十二話


『人間だよ』

 スピーカー越し、私たちの先輩に当たる家入りさんの結論に、私たちは小さく息を呑んだ。術式で身体の形を変えられているだけなのであれば私と彼女だってすぐに気付いたはずだ。だが二人して呪霊がしているはずもない腕時計を見るまで気付けなかった。こんなことは、本来ならば有り得ない。あっては、ならないことだ。

「脳を弄る術式なんて聞いたことないよ。そんなんあり?」
『なんだ。お前が任務に出てるなんてよっぽど人手不足か?』
「彼女が勝手についていただけですよ」

 私がそう言えば、家入さんは納得したようにクスクスと笑う。戻って来てから大人しくなったと思ったが変わらないな、なんて、恐らく五条さんよりも世話になっているであろうその人の言葉は重い。彼女は文字通り、家入さんがいなければとっくの昔に死んでいるのだから。

『七海、よく見ておいてくれよ。もうそいつの治療はゴメンだからな』
「……すみません家入さん」
『……記録更新だな。お前だけで私の呪力が五年は尽きる』
「んな大袈裟な」
『もうすぐ四桁だぞ』
「あー……硝子さーんその話は帰ったら聞くんで」
『ふふ、そうだな。ちゃんと帰ってこいよ』

 どうしたらそれほどの数字になるのか。いくら学生時代のことを考慮したって意味が分からない。そんな顔を彼女へと向ければ、彼女は明後日の方へ視線を流し言葉を濁した。
 その横顔に押し付けられた布が赤く色付いている様に人知れず顔を顰める。だが彼女が虎杖くんを制するために一瞬とはいえ使った呪力操作をしこれだけの怪我で済んだのは、それに起因するのかもしれない。かつて目の前で行われた時には、彼女の血で湖さえ出来てしまいそうだったのだから。

 結果元人間であった呪霊に、まだ人を殺めたことのない虎杖くんへの言葉を残し家入さんとの通話を切る。趣味が悪すぎると怒りを顕にする虎杖くんにちらりと彼女と視線を合わせ、立ち上がった。思うことはどちらも変わらないらしい。五条さんのいう通り、彼は優しすぎる。それ故に、脆いであろうことも。

「これはそこそこでは済みそうにありません。気張っていきましょう」
「応!!」

 それからはこの周辺の変死体、及び失踪者の数や場所をまとめ、敵のアジトを割り出す作業に移った。川崎市内にある高専が所有している一室を拠点とし、ボードに張り出して彼女が近くのカフェで買って来てくれたコーヒーに口を付ける。虎杖くんと伊地知くんはその間外へ出ていた。

「一人で行く気?」

 同じように張り出された地図を眺め、同じように粗方のアジトに目星を付けたであろう彼女が、同じようにカフェで買って来た飲み物に口を付けながらそう言った。

「ええ、リスクを考えればそれが妥当でしょう」
「私は一度持ち帰る方がいいと思うけど」
「私で対処出来なければそれこそ高専にこの件を片付けられる人は五条さんくらいしかいませんよ」
「それでも一人で行くにはリスクがデカすぎる。わざと残した残穢といい少なく見積っても相手は一級……いやそれ以上が出てくる可能性の方が大きい」

 私は反対だと、鋭い瞳が下から私を睨み付ける。彼女の言っていることは最もだ。だがまだ相手を確認もせず帰ったところで上が動く可能性が少ないこともまた、分かっていた。

「あなたは先に高専に戻り治療を受けて下さい」
「はぁ? 治療するほどの傷じゃないでしょ」

 そう大きなガーゼをこめかみに当てている姿は確かに術師であれば大したものではないのかもしれない。だが一度街を歩けば通りすがる人間はその怪我に目を向ける。そんなものを彼女が気にしていないのは分かっていた。だが、

「そういう問題じゃないんですよ」

 そこを指の甲で撫でれば、柔らかくさらりとした生地の感触のあと、そのまま患部にかかった彼女の髪を指に掛けてフェイスラインに沿って流した。細めた視線が彼女にバレる前に地図へと目を向け、誤魔化すためのわざとらしい溜め息を吐く。

「あなたも一応女性なんですから。一応」
「一応ってなんだよ。しかも二回言うな」
「それに家入さんに怒られたくないですし」
「わかったわかった。もう呪力は使わないってば」

 これでいいでしょ、と降参と言わんばかりに両手を掲げるもその態度は不服そのものだ。だがまぁ、これから虎杖くんと離れ行動することになる。伊地知くんがついているとはいえ、何かあった時の保険は欲しいところだった。無茶しないのであればこれ以上信用出来る人間はいない……のだが、彼女自身が私の心配の種であること自体が、そもそもの判断を鈍らせてしまう。

 この思考は彼女を知るが故のものか、大切に思うが故の私情なのか分からなくなってしまう。だからついて来るなと言ったというのに、何年経とうとも彼女に振り回されることに変わりはないらしい。

「たっだいまー!」
「おかえり」

 元気よく帰ってきた虎杖くんと伊地知くんに場所の特定を済んでいることは伏せ、映画館の監視カメラに映っていた少年の調査をお願いした。一見ただの少年ということもありマークするに事足りないと思われた人物だったが、警察の調査によれば被害者と高校が同じと言うこともあり全くの無関係というわけではないらしい。その是非の判断のため半分、そしてアジトに乗り込む間の嘘半分だが、彼女を前線から遠ざけるためにも程のいい言い訳だった。まだこの時は。

 やる気に満ちた虎杖くんが部屋を後にし、閉まった扉を確認して伊地知くんが足を止める。もう場所は割れているのですよね、と問う彼に肯定をして、彼女が再び瞳を曇らせた。まだそこは納得してはいないらしい。が、彼女が口を開く前に閉まっていた扉が再び勢いよく開き、三人で肩を揺らしては彼女も思わず口を噤んだ。

「七海先生ー! 言い忘れてた! 気を付けてね」
「……虎杖くん、私は教職ではないので先生はやめてください」
「じゃあ、ナナミン……」
「ぶっ!」
「ひっぱたきますよ?」
「な、な、ナナミン……! やばっ!」

 腹いてえと目に涙を溜め差された指をぎゅっと摘んでこれでもかと眉間にシワを寄せたが、その行為は「この顔でナナミン!」と彼女を更に笑い転がせるだけだった。ひとしきり笑った後、彼女は虎杖くんの肩に手を置き、今日会ったばかりとは思えない程親しげに部屋を後にした。その姿は、私たち三人が初めて顔を合わせた日と重なり、やがて消えていく。

「虎杖くんのこと頼みましたよ。あと、彼女が何かし始めたらすぐ連絡ください」

 あとが面倒なんで、と付け加えれば、伊地知くんは一瞬の間のあとくすくすと笑った。彼女や他の軽薄な最強術師ならまだしも、彼に笑われるようなことを言った覚えはなく小首を傾げれば、伊地知くんは「すみません」と口元に置いた手を下ろした。

「心配なんですね」
「どうしてそうなるんですか。私はただ」
「あの方もそうだと思いますよ」
「……わかってます」

 昔馴染みとは時に厄介だ。上っ面だけ見れば信用していないのかと捉えられても仕方がない言い方だというのに、そう見透かされてしまってはこれ以上何も言えやしなかった。「お気を付けて」と言い残し去って行った伊地知くんは優秀だ。だからこそ五条さんの我が儘や面倒事に付き合わされる羽目になる。それは彼の後輩という立場になってしまった私たちにも言えたことだが、精神面の負担でいえば彼のそれは私たちの比じゃない。精神疲労による死因欄に五条悟と書かれるのは笑い話にもならないのだから早急に対処すべきだとは思うが、相手が五条さんの時点でそれは詰んでいる。だから、私たちはそうならないよういるかも分からない神に祈る他なかった。


 地下水道奥。対峙した呪霊は恐らく、ほぼ確実に五条さんが遭遇した領域展開までした特級呪霊と繋がっているだろうことが伺えた。まだ発生してから間も無く、自らの成長を楽しんでいる節があり、奴がその域に達するまで時間はかからないだろう。加えてこちらの予想を遥かに超える被害者数。最悪なことに、彼女の危惧は正しかったことになる。早急に祓わなければ、大変なことになる。痛めた脇腹を押さえ携帯を耳に当て伊地知くんに連絡を入れれば、彼は開口一番に謝罪をし、首を傾げる。

「彼女は大人しくしてますか」
『そういえば先ほど買い物に行くと言ってきり、』
「!」

 街の外れにある人気のない公園にある公衆トイレを選んだつもりだったが、その扉がゆっくりと開く気配に血のついた箇所を上着で隠した。が、

「……それはもういいです。私は一度高専に戻り家入さんの治療を受けます」
『!、治療って』
「大丈夫、死ぬような怪我じゃありません」
『すぐに虎杖くんと合流、そちらに向かいます』
「……一緒にいないんですか?」

 まぁいい、と伊地知くんに現在地の情報を送り電話を切った。ことの詳細は、目の前の彼女に聞いた方が早い。

「いつからつけてたんです」
「失礼な。アジトの場所から割り出したに過ぎないっての」

 優秀だよね私、と手洗い場に買い物した品々を並べる彼女に顔を顰めた。ビニール袋から出てきたのは消毒液に大判のガーゼ、それに包帯と、まるで私が怪我をしているのが分かっていたようなラインナップだ。

「悠仁なら大丈夫だよ。映画館にいた少年──吉野順平はいたって普通の子だ。一般社会のどこにでもいるね」

 その言い方はまるで、その中に数ヶ月前までいたはずの虎杖くんは普通ではないと言っているかのようだった。

「今頃お友達にでもなってるんじゃない?」
「監視対象と友達になってどうするんです」
「友情が生まれる場所に時も立場もないでしょ。特に、ああいうタイプはさ」

 ほら、早く脱ぐ。と有無を言わさぬ下からの視線に躊躇いながらもシャツのボタンを外し傷口を晒した。ピリ、と軽快な音を立て封を開けた袋から取り出したガーゼに消毒液を吹きかけ、なるべく痛みが急激に訪れないよう傷の端から当てがわれたがやはり電気のように走った痛みに顔が歪んでしまう。

「人の言うこと聞かない罰だね」
「あなただって私の言うことを聞いた試しがないでしょう」
「私はいーの」

 横暴だ。彼女は、昔から。それに私がムッとしようとも、その唇は緩く弧を描いたまま微塵も気にする様子がないことも。その手は慣れたように血を拭い、下処理を終え再び買い物袋を漁る。呪術師に怪我はつきものだ。その淡々とした作業に迷いも戸惑いもありはしない。それを私はただ、されるがまま見下ろしていた。ほんの僅かな、疼きを抱えながら。

『僕の婚約者でーす』

 彼女を虎杖くんの紹介した時の五条さんの言葉が、忌々しく思えるほど軽快な声に乗って脳裏に蘇る。高専時代の私であればただ全てを飲み込むことしかしなかっただろう。その飲み込んだモノが吐き出されないよう首を絞め、目を閉じていた。それが、一番いいと思っていたからだ。

「ちょっと七、海……」

 医療用テープで患部に当てていたガーゼを固定していた腕を掴めば、彼女が邪魔するなと言わんばかりに眉を顰め顔を上げた。が、私の細めた視線と俯き顔にかかっていた髪を耳にかける仕草に、動きを止め私の次の言動を待った。そう、それが一番いいと思っていた。相手が、灰原だったから。アイツなら彼女を幸せに出来ただろう。だから飲み込んだんだ。灰原が彼女を「好きです」と言った時に浮かんだ、ろくでもない言葉だって。

「私は、あなたに幸せになって欲しい」
「は? なに急に、……ああ、なるほどね」

 訝しげに首を傾げた彼女の瞳が、理解と共に瞬時に色を失くしたのが分かった。先ほど対峙した呪霊のように魂の揺らぎが分かるわけじゃない。だがこの場合誰が見ても明白だった。ただ、程度で言えばきっと、私は彼女の触ってはいけない逆鱗に触れてしまったことを察知した。

「だから五条家に嫁げと。へーそれはまた将来安定ですこと」
「だからそれは誤解だと」
「うるさいッ!」
「!」

 彼女が腕を振りかぶり、私の腕が弾かれ舞う中で一瞬見えた彼女の辛辣な表情に瞠目する。すぐさま私に背を向け出口へと向かう彼女の足音は、床のタイルに恨みでもあるかの様に重くこの殺伐とした空気に反響した。

「待って下さい話を」
「七海と話すことなんてない! これは私とアイツの問題でしょ!」
「だから……! なんで君は昔から私の言葉を……、待ちなさいどこに行く気です!」
「それこそ七海に関係ないでしょ!」

 止まる気配を見せず扉の取っ手へと手をかけた彼女にそう声を荒げた。だがそれも虚しく橙色がトイレ内に差し込み、服もまともに着ていない私は足を止めざるを得ない。

「私の幸せは、私で決める」

 ぎこちない音を立て扉が閉まる間際に聞こえた声は強く、私の瞳は彼女に知られることなく見開かれる。宙に掲げただけで終わってしまった腕が、静寂に包まれたそこで虚しさを際立たせた。

「クソ……」

 そのまま頭を抱えるように髪を掻き上げ漏れた悪態が、砂埃のように舞っては自分の元へと返って来た。私はただ、私もあなたを──
 睨み付けた床は、酷く薄汚れ、埃まみれだった。