九話


 バーテンダーに差し出された黄金色のカクテルに、昨日一口含んだ乳酸菌飲料の甘さが舌の上に蘇った。パインジュースにレモンジュース、オレンジジュースと酒の気配すら見えないそのカクテルを二人分勝手に頼んだ隣の男は、「お前たちに預けたい子がいるんだよ」と、薄暗い青い間接照明の光の下放った。

 呪術師の仕事は対呪霊だけではない。今日のような人間の穢れた部分、醜い部分を目の当たりにすることも呪術師を続けていく限り必ずあるものだ。それらによって降りかかる絶望はもはや不回避で、私たちは手にした酒や、時の流れによって徐々に消化していくしか術はない。

 そんな面白みもクソもない話をされ、あまつさえ亡くなったと聞いていた宿儺の器──虎杖悠仁を預けたいというのだから、宿儺の器を蘇生させないために一人任務を負わされここに来た私の立場を五条さんが理解しているとは考えにくい。いや、知ってて言うのがこの五条悟という男ではあるのだけれど。

「人の痛みが分かる大人に預けたいからね。お前たちみたいに」
「一応聞きますけど、その“たち”とは」
「お前とあいつに決まってるだろ」

 他に誰がいるんだよ、と、一人の若人の健やかな成長を願う大人はグラスの縁をそっとなぞる。これがいつもの冗談でもなく、純粋な“願い”であることは分かる。それだけで分かりましたと言うにはあまりにも大きなものを抱えた少年であることもまた、分かった上でこの男は柄にもない“頼み”なんて言葉を吐いていることも。

「彼女にこの話は」
「まだだよ。お前の機嫌を損ねたくないからね」
「……これも一応言っておきますが、別に私と彼女はそんな関係じゃありませんよ」
「今更隠すことないだろ。僕だってそんなことでいちいち茶化しはするけどさ」
「冒頭と語尾くらい一貫してもらえますか」

 え、まじ? とでも言いたげな瞳がズレたサングラスから覗き込み、思わず下がってもいない自分のサングラスをぐっと押し込んでしまった。

「待てよ。お前が戻って来てから何年経った?」
「三年、くらいですかね」
「その間に何回ヤっ」
「それ以上言ったらこの話は聞かなかったことにします」

 そう言えば五条さんは珍しく、いや、出会って初めてではないかと思うくらい素直に口を閉ざす。それにも彼の虎杖悠仁に対する真剣さが垣間見えていた。この人は忙しい。一人の少年を一人匿うことに余程限界を感じているんだろう。

「お前さぁ、優しすぎない?」
「なんのことです。酔ったんですか? ノンアルコールで」
「今回の任務だってこの程度の胸糞悪さをある程度予想して連れて来なかったんだろ」
「彼女だって呪術師です。先ほどあなたが言ったようにこんな案件は残念ながら腐るほどある。今更、」
「だけどあいつは一線から退いてる。おまけに今回は上からの圧力付きだ。任務にも行けないたかが教師にお偉いさんたちは目もくれない」

 誤魔化そうとした言葉は無視され、続けられたその言い方にちらりと視線を向けても五条さんの動き出した流暢な舌は止まりはしない。分かっている。彼のこの言葉に悪意はない。そして、遠慮や配慮も。その上「やっぱりお前から話して正解だったな」と自己完結をする。大抵の場合その時の相手は置いてけぼりだ。今の私がそうなように。

「何をそんなうじうじうじうじ引きずってんだよ」
「人を虫みたいに言わないでください」
「だとしたらお前はとっくにあいつに嫌われてるな」

 なぜこの男は人の神経を逆撫ですることにこうも長けているのか。甚だ疑問だ。それをなんでもないすまし顔で言ってのけるものだから余計に腹が立つ。性格の悪さと顔面の造形がまるで一致しないのは、広い世界を探してもこの男に敵うものはいないのだろう。

「別に私は、」
「縛りか? それとも、灰原か?」

 本当、嫌になる。それらに向き合うことから私は逃げたと言うのに、まさかここでこんな風に、おまけにこの最低最悪の上司に話すことになるとは。

「確かに、彼女の縛り……呪術師としての彼女を殺したのは、私です」
「それは、」
「あの時、灰原が死んだ後私がすぐに撤退していれば彼女があんな形で自らに縛りを化すことはなかった。これは紛れもない事実です」

 だけど子供であったが故に自分を見失い、冷静さを見失い、私は呪霊へと向かっていった。それ故に彼女があの場所に訪れる時間を作ってしまい、結果、大怪我までさせる羽目になってしまった。

「……でも、少し安心したのも事実です。少なくとも、高専を出て一般社会で暮らしているうちは、高専内で教師をやっている内は、死なずに済みますから」

 私の言葉は、まだ手付かずの“シンデレラ”へと落ちていく。黒いバーカウンターに丸い縁の中で漂うそれが、闇の中浮かぶ月のように見えた。幾多とある星屑みたいな私は、その近くでただその大きな存在を眺めることしか出来ない。それで、いいんだ。きっとこの先もずっと。いつか、先に燃え尽き消えてしまったとしても。

「僕からしたらお前のそれはたらればでしかないし、あいつだって縛りの件をお前のせいだと思っているってことは万に一つもないと思ってる」
「……でしょうね」
「でもその建前は今聞いた」

 で? と先を促す五条さんは知っているんだろう。夏油さんが灰原が彼女を好きだという言葉を直接聞いている。その後の反応からしても、この人に話をしていてもなんら不思議ではない。そうでなくとも、この見えすぎる目に隠し事なんて出来る気はさらさらしないところが、昔から嫌だった。

 そうだ。全てはもう過ぎ去ったこと。どうしようも出来ない。それを理解している。資格がないだの灰原の方が彼女を幸せに出来ただろうなんて思考は、自分にはない灰原の長所に対する嫉妬の裏返しでもあった。それは大人になった今だからこそ分かることだ。如何に大人ぶった自分が、子供であったのかを。

 だがそれも含めてあの日の自分だ。きっと同じ時間をもう一度生きたとしたって繰り返すだけだろう。笑い合った喜びも、分かち合った悲しみも、一目見た瞬間に落ちた、恋も。同じことの繰り返しなら一度きりで十分だ。いや、繰り返すことなんてできないのだから、どの記憶も様々な色を携え、色濃く残る。五条さんが促しているのはそんなことじゃない。深く、溜め息のような息を吐いた。諦めのような、懺悔のような、いつからかずっと胸の中を渦巻く、呪いのような……本心。

「自信がないんですよ」
「は?」
「彼女には幸せになってもらいたい。どこの誰から見ても微笑ましくなるくらい、羨むくらい。だけど、自分がそうしてあげられるか、と考えれば疑問しかない」
「……」
「別に彼女の相手が私である必要はないと思ってます」

 それは灰原と彼女を見ていた時にも思ったことだ。自分の大事な人たちが幸せになる。これほど幸福があるのか。例え自分の気持ちを犠牲にしていたって、その感情は例え、嫉妬の影に隠れていようとも純粋に思っていたこともまた事実だった。それは叶わなくなってしまったが、そう思う気持ちが今だってある。誰だって好きな相手には最上のモノを得てほしいと願うはずだ。もちろん、隣に立つ、相手も。

「お前さ、あいつに面倒臭いって言われね?」
「なんです、突然」
「はぁやだやだこれだから根暗は」
「誰が根暗ですか」

 五条さんはカウンターについた肘に異彩を放つ頭を乗せ、酷く鬱陶しそうにそう言った。この人もだいぶ落ち着いたなとは思うが、こうしている姿は唯我独尊だった学生時代を容易く彷彿とさせる。

「あいつが一級の試験に行ってボロッボロにやられた時のこと覚えてるか?」
「……忘れるわけもないでしょう」
「お前あの時なんか言いかけたろ? 正直、殴られると思ったよ」
「流石にそこまで考えてませんでしたよ」

 彼女を抱えた五条さんに言いかけた言葉をあの日に言わなくてよかったと、これも今だから思える。この人はあの時すでに呪術師だった。ただ、それだけのことだったんだ。

「殴ってくれてもよかったけどな」
「あなた以外あれ以上の結果を出せる人なんていないでしょう」

 むしろ感謝してますと、そう告げれば五条さんは似合わない自嘲を口の端から溢した。だけどそれを誤魔化すようにグラスに口をつけ、喉を鳴らす。次に発した声は、その気配が錯覚だったと思うほど元に戻っていた。

「硝子に治してもらった後のあいつは絶望してたよ。負けん気強かったし、お前らにも適当なこと言って部屋に来させるなって会おうとしなかった」
「……」
「でも次の日はもういつものあいつだった。一晩の間に何を思い考えたかは分からない。だけどあいつはね、笑ったんだよ。『あいつらの盾にくらいにはなるだろ』って」
「……バカですね」
「そう、僕も言った。それにさ、高専に戻って来た時七海は辞めたって言ったらあいつなんて言ったと思う?」

 想像は出来なかった。したくなかったの方が正しいかもしれない。逃げた自分を思えばそれは当然で、きっと彼女も失望しただろう。だから、帰って来た時に感じた安堵は、彼女があまりにもあの頃と変わらずに接してくれたことにあったんだと思う。聞きたくはない。だけど、この人の口を閉ざす言葉を、私は見つけられやしなかった。

「『よかった』って、言ったんだよ」
「それが本当なら、私は戻ってこなかった方がよかったことになりますね」
「お前も大概だな」
「何がです」
「確かにそれもあいつの本音だろ。だけど、人間一つのものが本音とは限らない」

 お前だってそうじゃねーのかよ、と問う声音は口調とは真逆だ。まさか、慕い甲斐のない先輩に説かれる日が来ようとは思ってもみなかった。明日、世界は終わるのかもしれない。そんなことを思えば、五条さんは「なんか失礼なこと考えてるだろ」と鋭く顔を顰めた。

「無理に一つにしようとするから壊れる。元来人間なんて欲の塊であり矛盾の塊だ。強欲で利己的で構わず相手を振り回す」
「誰かさんみたいですね」
「まぁその点僕は汚れなき純粋なイケメンなんだけど」
「もう一度最初から言ってもらえますか?」
「まぁその点僕は」
「本当に言わなくて結構です」

 それでも、と五条さんは話を続けた。

「お前のそれが間違ってるとは思わない。僕らは呪術師だ。明日の保証はないしね。より長い目で見ればお前の愛は正しく、真っ当なのかもしれない」
「ちょっと、愛とか言わないでもらえますか? あなたの口から出ると虫唾が走る」
「でも理解はできない。僕くらいの優良物件なんて宇宙まで探したってありはしないだろうし」
「性格の破壊力はブラックホールですけどね」
「だから、僕があいつを幸せにするよ」
「…………は?」

 会話のキャッチボールをするという概念は、この男にそもそも備わっていない。年月で言えば長くなったとはいえ、真面目な話をすることも指折り数えることができる程度だ。苛立つことも理解を諦めたことも何度もある。だけど、これほどまでにたった一音発するまでにこれほどの時間を要したことはなかった。

「別に僕はあいつが嫌いじゃない。まぁ学生時代は色々言い合ったけど、今となっちゃそれもいい思い出だ」
「何言って」
「五条家に入れば何かあった時真っ先に守られるだろう。というか僕が守るし、それ以上のセコムはないでしょ」
「ちょっと」
「誰もが羨むよ。僕は意外と尽くすし、あいつに何不自由させない。やりたいことにノーとも言わない。大切にする」
「ッいい加減にしてください!」

 気付けば、そう声を張り上げていた。静かだった店内に一瞬の静寂が行き渡り、視線が背中へと突き刺さる。カウンターに置かれた手は硬く握られ、それでも、隣の男だけが変わらぬ表情を浮かべていた。

「……本気ですか」
「もちろん。いい加減世継ぎだなんだ家もうるさいしね。その相手があいつなら僕も申し分ない。術式が焼き切れてなかったら一級、いや、特級にだってなれてたかもしれないし、条件は揃ってる」
「そんなことを聞いてるんじゃ」
「じゃあなんだよ。お前が望んだあいつの幸せは、何を指してるんだ」
「それは、」

 言葉が、出てこなかった。鋭い六眼に、言葉に、ずっと胸に刺さったままの棘が無遠慮に押し込まれ、挙げ句の果てにはぐりぐりと抉られた気分だ。ずっと奥底に沈み、だけど確かにそこに存在していた感情を私はただ眺めるだけだった。いつだって傍観者で……それでも、明白に浮き上がる瞬間があった。

「それは、分かりません。ですが」

 そうだ。いつだってむしゃくしゃしていた。ただ、この男が絡んだ時だけは。

「あなたにだけは、渡したくないですね」

 そうはっきりと告げれば、よく動いていた口元が止まり、ゆっくりと大きく弧を描いては、妖しく笑った。

「なら僕と七海はライバルってわけだ」
「どこまで本気なのか分かりませんが、それ手加減入りますか?」
「いるわけねえだろ。あと、僕はいつだって本気だよ。あいつを僕に取られても泣くなよ七海」
「ねえ、なんの話?」
「……」
「……」

 聞こえるはずのない声がすぐ近くから聞こえた。その方向を見れば、肘をつき掌に頭を乗せ、恐ろしいくらいの笑顔を携えた話の中心部にいた人物。

「……ヤッベ、写メ送ったの忘れてた」

 そう口元を覆った性格が最悪である原因の男を見て視線を彼女へと戻せば、眼前に差し出された携帯に映ったアイスを食べる私の写真が嫌でも目に入った。それを彼女が左へとフリックすれば、バーカウンターに座った私の後ろ姿の写真が当てつけのように披露される。よくこれだけの情報でこの店を見つけたな、と関心したのは、一種の現実逃避だ。

「で、どこの女を取り合ってるわけ?」

 仲良くそんなジュース飲んでさ、と貼り付けられた笑みとは正反対に怒気を孕んだ声に、私も、五条さんですら先程までの威勢は皆無だ。そんな私たちに彼女は「そんな人がいるなんて知らなかった」という辺り、“どこの女”が自分であることは気付かれてはいないらしい。

 だが「女をモノ扱いするんじゃねえよ」や「向こうにも選ぶ権利あんだろ」と辛辣な言葉が容赦なく飛んで来て耳が痛い。指一本動かそうものなら殺されかねない雰囲気の中、もっともだなと少し頭に昇った血が急速に下がっていく気配を肌で感じていた。

「いや、お前は勘違いしてるよ」
「はぁ?」
「僕たちが言ってたのは来る前に見つけたUFOキャッチャーのぬいぐるみの話だ」

 ……それはさすがに無理があるでしょう。僅かでもこの口の達者な男に期待した自分がバカだった。オマケに「だよな、七海」なんてこちらに振るもんだから「ソウデス」なんてぎこちない声が出てしまい長い足が容赦なく脇腹に入りイラッとした。だが疑心暗鬼の瞳を向ける彼女への誤魔化しはもう、これでいくしかないらしい。

「あなたへのお土産をどちらが取れるか、勝負しようと話していただけです」
「そーそー、あ、お兄さんシンデレラもう一つ」

 五条さんはこれでもう大丈夫だと思ったのか、畳み掛けているのかは分からないが、そうバーテンダーにジュースを追加した。「それもしかして私の?」なんで思わず疑いと驚きの声を上げる彼女の反応は数分前の自分と同じで、いい大人が三人、わざわざバーにてそんなものを掲げようというのだからそうなりもする。

「ちょうどよかったよ。お前にも聞いてほしいことがあったからね」
「……なるほど、はめられたって訳か」

 彼女は全て腑に落ちたと言わんばかりにずっと寄せられていた眉間の皺をより一層深め、背筋を正し視線をカウンター内に陳列されたリキュールへと向けた。私たちはここに来てようやく五条さんの思惑を知り、手の平で転がされていたことを知る。本当に、腹の底がしれない先輩だと、きっと彼女も思っていることだろう。

「虎杖悠仁をお前たちに頼みたい」
「は? あの宿儺の?」
「いや、器としてじゃなく、彼自身をね」
「生きてるの、って……じゃなきゃそんな話しないか。でも七海はともかく私ができることなんてたかが知れてる。そんなアホみたいに重い秘密をわざわざこんなとこまで呼びつけて私にバラすメリットが感じられないんだけど」
「特に何をしてくれってことはない。ただお前たちなりに接してくれれば、それで僕が望むものは得られると思ってる。──人の痛みがわかる大人に預けたいからね。お前たちみたいに」
「……」

 その言い方に彼女は思案するように視線を自らの手の平に落とした。虎杖悠仁に興味を持っていた彼女は二つ返事で了承すると思っていたが、その瞳は苦しく細められ、まるで、遠い過去に想いを馳せているようだった。

「分かった」
「請け負う気ですか」
「うん、七海もやるんでしょ。まぁあんたがやらなくても、やるよ。今後どんなことがその子に降り掛かるか予想も出来ないけどさ、どうせろくなもんじゃないでしょ」

 その笑みには自嘲と、悲しみと、後悔さえもが滲んでいた。

「でも可能性を示唆することはできるし、起きてしまったことに対して何かが足りなければ私たちが補ってあげればいい」
「理解が早くて助かるよ。やっぱり嫁に」
「五条さん」

 言いかけた言葉を遮れば、彼女は当然に首を傾げる。それに五条さんは喉の奥で一つ笑い、“シンデレラ”へと手を伸ばした。青春の甘酸っぱさを詰め込んだようなその黄金色を見つめ、指し示したわけでもないのに三人同時に、それを飲み干した。

「甘っ」
「美味いだろ」
「悪くないね」

 それはまるで過ごした青春への、それぞれの想いにも聞こえた。