声にならないほど綺麗な彼女が映る。きらきら瞬くその景色は、もう十年以上私の心を捉えて離さないのだからいい加減うんざりした。

「あ、そういえば死ぬ時私が浮かんだんだよね」
「……死にかけた時ですよ。まぁ、そうです」

 勢いよく顔を上げ肩から身を乗り出した彼女に、誤魔化すように再び歩き出す。彼女は先ほどの会話を終え、掘り返す作業に夢中になっているようで、爛々とした視線が私の横顔に嫌というほど突き刺さっていた。

「なんて思ったの?」
「それは、」

 ぐっと、唾と共に言葉を飲み込む。私は、あなたが──

「あなたが、新たな生徒にセクハラをして訴えられないか心配してました」
「は?」
「この先コンプライアンスは厳しくなっていきますからね。いくら親しくなるためとはいえ、あの挨拶ではいずれ法律に触れます」
「ちょっと! 死ぬ間際にそんなこと考えてたわけ!?」
「ええ。ですから、まだ死ねないな、と」
「!」

 同期が犯罪者になるのは勘弁してほしいですから、と付け加えたが、きっと彼女の耳には届いていないだろう。「ふふふ、」と薄気味悪い笑い声がしたが、やはり彼女の表情を確認することはこそばゆくて出来やしなかった。

「っ、何するんです……! ちょ、暴れないでください!」

 そんな私の頭を、彼女は無遠慮にわしゃわしゃと撫で回し、はしゃぐ子供のように足を揺らす。

「七海ー大人になったねぇ!」
「今更ですか! ……全く、」

 散々こねくり回し満足したのか、止んだ手にそう溜め息を吐けば、彼女は「へへ、」と悪戯っ子のような笑みをこぼす。子供じみた彼女に大人になったと感心されるこっちの身にもなってほしい。あと、頭を鳥の巣にされたことも含めて。

「!」
「……七海はさ、ここにいてよ」

 ギュッと、背後から私の肩を抱き、顔を埋めた彼女の鼓動が聞こえた。ああ、そうか。きっと彼女は私の胸に額を当ててこれを聞いていたんだ。証明のような、心臓の音を。

「ええ、わかってます」
「そりゃよかった」

 ふっ、漏れた吐息は安堵に満ちていて、ようやく今日という長い長い一日の終わりを、私たちに告げていた。