十一話


「全く、こんなとこで“初めまして”しなきゃいけないなんてね」
「仕方ないでしょう。彼はすでに死んでるはずなんですから」

 五条さんに呼び出されたどり着いたのは、岩肌の剥き出しになっている高専のとある一角だ。鳥居の前、腕を組んだ彼女はこの日の光が一切入り込まない空間を見回し、溜め息を零す。ことの経緯を一通り五条さんから聞いていたその横顔には、嫌悪さえ滲んでいた。

「もう来るかな」
「どうでしょうね。なんせ、連れてくるのがあの五条さんですから」
「確かに。どうしよ、めちゃくちゃおっかなそうな子だったら」

 だが、そんな嫌悪は彼女の好奇心によって容易く塗り替えられてしまったようだ。その時は七海の後ろに隠れよ、なんて思ってもいなくてやりもしないことをいう彼女の口角が興味を隠しきれずに上がっていることを本人は気付いていないのだろう。特級術師も五条家も、気まぐれに雨を降らせる空にも楯突く彼女が、中に入った呪いの王ならまだしもただの器である少年にビビるなんてことは万に一つもありはしない。私から言わせれば、そんなことが起こった時の方が余程恐ろしかった。

「あ、来たね」

 目の前の閉ざされていた木戸がゆっくりと動き出し、彼女の視線がようやく安定する。真っ直ぐ見据えたその瞳にはやはり恐怖なんてものは微塵もなくて、爛々とさえしている横顔に人知れず溜め息をこぼした。鬼が出るか蛇が出るか、答えは未知数だというのに。

「これが僕の信用できる後輩たちだよ」

 扉から現れた五条さんは隣にいる少年にそう言って、並んでいた私たちの肩にその長い腕を置いた。

「脱サラ呪術師の七海建人くんと」
「その言い方やめてください」
「こっちは高専教師で僕の婚約者でーす」
「「……は?」」

 この少年が、なんて思考を容易く掻き消した五条さんの言葉に、私と彼女は声を重ね間にいる目隠しをした男を見る。なんて? お互い聞き間違いかと訝しげに顔を歪めていたが、当の本人は少年──虎杖悠仁くんを見つめたままあっけらかんとしていた。

「へぇー五条先生そんな人いたんだ」
「いやいや待ってなんの話?」
「大丈夫、七海にも許可取ってあるし」
「は?」

 五条さんに向けられていた瞳が、今度は私へと注がれる。この最強は本当に性格が最悪だ。あの日の会話を彼女に告げられないと分かっていて尚、誤解を招く言い方を平然としてくる。確かに宣戦布告は受けたが、許可を出したなんて認識はこちらとしては微塵もありはしない。あの言葉だって本気かどうかも怪しかったくらいだというのに、まさかこんな形で、しかも本当に行動に移してくるとは夢にも思わなかった故に戸惑いも苛立ちも彼女と寸分も変わりはしない。が、

「いつ七海が私の結婚相手決める権利を得たのか、一から百億まで説明してくれる?」
「……誤解です」
「ふーん、でも心当たりはあると」

 腕を組み鋭く細められた視線にサングラスを苦し紛れに押し込むも、次の言葉は出て来なかった。下手に口を滑らせれば自らの首を締める事態になってしまう。スッと離れた五条さんにあんたがどうにかしろと視線を送ったが、彼はクッと口角を上げただけでこの件に関してはこれ以上何も言うつもりはないらしい。嵐を巻き起こすだけ巻き起こし楽しんでいるかのような素振りに、本当に殴りたくなる。

「呪術師って変な奴多いけど、こいつらは一度社会に出てるだけあってしっかりしてんだよね」
「他の方もアナタには言われたくないでしょうね」
「おい、シカトすんな。説明しろや」
「えーと、聞いても平気? なんで二人とも一回呪術師やめてんの?」

 紹介へと話を戻した五条さんに不本意ながらも話を合わせれば、虎杖くんから出て来た質問に彼女も諦めたように虎杖くんへと向いた。横からは「後で覚えとけよ」なんて死刑宣告のような声音が聞こえたが、聞こえなかった振りをするしか生き長らえる道はなさそうだ。

「まずは挨拶でしょう」

 当然の疑問ながらもセンシティブな問いにそう言って「初めまして」と繋げた。そして律儀に腰を折り挨拶を返す虎杖くんに、告げなければいけないことを告げる。呪術師はクソということ、労働はクソと言うこと、出戻った理由は、同じクソでもより適正のある方をと思っただけだと言うこと。その間、その言葉の奥深くまでを知る彼女の顔は見なかった。

「虎杖くん、私と五条さんが同じ考えだとは思わないでください。私はこの人を信用しているし信頼もしている。それは彼女も同じでしょう」
「でも尊敬はしてないよ」
「ああん!?」
「と言うことです」
「上のやり口は嫌いですがあくまで私は規定側です。話が長くなりましたね。要するに、私もアナタを術師として認めていない」

 私たちは呪いと日々戦っている。その中で失ったものを抱えている。宿儺の器に興味深々であり五条さんの話を受け入れた彼女とて、言い方に多少のキツさがあるとは感じていても彼にこの世界の暗部を教えることは必要だと思っているから何も言いはしなかった。それが宿儺という爆弾を抱えながらも彼がこの先生きていくために、しなくてはいけない最低限の覚悟だからだ。



「ぶっちゃけどうでもいい、ねぇ」
「……なんです」

 神奈川県川崎市にあるさびれた映画館にて発見された変死体の調査を言い渡された。先に伊地知くんと共に虎杖くんもすでに乗り込んでいる車に向かいながら、横を歩く彼女が虎杖くんに言った私の言葉を復唱し肩を揺らす。

「いや、まぁどうせ七海がそう言うのも最初だけだよ」
「私は面倒事はごめんです」
「もう手遅れ。わかってるくせに」

 ふっと笑いながら後部座席の扉に手を掛けた彼女に、一際重く、深い溜め息が漏れた。

「……ちょっと、何してるんです」
「ん? 何が?」

 よいしょ、と平然と車に乗り込んだ彼女に動きが止まる。おかしいとは思っていた。彼女が私のためにお付きの運転手さながらエスコートのために扉を開けるなんて、と。車の中を覗き込めば彼女の隣にいる虎杖くん共々なにをやってるんだと言わんばかりに疑問を浮かべこちらを見ている。が、一緒に行くんですねとは、なるわけがなかった。

「ちょ! 何すんの七海! 乙女に暴力振るうなんて!」
「バカなこと言ってないで降りなさい……! 大体乙女が出す力じゃないでしょうこれ!」
「あのー、何これ。どんな状況?」

 彼女の腕を取り引きずり出そうとするが、そこそこの力を加えているのも関わらずその身体は驚くほどに動きはしない。なぜ戦えない彼女が任務に同行しようとしているのか皆目検討も付かないが、今回の任務は県外だ。もし万が一があった場合、戻って来るのに時間を要する。爆弾を二つも抱えるなんてごめんだというのに、

「はーいしゅっぱーつ!」
「……」
「七海さん大丈夫ですか……?」
「七海の心配より車の心配した方がいいよ伊地知」
「あれ、説明なしな感じ?」

 人間には身体の構造的に曲がらない方向、力の入らない角度などがある。それは単純な力よりも脅威だ。だから乙女だなんだ騒いだ割に人の腕を容易く捻り上げ、ドアの淵に頭部を強打した私がフラついてる間に胸ぐらを掴まれ車内に押し込まれた結果は致し方のないことだと思う。

「めちゃくちゃ不機嫌になっちゃったけど?」
「平気平気。七海はこれがデフォルトだから」
「へぇーそうなんだ」

 そんなわけあるか。吐き出したかった悪態は窓枠に頬杖を付いた私の胸中をぐるぐると回った。ギチギチの後部座席。三人乗るなら私か彼女が前に乗るべきだろうが、彼女の号令と共に車が走り出してしまったからもうどうしようもない。そんな彼女はじっと虎杖くんを見つめていた。無遠慮な視線に引かれているが、彼女にそんなことは関係ないだろう。

「悠仁くんはさー野生的なセッ、んぐ!」
「え? 何?」
「なんでもないので気にしないように」
「は、はい……?」

 彼女の背後から腕を伸ばし、その悪癖を紡ぐ口を塞いだ。全く、子供に何を言う気なんだこの人は。

「っ、何すんの!」
「いい加減その挨拶はやめなさい」
「えーここまで深く入っとけばあと隠すもんなんてなくなるでしょ」
「もっと他の方法があるでしょう」
「手っ取り早いじゃん?」

 出会って十数年。ここに来て彼女の悪癖には彼女なりの意味合いがあった事とを知ったはいいが、喜ぶには内容が下世話すぎる。五条さんが彼女も社会経験をし、しっかりしていると紹介したがあれはきっと訂正した方がいい。彼女の性格上、経験していようとしていまいと、出会った頃から今までぶっ飛んでいることに変わりはしないのだから。

「七海ー窓開けて」
「川崎は工場地帯なので空気は良くないですよ」
「なら途中まで」

 彼女の要望通り窓を半分ほど開ければ、初夏の風が瞬く間に車内を駆けた。程良い湿度の爽やかな風は私たちの髪を靡かせ、肺をも満たしていく。なんの許可もなくコツン、と肩に寄せられた頭は、もうすでに瞳を閉ざしてしまったことが窺えた。

 そしてその温もりは容易くあの頃の日々を彷彿とさせる。傷一つなく終わった時も、ボロボロにやられて帰った時も、補助監督の運転する車に揺られながら私たちはこうして後部座席に並んでいた。彼女の肩に灰原が寄り掛かり、私の肩に彼女が寄り掛かり、二人分の重さを感じながら私はこうして窓の外を眺めていた。

「懐かしい」

 ふと聞こえた風に負けてしまいそうな微かな呟きに、「そうですね」と同じくらいの声で返す。組んでいた腕を下ろせば、私の袖を彼女はキュッと摘んだ。それが何を意味するのか知りたくて、知りたくなくて、私は……その手を掴んでしまいそうな衝動をただ抑えるように目を細める。

「先生たち仲良いなぁ。あれ、でも五条先生の婚約者なん、だ、え?」
「悠仁くーん、いいこと思い出させてくれてありがとう」
「え? あ、ああ。どういたしまして?」

 虎杖くんの言葉に勢いよく顔をあげた彼女は、彼にグッと距離を詰め礼を言った。その顔はきっと、世にも恐ろしいほどに満面の笑みだろう。その顔のままゆっくりと近付いてくる気配に、視線は澄み渡った空から動かせはしない。目を合わせた時点で己の死が訪れるのだから、当然の行動だ。

「なーなーみぃー」
「……」

 彼女の伸びた腕が私を通り越しドアについたボタンを押し込む。眼前の半分しか空いていなかった窓は機械的な音を響かせながら全開になり、強すぎる風が吹き荒れているというのにこめかみには冷や汗さえ伝った。ああ、余計なことを。状況は最悪だ。逃げ場のないこの狭い空間でごくりと飲んだ生唾は、余計喉を乾かすだけだった。

「待っ! 誤解だと言ったでしょう……!」
「なら洗いざらい吐きなさいよ!」
「先生え!? 落ちる! 落ちちゃうから!!」
「あの、あまり暴れると……! あわわわ、どうしよう……!」

 一匹の猛獣によって揺れる車は蛇行運転をし、胸ぐらを掴まれ放り出された私の頭は強風に煽られセットもクソもない。私が車から落ちたって死にやしないと思っているとんでもない彼女にギリギリと締め付けられ受ける尋問はヤクザのそれと大差ないだろう。虎杖くんが彼女の腰にしがみ付き制止を試みてはいるが、この狭い空間では無意味に等しかった。先ほど空気など見る影もなく罵声怒声が響き渡り、いうなればここは地獄だ。手に負えない最悪の悪鬼が、存在する。

「あれは五条さんが勝手に言ってるだけで……!」
「ほーう、それでどうぞどうぞしたわけだ?」
「だから……!」
「み、みなさん!着きました……!」
「チッ!!」

 伊地知くんの声にようやく止まった車と離された手に、私を含めた三人が盛大な息を吐き項垂れた。これから仕事本番だというのに、すでに特級呪霊と一戦交えたかのような疲労度に今すぐ帰りたくて仕方がない。が、そうも言えず重い身体を引きずり車から降りては乱れた服と髪を直し、変死体が発見された映画館を見上げた。続けて降りて来た彼女がさも当然のように私の横に並ぶから、どこまでついて来る気だと思わず顔を顰める。

「あなたは伊地知くんと」
「まだ溢れてるよ」

 躊躇いもなく向かってきた指が、私の耳の形をなぞるように髪を掛ける。向けられた有無を言わせぬ瞳は私に諦めを与え、痛む頭を脳裏で抱えた。こうなってしまった彼女は何を言っても無駄だ。……いつかの、あの日のように。

「はぁ、絶対に呪力を使わないこと。着いて来ていい条件はそれだけです」
「はいはーい」
「はいは一回」
「うわ、七海がもう先生モードだ」
「なんですかそれは」

 そんなものになった覚えはありませんよと彼女に呆れ混じりに返せば、虎杖くんも車から降り、彼女の横に並んだ。

「凄惨な現場です。覚悟はいいですか、虎杖くん」
「聞く必要なさそうだよ、七海」
「……では、行きましょう」

 真っ直ぐ見据える虎杖くんの瞳に、彼女は口の端から笑みを溢す。本当に分かっているのか。五条さんから彼が高専に来た経緯、そして亡くなるまでの経緯は聞いた。死体を見ることは初めてではないだろうが、一度や二度見たからと言って慣れるものじゃない。特に、彼はつい最近まで呪霊すら見えていなかったのだから。
 歩き出した横で、彼女がくすくすと笑う。それを訝しげに見れば、「ほらね」とだけ言われ、眉間の皺を深く寄せた。

「あと、話の続きはこれが終わったらで」
「……」

 やはり、今すぐ帰りたくて仕方ない。



「ストップ」

 劇場に残された残穢を辿り屋上まで登った直後現れた二体の呪霊。一体を請け負い、一体を虎杖くんに任せた。彼女は真っ直ぐ虎杖くんを見つめている辺り、力量を測りたいのだろう。つらつら語る私にやはり彼女は小さく笑ったが、受け持ったことをやるだけだ。例えその行為が、柄じゃなかったとしても。

 呪術の何たるかもまだほとんど知らないであろう彼に術式の開示を説い、その戦闘の様子を彼女と同様に見守る。確かに、五条さんが連れてくるだけのポテンシャルを秘めた少年だった。これが先日まで一般人だったと思うと、恐ろしいと思うほどに。彼女の瞳もその伸び代を食い入るように見つめるている。可哀想に。彼女の容赦ない授業に床に転がる彼が脳裏に浮かんで、思わず同情してしまった。

「失礼、今止めを」

 そう言って四肢を切り落としたまま放置していた呪霊に近付く。だがその腕に付いた呪霊がつけている筈もない物に一瞬心臓が萎縮した。あり得ない。脳はそれを否定していた。が、取り出した携帯で起動したカメラに映った光景に、思わず固唾を飲んだ。

「虎杖くん!!」

 彼の名を呼んで駆けた時には、すでに彼女がその呪力のこもった腕を掴んでいた。先ほどとは打って変わり顔を顰めている辺り、私の行動を視界の一部に移していたのかも知れない。瞬間、ピッと彼女のこめかみ辺りに赤が舞った。

「え?」
「……呪力は使うなと言ったでしょう」
「平気だよこんくらい」

 突如彼女の裂けた皮膚に戸惑う虎杖くんを他所に、滴る血を袖で拭う彼女の腕を掴んでは取り出したハンカチをそこへ当てた。傷は深くない。だが切れたところが悪く、その裂け目以上に出血が多かった。

「で、写真撮ってたけど。まさか」
「ええ、そのまさかですよ。これは──」

 脳裏に浮かんだ答えに、私と彼女は画面に映った呪霊と思っていたものを見つめ、これが簡単な呪霊退治でないことを察した。終わりへのカウントダウン。それはもう、私たちの知り得ぬ場所ですでに、始まっていた。