act...08
沈黙はただ私たちの髪を揺らしていた。2007年、今から十一年前、高専から大逆人が誕生した。──夏油傑。当時三年だった、私たちの同期だ。
『私は自分の本音を、選択するよ』
アイツが消えた後届いた一通のメール。
『君は』
胸糞悪い。アイツに相談なんてするんじゃなかった。
『どっちを選ぶんだい?』
煩い。大罪人に成り下がってしまったくせに。……だけどあの忙しかった夏、一人で最強になった悟と、元々危ない任務などで外には出ない硝子を除いた二人ぼっちになってしまった私たちは、様々な話をした。そして、もつれ合うように疲弊していた。それはきっと、私たちしか知らない一夏の負債だ。傑がそうなってしまった理由を完全に否定できない自分が、ずっといた。
だから高専で学ぶべき過程を終え、しらばくしたある日、私は傑の元へ行った。悟にも硝子にも、何も言わずに。
「大体八年、か。ずっと見てたの。傑を」
見開いた六眼と、今にも信じられないと口走りそうな唇が僅かに震えている。当然だ。ただの放浪者だったのならばなんとか学長のお説教だけで済ませられた。だけど、その放浪先が非術師を百人以上殺し呪詛師になった男の元となれば話は百八十度変わる。最悪、この場所で殺されてもおかしくない。軽蔑、するかな。嫌われて、突き放されて、掴まざる得ない現実を突きつけられた方が楽だと宣う私は、本当にどうしようもない女だ。
「悟、」
強く、私の腕を掴むその人の名を呼ぶ。私は、いや……私も、アンタに殺されるなら、殺されるならアンタが、
「傑と寝たのか」
「……は?」
「は? じゃねえよ。傑とヤッたのかって聞いてんだよ」
悟のアホみたいな質問に突如襲いかかる頭痛に頭を振れば、思わず重いため息が出た。コイツ、私が言った言葉の意味分かってるのか? まさか伝わってない? いやいや結構はっきり言ったわ。聞き間違える事も出来ないくらい、キッパリと。
「アンタねえ……他に聞くことあんでしょ」
「ねーよ」
やけに言い切るもんだから抱えていた頭から手を離し悟を見上げる。その人は眩しいくらいの地平線を目を細めて見ていた。まるで、過ぎ去った過去に想いを馳せるように。
「アイツの計画に加担してたら流石に戻って来てねえだろ」
「……知らないの? 私図太いんだけど」
「知ってるっつーの。そこまでじゃねーって話だよ。ただ、アイツの意思を尊重したんだろ。俺たちは」
俺たち、その言葉に鼻の奥がツンと痛んだ。悟はまるで会ってなかった九年の歳月を、この罪を告白してからほんの数秒で傍で見ていたかのように語る。なんで分かってしまうのか。私が知ってるはずの傑と、目の前で新しい家族たちと笑う傑がどうしても合致しなくて、でも切り離すことも出来ず、ただ近くで傑の行いを見ていることしか出来なかったことを。
例えそれが間違ってたとしたって、傑の見据えた先にあったものは確かに光だった。それを否定する権利は、きっと私たちにありはしない。もっと真っ直ぐ、あの、虎杖くんみたいに傑の手を掴めたのなら、何か変わっていたのだろうか。私たちが、虎杖くんが普通に持っている選択肢を、持っていたのなら。
そんな後悔は今更無意味だと知っていても、最終的に殺し合うことしか出来なかった終わりはそう形取らずにはいられない。ずるずる、ずるずる引き摺られたまま気付けばこれだけの年月が経ってしまっていた。そりゃあ抜け出せもしないわけだ。私はこの男を、愛しちゃいけないと思ったあの夏の自分から。
「また海に引き摺り込まれるよ」
悟はそう言って腕を掴んでいた大きな手を滑らせ、私のそれをギュッと握った。もう呪霊は祓ったからそんなことあるはずもないのに、そんな言い訳をしないと手さえも繋げないなんて、私たちは飛んだ不器用な大人になってしまったもんだ。
……振り払うべきなんだろう。私にこの手を掴む権利は、きっとない。だけど、その手を同じ熱量で握り返せば、悟の指先がぴくりと反応する。まるで、握り返されるとは思ってなかったみたいだ。
ちらりと見上げた悟の赤い頬は、空から溢れた橙はかき消してくれなかったらしい。自覚があるのか、尖った唇がぶっきらぼうに「なんだよ」と呟く。だから私は「なんでもない」と返して、その眩しさに視界が滲む感覚を噛み締めながら、その温度に目を伏せた。
「で、寝たの?」
「ちょっと、いい感じに終わるところ水挿さないでよ」
「知らねーよ。オマエが答えないから悪いんでしょ」
本当、この男はどこまでもマイペースで嫌になる。だけど、今はそれが有難かった。きっとずっと、私はそう思ってしまっている。
「寝たな」
「はあ!?」
「……ねえ悟、私教師やるわ」
まだ何か言いたげだった悟が、私の言葉に咄嗟に言おうとした音を飲み込み口を噤む。その目はなんだよ急にとでも言いたげだ。
この男に無理やり押し付けられた選択肢。だけどそれを今度は自分の手で掴んだ。あの日、あの日々で選べなかったから、押し付けられなかったからこそ私たちは友を失った。これが運命だといえば仕方ないことかもしれない。だけどもし万が一また同じような事が起きた時、大切な何かを失わないために、後悔しないために、その選択肢を増やすためにも私はこれを選ぶよ。もうこれ以上、なにも失いたくないから。自分の気持ちと向き合うのは、まだ少し、見て見ぬふりをして。
「そう、」
「うん、出来るか分かんないけど」
「出来んだろ。オマエは俺より人の気持ちに気付けるんだから」
それは傑の事を言ってるんだろう。ああそっか、悟は私が傑を心配してついて行ったと思ってるのか。全然違うのに。私はただ、アンタから逃げただけなのに。だけどそんなこと言えなくて、「買い被らないでよ」なんて可愛くない言葉しか吐き出せなかった。
「でも、悠二に抱き着くの禁止な」
「ああ、彼いい身体してたな」
後から聞いた両面宿儺の指を取り込んだ少年、虎杖悠二。通りで気配が呪いそのものな訳だ。ってかそんな大事な情報もっと早く言って欲しかったんだけど。まぁ九年も高専を空けてた私が言えた義理じゃないから言わなかったけど。
「隣にこんないい男がいるのにそういうこと言う?」
「また帰ったらハグさせてもらうか」
「は? このイケメンをシカトするなんていい度胸してんな。あと絶対ダメだから」
聞いてる? ねえ、聞いてんのかよ、なんて連呼するイケメンを「うるせー」とあしらって、水面を陸に向かって歩き出す。手を繋いだままの私たちの頭上には、いつの間にか綺麗な星が瞬いていた。