十三話


「な、七海サン……?」
「なんです。手を止めている暇はありませんよ」
「いや、それは分かってるんすけど」

 呪霊と成り果てた人間が蠢く地下下水道。応援に呼んだ猪野くんと共にその殲滅を施している最中、彼は自慢の後輩力を陰へと押しやりながら口を開いた。そこに見えるのは好奇心か無謀さか。蛇か鬼の出るパンドラの箱を躊躇いながらも彼は確かに開けていく。

「今日は随分機嫌悪いっすね……?」
「なんのことですか」
「無自覚? いや七海サンが気付いてないとかあるか……?」
「猪野くん、もごもご言っていてはなにもわかりませんよ」

 言いたいことがあるならはっきり言いなさい、と顎に手を当て首を捻る猪野くんにちらりと視線を送った。低級といえど数が多い。その上先日のツギハギ呪霊が出て来ないとも限らない。集中力の欠けたままでは怪我をする恐れもある。だから促すためにサングラスの奥の瞳をじっと凝らせば、猪野くんは「あー……」と頭を掻きながらもその視線を私へと向けた。

「あの人となんかあったんすか?」
「……」
「やっっぱ聞いちゃいけない感じっすよね!? すんません!!」
「……いえ、しかしなぜ彼女が出て来るんです」
「え、七海サンあの人以外でそんな機嫌悪くなることあるんすか?」

 猪野くんのさも当然だろうとでも言いたげな物言いについ口を噤んでしまった。苛立つことは多々ある。例えば突然電話を寄越してきたかと思えば一方的に仕事を押し付ける上司とか、人の食事を容易く邪魔し神経を逆撫でするだけ逆撫でて去る上司とか……私の気持ちを知りながら平然と彼女を婚約者だと紹介する先輩とか。全て同一人物ではあるが仕事にまで引きずるほどではない。まぁ、発端ではあるが。
 つまり、認め難くも猪野くんの言葉は上から下まで的を得ていた。今日一日、いや、昨日から絶えずある眉間のシワが更に深さを増したことに、猪野くんは両手が音を鳴らしそうな程振り、再度謝罪をした。集中力が欠けているのは明らかに私の方だった。言うまでもなく、彼のそれを削いでいるのも。

 昨日、言い合いをして別れたきり彼女との連絡は途絶えたままだった。──話がしたい。そう送ったメールの返信もないままだ。辛うじて伊地知くんからは川崎市内のホテルに泊まっていると報告を受けたが、朝集合した時にも彼女の姿はなかった。

「はぁ、」

 視線も合わさず立ち去った彼女の、初めてに近い圧倒的な拒絶。その後ろ姿を思い出せばつい溜め息が漏れた。それを自分の所為だと勘違いし慌てふためく猪野くんに「気にしないように」と、無茶を言って無理やり話を終えた。

『私の幸せは、私が決める』

……その通りだと思った。そして、彼女を庇護しておきながらその手を引き寄せない中途半端な私に、彼女の"幸せ"なんてものに干渉することも、ましてや"最上のそれを手にして欲しい"だなんて、余計なお世話もいいところだ。だけど……

『あなたにだけは、渡したくないですね』

 何故あんなことを言ってしまったのか。間違いじゃない。今だってそう思う。だが、口に出すべきではなかった。昨日だって、紡ごうとすべきではなかったんだ。だからこんな風に後輩にまで気を遣わせる羽目になっている。大人になったつもりだった。だけど、まだまだ私の中には子供じみた感情が残っているらしい。いやきっと、あの頃を共に過した人たちの前ではどう足掻いたって呼び起こされてしまうのかもしれない。だがそんな感情に流され、彼女に手を伸ばすなんて……してはいけなかったんだ。

「……」

 呪霊に囲まれる中、着信を知らせる内ポケットの振動にいい予感はしなかった。それでも、ほんの少し彼女だったらという期待を滲ませた手はすぐさま携帯を掴んで画面を見る。そこには虎杖悠仁の名前があった。まぁそうだろうなと、思いながらも、僅かでも落胆が声音に出てしまわぬ様に平静を装い「はい」と短く声を発した。

 報告内容は予感の通り最悪だ。虎杖くんたちに見張りをお願いしていた吉野順平の通う高校──里桜高校に突如帳が下ろされた。そこに虎杖くんは行くと言うが、私が遭遇したツギハギ呪霊がいる可能性は非常に高い。そこに、まだ呪術師でもない彼を向かわせるわけにいかなかった。だが同時に、そう言ったとしたって彼が素直に聞かないこともまた、分かっていたことだ。

『七海、ダメだって?』
「!」

 電話の向こう。少し離れたところから、でも確かに間違えようのない声が聞こえ、平静を装っていた瞳が僅かに揺れた。コツン、コツン、と徐々に大きくなる足音と重なるように、心臓が嫌な拍動をする。彼女がそこにいることはなんの不思議もない。私たちは虎杖くんを五条さんから任され、そして彼女には虎杖くんと行動を共にするよう昨日伝えたのだから。だが、それこそ昨日の様子からして共にいる可能性は少なからず私の中で減少していた。いや恐らく、そう願っていたのかもしれない。今この状況を思えば、彼女が次にいう言葉を、私は知っているから。

『私が一緒に行くよ』

 ああ、本当に、最悪だ。携帯を耳に当てた状態ではないが、はっきりと聞こえた宣言にそう思わざる得なかった。

「虎杖くん──チッ、」

 呼び止めようとした言葉は、なんの音もしなくなった無機物に拒絶されつい悪態が口から漏れてしまった。が、もう構ってはいられない。猪野くんにその場を任せ、薄暗い地下水道から踵を返しそこを後にした。
 虎杖くんの目的は友人となってしまった吉野順平の安否だろう。とはいえ悠長にはしていられなかった。

『友情が生まれる場所に時も立場もないでしょ。特に、ああいうタイプはさ』

 そう言った彼女の言葉が脳裏を過ぎる。理解、出来ないわけじゃなかった。同時に浮かんだのは昨日虎杖くんと肩を組む彼女の表情と、その虎杖くんを通して見えてしまった、かつての親友だ。何がそうさせたのか、分かりはしない。いや私はきっと、分かりたくなかったのかもしれない。



 里桜高校に到着すれば、その異変はすぐに気付いた。校舎全体を覆う帳の中に入り、混乱さえあってもおかしくないはずのその場所はまるで人間などいないかのように静まり返っている。

──! 中庭か。

 激しい衝突音に、スーツの裾を翻し走り出す。どうかそこに、彼女がいないようにと願って。

ナナミン……!」

 その姿を視界に入れた時、彼──虎杖くんはツギハギ呪霊に背後を取られていた。すぐさま背から鉈を取り出し応戦。待機しろと言ったにも拘らず動いたことに対する説教は後でと伝えつつ、呪霊に目を配ったまま現状報告を促した。

「先生は体育館で倒れてた人をお願いした。なんかナナミン、あの人に戦って欲しくなさそうだったし」
「……」

 二人助けられなかったこと、自分の身体には穴がいっぱい空いているけど平気なことなどを告げた後、彼は私の心を見透かしたようにそう言う。私もまだまだだな、と思う気持ちとは裏腹に、どこまでも他人を気遣う彼だからこそ見抜かれてしまったのか、とも思った。同時に、彼のパーソナルスペースにはすでに自分という存在が入ってしまっていることに、驚きと言い知れぬ恐れのようなものを感じた。

 前回の戦闘で私の術式は相性が最悪なことが分かっている。祓うことはほぼ不可能な上に奴の手に触れ術を発動させられた時点でアウトだ。だが、虎杖くんはそんな奴の手に触れ、しまいには呪霊に傷を負わせていた。恐らく、虎杖くんに奴の術式が効かない、もしくは殺せない理由があるらしい。どちらにせよ好都合だった。

「ここで確実に祓います」

 彼女が、現れる前に。
 だが、ことはそう容易くいくわけもない。術式の相性や生まれたばかりということを差し引いても、奴の階級は一級とはとてもじゃないが言えなかった。それでも、一度は分断されつつも舞い戻った虎杖くんと攻撃を重ね、その命を絶つ──間際、それは起こってしまった。私が最も恐れた、奴の可能性。

「領域展開」
「!」

 猛烈な呪力の上昇。瞬く間に無数の手が襲いかかり、私だけを飲み込んでいく。刹那、私を呼ぶ彼女の声が、聞こえた気がした。

「クソッ、」

 暗い闇。手と手を取り合い出来た網目模様で作られた檻の中、私は文字通り奴の手の平の上にいる。必中効果のある領域内。そして奴の術式は触れたモノの魂に干渉する、だとしたら……私がこの場を生きて出られる可能性は、ゼロだ。

──ここで、終わりか。

 それは、いつか訪れるモノだとは思っていた。そしてきっと、唐突に私の前に現れるとも。

「今はただ、君に感謝を」

 そう呪力を込める呪霊に、覚悟を持ってサングラスを外した。呪術師はクソだ。だからやめた──というより逃げた。それでも私は、戻って来た。

『ありがとー!』
『ありがとう、灰原』

 鼓膜を心地よくなぞる声は、忌まわしき日の記憶のものだ。ああ、そうか。どうして戻ってきたか、もしかしたら私は、そう彼女に言って欲しかったのかも知れない。自分が事切れたあと、彼女に……アイツと、同じように。

「必要ありません。それはもう大勢の方に頂きました」

 ああでも、喧嘩別れをしてしまったのはほんの少し悔やまれるかもしれない。私たちらしいといえばそうかもしれないが、こんな風に口を聞かないまでになったのは初めて──いや、そう言えば高専時代たった一度だけ、こんな風に彼女と喧嘩した日があった。あの時はどう仲直りをしたんだったか、思い出せない。まぁ恐らく灰原が間に入り、私が謝ってことを済ませたのだろう。ならば、仲違いが長引くのは仕方がないことだ。仲裁する男はもう、いないのだから。

 というか、あんなに怒らなくてもいいだろう。大人にもなって……と思えばこんな状況だというのに苛立ちさえ湧いた。願うくらいいいじゃないか。生涯たった一人想いを寄せた人の幸せを祈って何がいけないんだ。私は、君が幸せであるなら──なにもいらない。それは紛れもない、私の本心なのだから。

 それでも、こんな風に私を眼前にしても恐怖さえ抱かないのはきっと、彼女のおかげなんだ。ありがとう。どうか、どうか少しでも長く生きて、願わくば……幸せに。そして、出来ることならここで死ぬ私にも同じ言葉をかけてくれたら嬉しい。そうだとしたら、私はもう──

「──悔いはない」

 きっと、そう笑って君に別れを告げられるから。
 さよなら。憎たらしくも、痛いくらい愛おしい人。私は、ずっと、ずっとあなたが──

「!」

 それは、ガラスが割れるような音だった。死を覚悟した私の頭上から漏れた、一点の光。そこから舞い降りる──一人の少年。瞬きすら忘れた瞳は、ただ恐ろしいまでに眩しすぎる輝きを見つめていた。

 五条さんから生得領域のことを聞いていたはずだ。私だってこのツギハギ呪霊の術式は連携していたはずだ。例え彼にこの術式が効かない、もしくは殺せない理由があるとしたって、それは全て可能性に過ぎない。だが虎杖悠仁という、ついこの間まで一般人と変わらなかったはずの少年は、躊躇いもなく死地へと足を踏み入れた。

──ああ、恐怖の正体はこれか。

 自分を顧みない。その盲目的で、クソみたいな呪術師としての素質。それよりも彼はもっと純粋で、どこまでも危うい。私はきっと、彼のそんな部分に恐れを抱いた。きっと彼はこの先、その真っ直ぐさで自分を殺すことになるだろう。そんな予感さえ感じて、私はようやく五条さんが彼を託したいと言った本当の理由を垣間見た気がした。

「なな、み」
「!」

 突如血飛沫を上げ呪霊が膝をついたことによる領域の消失。何が起こったのかと呆然とする私の耳に、羽風に乗った声が聞こえハッとした。そこへと視線を向ければやはり彼女がいて、領域に飲み込めれる前に聞いた声は空耳ではなかったことを知る。

 まさか、また会えるとは。そんな感情が真っ先に湧き上がって足が止まった。だからかも知れない。彼女の身体がたった数分で負った心労に耐えられなくなったことに、気付くのが遅れたのは。

「ナマエ!!」

 数メートル先にて、彼女の身体が前のめりに崩れていく様に、体温が急速に下がったのが分かった。同時に、瀕死の呪霊にとどめを刺すべく走り出した虎杖くんの存在も。だがそんな彼を横目に彼女へと駆け寄り、その肩を掴んで状態を起こす。

──息は、してるな……。

 瞼は閉ざされたまま動かずとも、その僅かだろうと繰り返される呼吸に胸を撫で下ろした。だが、彼女の目尻に見つけてしまったモノに、人知れず顔を顰める。ぐっと拭ったそこは微かに、だけど確かに、私の指先を濡らした。