十話


「どうする気ですか」
「どうするも何もないだろ」

 四〇インチの液晶テレビ、大きな鏡のついたドレッサー、そこに備え付けられた心許ない冷蔵庫。ベッドは辛うじてダブルサイズであるが、一人で寝るにしてもシングルサイズでは狭いためにそうしたに過ぎない。とてもじゃないが、自分より大きな男と寝れるわけもないのだ。いや、そんなことは考えたくもない。だが考えざる得ない状況に、私と五条さんは追いやられていた。

「僕先輩で上司だよ? お前は床で寝なよ」
「この部屋を取ったのは私です。あなたが床で寝てください。廊下でもいいですよ」

 大の男二人が並ぶには狭く、最低限のものしかない部屋に入れば五条さんはベッドに腰掛け、私はドレッサー前の椅子へと座り互いを牽制しあっていた。出張というのは泊まりがけだ。もちろん私も、それを少なくとも数日前からついて来る気だった五条さんも同ホテル内に部屋を取っていた。が、突発的に来た彼女の部屋がこのホテルにあるわけもなく、満室ですと言われたのが十分ほど前の話だ。

 さてどうするかと三人で円陣を組んだのだが、彼女は「私、女の子だよ?」と当然といえば当然の言葉を吐き、納得した私は駄々を捏ねる五条さんを引きずって部屋に入った。が、問題は山積みだ。しかしそれも私と彼女が同じ部屋で寝泊まりするよりかは些細で、彼女と五条さんが同じ部屋で過ごすよりかは小指に出来たささくれ程度の問題だった。

「どう考えてもお前とこの部屋で寝るのは無理だと思うんだよね」
「私もそう思いますけど、他に選択肢がないんですから仕方ないでしょう。一応近辺のホテルを探してますが、何せ世間は夏休みですからね」

 携帯画面をスクロールし続けるも予約画面には辿り着けない。加えて季節は夏。東京よりは遥かに涼しいこの土地に人が集まるのは不思議でもなんでもない。ただ、全てのタイミングが最悪だったというだけだ。

「……どこ行くんです」
「どこって決まってるでしょ。僕の部屋」

 徐ろに立ち上がりその長い足で瞬く間に出入り口まで向かった五条さんにそう問えば、さらりとそんな言葉が返ってきた。「は!?」とその言葉に慌てて立ち上がり扉が見える位置まで追いかけるが、面食らっている間にも五条さんの大きな手は躊躇いもなくドアノブへと伸びていく。本気で言ってるのか? それは辛くも私にとって一番最悪のパターンだ。それだけは何としても阻止しなければならない。そう思えば私の足は必死に彼へと向かっていた。

「ちょっと!」
「元々僕が取ったし、向こうならソファーもあるからそっちにあいつ寝かせればいいでしょ。まぁ一緒に寝てあげてもいいけど」
「何言ってるんです……! あなたが行くくらいなら私が」
「そう? じゃあどーぞ」
「は?」

 全開になった扉。やたら一歩の大きい黒い背中を追いかけていたはずの視界は一瞬でその色を変え、背中をトン、と押す手に怒気を孕んでいた勢いそのまま部屋の外へと飛び出してしまった。一体、なにが……まさか。

「五条さ、」

 ハッとして振り返った時にはすでに遅く、バタンと扉が閉ざされてしまう。その物言わぬ扉にやられた、と頭を抱えてる間に「忘れ物だよ」なんて一瞬開いたそこからは私のスーツケースが放り出された。試しにインターホンを押してみる。が、反応はない。というかもう一つの部屋にソファーがあるのなら私たちがそちらに行けばいいのでは、と思い電話やらラインやらを送ったが当然の如くフルシカトだ。イラッとして三十件程送ってやったが、やはりメッセージに既読がつくことはなかった。

「……」

 こうなっては仕方がない。と思いはして移動したはいいが、五条さんが籠城した部屋と変わり、彼女のいる部屋のインターホンを押すことが出来ず部屋の前で立ち往生していた。なんせ学生時代からの付き合いとはいえ女性の部屋に「追い出されたので泊めてくれ」なんてどの面で言えばいい? だが少なくとも通行人はいる。不審者として通報されてしまう前に、どうにかしなければいけなかった。

 と言っても選択肢なんて一つしかなかった私は、重い溜め息を最後に吐き散らかして、やたら細く、ボールペンの中に入っているようなバネの抵抗を指先に感じながら、ほぼ従業員しか押さないであろうボタンを押し込んだ。

「意外と遅かったね」

 ほんの数秒後、開いた扉から出て来た彼女は風呂上がりらしく、濡れた髪にフェイスタオルを羽織った姿で顔を覗かせた。まるで私が来るのが分かってたような顔と口振りで、何も言わずとも扉を大きく開けた彼女はどうぞと言わんばかりだ。それに促されるように一歩中に入り、部屋の鍵を閉め奥へと進んでいく彼女の後を追えば、嗅ぎ慣れないシャンプーの香りが鼻腔を掠めた。

「こうなると分かってたんですか」
「まぁね、この部屋入った時逆の方がよかったかなと思ったけど、どっちでもいっかと思って」

 どうせ来るとしたら七海だろうなって思ったし、と冷蔵庫を漁る彼女が「ビール? サワー?」と聞いてくるので、前者をお願いして部屋を見渡す。そこは自分がとった部屋の軽く二倍の広さがあり、五条さんの言った通り二人掛けのソファーもある。一応携帯を確認したが、やはりあの男からの返信は来ていなかった。

「ちょうどさ、面白そうな映画あったから一緒に見ようよ」
「まぁ、いいですけど」
「よし。んじゃ準備しとくからお風呂入って来ちゃいなよ」
「いえ、手伝います」
「いーからいーから。ってかお酒並べるだけだし」

 シッシッ、とでもいうように手を払う彼女に甘え、ネクタイを緩め着替えを持って風呂場に向かう。まだ湯気の立ち込めるそこは爽やかな香りを残し、だけどその中に彼女の香りを感じてすぐさま頭からシャワーを被った。雑念は、この後を考えれば今すぐ排水溝に捨て去る必要がある。長い夜になるだろう。恐らく、自分にとっては。そうある程度の覚悟をして、手早く、一刻も早くこの空間から出なければという使命感のようなものが、私を駆り立てていた。

「お、出たね。はいはい座って」
「なんですこれ」
「何って、映画鑑賞といえばポップコーンでしょ」

 私が予約した部屋よりも大きなテレビの前、バーベルに入った溢れんばかりのそれに、五条さんも同じこと言いそうだな、と思ったことは口に出さなかった。言われるがままにソファーの端に座れば、彼女は二本のビールを持ち同じように腰掛け、その一本を差し出す。それを受け取りプルタブを引いて、缶をぶつけ合った。私たちの間には、嘘を本当にすべく帰り道に取った二体のぬいぐるみが、鎮座している。

「うまっ」
「甘ったるいもの飲まされたあとだと余計そう思いますね」
「まぁあれはあれで嫌いじゃないけど。髪、乾かさないの?」
「あとでやります」

 リモコンを操作しながら向けられた視線は、タオルドライだけをした半乾きの髪へと注がれた。もう一口ビールを喉に流し込んでからそう答えれば、徐ろに彼女が手にしていたリモコンとビールを机に置き身体をこちらへと向ける。その手がさも当たり前かのように頭へと伸びて、つむじに爪が立てられた。

 それは頭皮に触れるか触れないかのところを頭の形に沿って撫で下ろされ、視界に自分の髪が降りてくる。何度も、何度もその細い指が行ったり来たりして、そこに向けられた夢中な瞳はきっと、息の掛かる距離には気付いていない。そういえば高専時代も彼女はよく人の髪を弄って遊んでいたな、なんて思いながら、なんでもないように対して食べたくもないポップコーンを指で摘んで口に放り込んだ。

「ふふ、出来た」
「何が楽しいんです」
「いや懐かしいなと思って」

 ようやく終わったらしいセットに、彼女はそう言って笑った。あの頃より短い髪のために全く一緒、とはいかずとも、鏡を見なくても昔の髪型を再現しているのだろうということは分かる。

 満足したらしい彼女は体勢を戻し、背もたれに寄り掛かってビールを再度手に取り口を付けた。反対の手には同じようにリモコンを持ち、テレビに向ける。恋愛で、SFで、アクションで、とこれから始まる欲張りな彼女のためのものかと思うほど入り乱れた映画の説明を始めたが、正直、そんな聞いただけでつまらなそうだと思ってしまう映画はどうでもよかった。

「どうして高専に戻って来たんです」
「いきなりだし今更だね」
「あなたもいきなりだったでしょう」

 そうだっけ? と肩を竦める彼女は三年前の自分の言葉を忘れてはいないだろう。そして、なぜ私が突然こんなことを言い出したのか、私の知らない彼女の時間を知っている五条さんからなんとなく聞いてしまったであろうことも、きっと気付いてる。だが彼女は視線をそのままテレビへと向け、リモコンの再生ボタンを押した。制作会社のロゴの後、暗転。同時に部屋の灯りも消えた。

 一瞬の静寂を終え始まった本編から聞こえて来たのは、じりじりと肌を焦すような夏の音だった。耳に付く蜂の羽音が近づいたかと思えば瞬く間に遠ざかり、画面が黄色く染まる。──鮮やかな向日葵畑。だがそこには誰もいない。と思えば、景色は帳が降りるように夜へと変わり、大きな月が真上に現れた。太陽の花は眠っているかのように首を垂れている。が、その中でたった一輪、空を見つめ続ける花があった。まるで……夜空に君臨する月に、恋焦がれているかのように。

「私はね」

 映画の音声のように彼女が静かに口を開いた。その瞳には月の輝きが映し出され、儚くも美しく揺れている。

「みんなの輪の中にいたかったの」
「それ、前にも言ってましたね」
「そう。呪術師の輪、道、言い方はなんでもいい。ただその中にいて、忘れたくなかった。自分が持ってたもの、そこにあるもの、背負い続け受け継ぐべき、継承すべきもの……失くしたものも、全部」

 だけど一般社会にいれば少なからず薄れていく。それがすごく嫌だった。使いようのない人間にはそこにいることさえ許されない。全て仕方のないことだけど、その時初め怖くなった。見えないけど背中にずっと張り付いた、呪術師という名の世界の感覚に。そう言った彼女は、この世界から逃げた自分とは正反対だ。だけど、少しは分かる気がした。一度知ってしまった世界、戦い、それを遠ざけたいと思いつつ捨てきれなかった私も、その背の感覚は嫌というほど理解出来てしまう。

「教師になった五条から連絡をもらった時はびっくりしたけどね。あいつが教師ってだけでも冗談かと思ったのにさ」
「それは同感ですね」
「まぁでも、あいつには感謝してる。こうして七海と映画も見れるし」

 そう揶揄うように笑みをこぼす彼女に、呪術師じゃなくてもそのくらいは、なんて言えやしなかった。現に私は彼女が高専を去った後から一度も連絡を取れはしなかったから。彼女から来ることもなかったが、なんとなく、この世界から離れてしまった後ろめたさのようなものが、その声からは滲み出ているような気がした。

「だから、七海が私を呪術師だって言ってくれたの、本当に嬉しかったんだよ」

 ピアノのアンサンブルをBGMに、彼女の目がスッと細められる。その姿に、私は月を見つめ続ける向日葵のように、彼女をじっと見つめていた。じりじり、あの夏の月は、静かに今も私の胸を焼く。それが気管を通り迫り上がってくる感覚を喉を鳴らし飲み込んだ。ふっと、一瞬向けられたその光を最後に、彼女は映画の世界へと意識を向ける。同じように視線を画面へと向けたが、内容はあまり入って来なかった。何度ビールを口に運んでも、少ししけりだしたポップコーンを咀嚼しても、噛み砕けない想いは実に厄介だ。あの頃にだって何度そう思ったか分からない。

『お前が望むあいつの幸せは、何を指してるんだ』

 五条さんに言われた言葉が想起する。そんなこと、分かるわけがない。分かったら苦労しないし、分かったとしたら私はそれを応援するだろう。君が望むなら、なんだって、したい。そう考え自分の変わらぬ自己犠牲的なそれに、映画に集中する彼女にバレないよう細くアルコール混じりの息を吐いた。閉じた瞼は僅かな光の変化しか捉えない。代わりに冴えた耳が捉えたのは、クライマックスに差し掛かった、あの向日葵畑で直向きにヒロインを想う男の叫び、ではなく、彼女の息遣いだった。ぬいぐるみ一つ分空いた肩の距離、その先で、彼女が存在している。私は、ただそれだけで、

「!」

 ふわりと、自分のほぼ渇き切ってしまった髪と同じシャンプーの、だけど彼女自身の匂いが混ざった香りにハッと目を開けた。

「……一番重要なとこですよ、全く」

 物語の終わり、それはこれまでの全てを繋ぎ、視聴者を完全に引き込む場面だ。大抵この頃にはまるで追体験をしたような、自分もそばで見守っていた登場人物かのような気持ちで見つめてしまうシーン。すれ違い、葛藤、全てが報われることもあればそうでないこともあるが、それでもこれまで見てきた最終地点を得ることは、本来その物語を知ってしまえば当然のように願うことだ。だというのに、人の肩を枕にして寝息を立てる彼女はそれを得ずして夢の中へと入り込んでしまったらしい。やっと東京へ帰って来たと思ったら、次の日に北海道に飛んで来た彼女を思えば、当然と言えば当然か。

「寝るならベッドに行って……って、起きるわけもないか」

 学生時代何度か誰かしらの部屋で雑魚寝をした時もそうだが、あの、沖縄の任務の時だって朝になかなか目を開けようとしない彼女を起こすのは一苦労どころじゃなかった。

 仕方ないから運ぶか、と思う思考とは裏腹に、身体はピクリとも動かない。それどころか彼女の頭部へ自分のそれを預けてしまえば、その体温を感じる部分が広くなり身体の筋力はその仕事を放棄した。動き出しそうな指先が疼いた胸にピクリと反応して、それを掻き消すようにギュっと手を握り、ゆっくりと解いていく。

『君が望むものを教えてくれ』

 画面の男が月夜の下問いかける。これまでほとんどが耳をすり抜けていたというのに、その台詞はやたら静かになった部屋に反響しては、私の耳に届いた。

『私は、』

 その言葉を最後に、部屋は暗闇へと包まれる。映画の音も途絶えた世界は静寂がひしめき、彼女の呼吸音を際立たせた。僅かに動かした頭により頬を撫でる彼女の髪の感触は、あの頃と変わっていない。

──少しだけ、

 コトン、と手にしたリモコンを置き、そう言い聞かせては、その温もりに身を任せるように目を閉じた。



「──ん、」

 ヴ、と短いバイブ音に意識が目を覚ました。とはいえ重たい身体に目を開ける気にはなれず、音のした方へ手を伸ばせば冷たい感覚が寝起きの体温にひんやりと溶け込む。平らなそこを何度か位置を変え探れば、ようやく目的のものを手繰り寄せることに成功した。

──五条さん? なんだこんな朝早くから。

 その画面の明るさもさる事ながら、通知に浮かんだ名前に顔を顰める。時刻は六時前。こんな時間に彼から連絡が来ることは稀だ。アイコンをスワイプさせアプリの起動と同時に、五条さんとのトーク画面へと飛んだ。

“先に帰ってるからあと一日ゆっくりして来い”

 そこで、やっと脳が目を覚ました。そうだ。今は北海道に出張に来ているんだった。単独任務だったのに五条さんがついて来て、胸糞悪い仕事を片付けバーで呑んでいたら彼女が現れて。部屋を追い出された挙句彼女と映画鑑賞をすることになり……順序立て昨日のことを思い浮かべて、はた、とその思考が止まった。彼女が人の肩を枕にして眠ってしまった後からの記憶がない。そして身体の重みが疲れから来ることではなく、物理的何かが乗っていて、且つそれが酷く温かな温度を放っていることにも、気付いてしまった。

「……」

 思わず、天を仰いだ。ソファーに仰向けに寝転んだ私の上に、未だ寝息を立てる彼女が、いる。ご丁寧に私たちの上には掛け布団が掛けられていて、その中で今も私は、彼女の肩を抱くように抱えていた。

「な、」

 ふと、手の中でまたスマホが震える。また五条さんか、とそこに視線を向け、そこに映し出されたものについ腹から出そうになった声を慌てて飲み込んだ。被りを振る代わりに盛大な溜め息を吐いて、もう一度、画面へと視線を向ける。そこには、今この状態のまま抱き合い眠る、私たちの写真があった。

 どうやって部屋に、と思ったが、ここは元々五条さん名義で借りていた部屋だ。あの人ならフロントに掛け合えば容易く解錠することができるだろう。にしても、五条さんが部屋に入って来て、あまつさえこんな写真を撮られても気付かないとは。余程疲れていたのか、それとも。

 チラリと視線を下方に移し、硬いベッドだろうとも熟睡するその肩は彼女の呼吸に合わせ大きく、ゆっくり上下している。伏せられた睫毛はどことなく柔らかそうで、僅かに開いた唇から漏れた吐息は私の寝間着をなぞり、その先の肌へ染み込んでいった。

──相変わらず、無防備すぎる。

 肩を抱いていた手を滑らせ、顔にかかった髪を掬っては梳くように背中に流した。さらりとした感触が指の間をくすぐって、胸のあたりがこそばゆい。同時に酷く締め付けられ、なんとかは病だなんてどこかの誰かはよく例えたものだと思う。手のひらをその頭部へと置けば、患った身体は思考や理性よりも先に動き出していた。

──バカな人だ。

 それが裏返しだということは、寄せた唇が物語っている。感じる体温以上に暖かな何かは、見える世界さえも穏やかにしていくような、不思議な感覚。どうか──

「!」

 三度、手の中のスマホが震える。そういえば返信をまだしていなかったな、と僅かに悪びれた思考は、その文字列に瞬く間に吹き飛んでしまった。

“朝チュンして貴重な一日を無駄にするなよ”

 あまりの不快感に握った端末が嫌な音を立てた。本当に昔からデリカシーという言葉を知らない男の言葉に、淡い感情さえもが砂塵となって消えていく。

“言ったろ”

 続けざま、短い文がこちらに構いもせず送られてきた。

“お前ら覚えとけよ。って”

 容易くこれみよがしに口角を上げる男が脳裏に浮かんで、手にしていたそれを空を切り無人のベッドへと投げ捨てる。休みであれば特に必要もない。唯一の気がかりは、腕の中にいるのだから。そんなことを思い昨晩と同じように、もう少しだけと、緩やかに瞼を閉じた。──どうか、この時間が永遠に続きますように。そんな叶わぬ願いを、抱きながら。