八話


「どうでした、京都は」

 高専の廊下で「ただいま」と声を掛けてきた彼女は、今し方京都校への長い出張を終えたばかりだった。

「どうも何も大変だったよ。ほぼ丸一日葵に付き合わされた時は流石に次の日身体痛かったし」
「東堂くんですか。それは確かに骨が折れそうですね」
「そうそう、ゴリラは一人で十分だよ」
「そのゴリラは誰かは聞きませんけど」
「え、七海だけど」

 こちらが聞かないと言ったにも関わらず、壁に寄りかかり腕を組んだ彼女はさも当然とでも言いたげにこちらを純真な瞳で見つめる。人を平然と握力五百キロある生物と一緒にしないで欲しい。

 急遽京都に行くことになったと言われた時は何事かと思ったが、呪術高専京都校三年である東堂くんが鍛錬のため五条さんを指名したモノの、多忙な教諭兼特級呪術師の彼がおいそれと京都に赴くことができるはずもなく、ならば彼女、と指名してきたのがことの発端だった。

「全く、おかげで宿儺の器に会いそびれた」
「会いたかったんですか」
「そりゃあね。絶対面白そうじゃん」

 特級呪物を取り込んだ少年。彼女がいう面白いの定義は分からないが、確かに彼女ならば興味を示すであろうことはその存在を知った時に分かっていたことだった。だが、残念ながらその彼は同期の伏黒くんの目の前で亡くなったという報告を受けている。

「ってかなんであいつに付き纏われてんの?」

 彼女は物陰からわざとらしく顔を覗かせこちらに視線を向ける五条さんを見つめたままそう問い掛けた。そんなこと、私が一番聞きたいですよ、と言う代わりに小さく息を吐き、数日前「話がある」と言われ足を止めることなく「それは大変だ」とだけ言って済ませたことを思い出す。きっと原因はあれだろうなとは思いつつも、今更なんですかと聞くのも酷く面倒だった。

「それも今日までです」
「あー明日から北海道に出張だっけ」
「ええ、ついて来ないでくださいね」
「まだ何も言ってないんだけど」

 彼女が「行きたい」などと言い出す前に牽制をすれば、その口元は不機嫌にへの字へと曲がる。彼女であれば適当な理由を付け経費で旅行と浮かれ兼ねない。だがさすがに今回は上の、夜蛾学長より更に上層部からの任務だ。これは彼女にも伝えていないが、余りにきな臭い出張に彼女を同行させるわけにはいかなかった。

「じゃあ絶対お土産買って来てよね」
「分かりました。遊びに行く訳ではありませんけど」
「刺あんなぁ。蟹とお菓子とご当地キティちゃんね」

 相変わらず、彼女は強欲だ。否、女性は皆そうなんだったか。あ、夕張メロンもお願い、と付け加える彼女に、強欲な女性は多くあれどここまで容赦がない女性はそう多くいてもらっては困る。きっと、世の男性諸君のためにも。

「ねえ君たちいつまで僕をシカトする気?」
「さてと、部屋戻って片付けしなきゃ」
「私は明日の支度に取り掛かります」
「買う物リストいる?」
「いりません。増えてよこされそうなので」
「連れてってくれればゼロで済むよ?」
「ダメです」

 強情だね、と同じ方向に歩き出し、物影に入り込んだままの五条さんに目もくれず通り過ぎる。「お前ら覚えとけよ」なんて呪いじみた言葉は、聞かなかったことにした。



 私は出張が嫌いではない。高層ビルの立ち並ぶ都会から離れ、仕事とはいえ同僚から離れ一人になる機会というのはそう多くある物じゃない。強いて言えば同期である彼女が腕をなくしながらも「いやー大変だったね」なんて出迎えてくることがないかだけが心配ではあるが、大きな、それこそ昨年起こった呪詛師──夏油傑の百鬼夜行ほどのことでもない限りそれはないだろう。

 あの時の彼女は負傷した学生たちの治療を優先させたために、一週間片腕だけで過ごすことになった。彼女はあろうことか宣言に反し高専を襲ってきたかつての先輩である夏油さんの前へとわざわざ現れ、その結果となった。

 いくら生徒の危機とはいえ、彼の力は彼女もよく知るところであり、且つ自分は術式もなければ呪力を使うことも出来ないのになぜ出て行ったのかを問えば、彼女はなんとなく、なんて到底理解できない理由を並べた。だが、あなたは、そう吐き出しそうな溜め息を飲み込んで言おうとした説教は「でも灰原が尊敬してた人だから、殺しはしないかなって」なんて言葉に言うことさえ叶わなくなってしまった。

 そんなこと、この、ここにいる予定のない男にはとてもじゃないが言えやしない。当時最強の片割れであった、この五条悟には。

「勘弁してください。あなたがいると彼女にバレれば面倒なことになることくらいわかるでしょう」
「お、じゃああそこで記念写真撮ろうぜ。とびきり笑顔なやつ」
「今すぐ飛んで来かねないので本当にやめてください」

 “札幌へようこそ”なんて看板を指差し携帯を構える五条さんにかなり本気目の声でその行為を制した。そんな事をされれば、昨日道を別つまであわよくばついて来ようとする彼女を必死に撒き続けた意味がなくなってしまう。それだけは、絶対に避けたい。

 とはいえ彼の九割適当な会話に一人付き合わなければならないくらいだったら彼女がいた方が幾分マシだったのかも知れない──なんて考えは、今回の任務を思えば容易く潰えた。

──死者の蘇生。この任務はそんな十中八九インチキである謳い文句を掲げた呪詛師の調査、及び排除だ。その対象が赤子に限定されているとはいえ、密命のように振られたこの仕事は彼女にも、否、この五条悟にこそバレないよう念を押されていた。

 それは単に死んだ宿儺の器をどうこうする、なんてクソみたいな思考故なのだろうが、上の判断がそうなのならばただの手足である私たちはそれに従う他ない。まぁ、ここにこの人がいる時点でその思惑は全て水の泡なのだろうが。

 手掛かりともなる被害者との悲痛な問答の末、取引を行なった母親から子供の亡骸でもある呪骸を回収し、それを元に人の不幸につけ込む悪徳呪詛師の根城をあっけなく見つけた。ほぼ同時に扉へと振りかぶった足は、先程の光景に感化され穏やかではない。

「──七海」
「ええ。戯れに人々を呪っていたかと思いきや──呪われている側だったようで」

 扉を蹴破り対峙した呪詛師に疑問を感じた私と五条さんは、目の前の男にそう結論づける。途端、それが合図かのように男の身体はたちまち異形へと成り変わり、最早“人”とは形容し難く、何かに例えるならば、人の顔がついた蜘蛛だ。

「……やはり、彼女を連れてこなくて正解でしたね」
「なんで?」

 スーツを翻しながら敵の攻撃を避け辛うじて音になった程度の呟きは、背後の五条さんに聞こえてしまったらしい。

「彼女は虫が苦手ですから」
「何それ初耳」
「高専時代に一度、教室に蝉が入って来た時の暴れようはひどいなんてもんじゃなかった」
「へぇ」

 ちらり、その含みのある声に振り返れば、案の定口角を上げた五条さんがいる。その新しいおもちゃを見つけた子供のような表情に顔を顰めたのは言うまでもなく。

「やめてくださいよ。被害がこちらにも来るので」
「なんのこと?」

 これほど白々しい「なんのこと?」が世の中にあるのだろうか。今日、この最強と過ごす中で何度目か分からない溜め息をこの胡散臭く、陰鬱な場所に吐き出した。だが気持ちを切り替え全てを一刀で終わらせるため術式の開示を行う。それは残した胸糞悪さに反して、呆気なく幕を閉じた。