act...05
「本っ当信じらんない……!」

ダン! と踏み込んだ足音は、私の憤りとなって高専の廊下に反響した。ほんの三分前までギリギリとゴリラみたいなデカい手で頭を鷲掴みにされてたために、凹んだ頭部がまだ名残を拭えずにズキズキと痛む。まさかアラサーにもなって延々と説教されるなんて思ってもみなかった。夜蛾先生……今はもう学長か。うわ、さらに腹立つ。には今度パワハラに悩む職員のためのコンプラ委員会設置を強く希望しよう。そんで真っ先にあのゴリラを叩き付けてやる。絶対だ。

「…」

とはいえお咎めがこれだけだったのは、きっと夜蛾先生と、冥さん、あと、癪だが悟のおかげなんだろう。呪術界の歴史は深い。そして御三家なんて今じゃ漫画かアニメの世界でしか聞かないようなものが身近にごろごろといるくらいには、現在進行形でその古き時代の悪弊も、未だご健在だから嫌になる。

『夢があるんだよね』

思い出すのも腹立たしい茶番劇の後、黒幕の一人である白い男は閉めたネクタイを緩めながらそんなことを宣うから白昼夢でも見てるのかと思った。夢? あの悟がそんな言葉を口にする場面に出くわすことになるなんて、それこそ夢にも思わなかった。否、そのきっかけは容易く想像出来てしまったから、私はただグラスを傾け僅かに残ったメロンソーダを吸い込む横顔を見つめる事しか出来なかった。

『この呪術界をリセットする』

ああ、とよく分からない諦めが口から漏れそうになった。彼は変わってなくない。あの日から確かに前を見据え、一歩一歩前へと進んでいる。それ故の教員、か。とそこで初めて納得した。未だにあの日に心を置いたままの私とは、大違いだった。

『そう、頑張って』

そんな、月並みにもならない言葉しか送れなかった。私と悟では見えているものが違いすぎる。過去にも抱いた劣等感は、九年の歳月を経てさらに大きくなって私に噛み付いた。それにちくりとする胸も、やぱりまだ、変わっていない。

『何言ってんの。オマエもやるんだよ』
『は?』
『俺一人じゃ、ダメらしいからね』

そう言って和室の隅に誰かさんから掛けられた呪いを薄目に見ている。だけどその醸し出す雰囲気は私が弱いあの顔をする時と同じものだ。あの日──傑がいなくなった日と同じ、一つの絶望を味わった瞳。それと同時に脳裏に流れる映像には、後輩の死と行き場を亡くしたやるせなさ、そして、彼の葛藤が映る。

『手伝って、くれるよね』
『…』
『まぁオマエに拒否権なんてないけど』
『あ″!?』



「──……」

そんな横暴にいつものやり取りになっちゃってその話は終わったのだけれど、やっぱり無理だ。私には、何もかも。足を止め窓から見える風景を呆然と見つめる。そこにはやっぱり今ではなくセピア色した私たちが映るのだから、到底悟の夢に向かう船になんか乗れそうにない。

(逃げちゃおっかな)

ふと、そんな思いが過ぎる。恩、義理、友情、思い出。全部どうでもいい。考えるのは好きじゃない。どれもこれも行き着く先では面倒臭いがエレクトリカルパレードしている。そんな喧騒はごめんだ。だから、全部、

「!」

ぐっと、前触れもなく腕を掴まれた感覚に飛んでいた意識が強制的に現実へと引き戻された。勢いよくそこに視線をやれば、薄いピンク色がふわりと揺れ、下から私を同色の瞳が見つめていた。

「先生、」
「君は、」

赤いフードの付いた高専の制服を見に纏う少年は、悟に呼ばれてここに来た時にいた三人の内の一人だ。ということは今悟が受け持っている生徒、ということになるが、

(なに、この子)

真っ直ぐに見つめられる視線に身体が動かない。この前は気付かなかったけど、彼の中に流れる呪力が、違和感として私をそうしてるのは明らかだった。今まで感じたこともない禍々しくて、だけどそれと相反するものが混ざらずに共存でもしているかのような、気持ち悪さ。

「っ、」
「あ、ごめん! 強く握りすぎた!」
「ううん、平気だよ」

骨の軋みに思わず顔を顰めた私を見て、彼は両手を掲げ一歩後ずさる。本当ごめん、俺馬鹿力だし女の人の腕なんて掴んだことなかったからさ、なんて後頭部を掻いて眉を下げる彼は、側から見たら至って普通の少年だ。その、見目だけで言えば。

気を使わせないようにそのままなんでもないように組んだ腕は、夜蛾先生に握り潰されそうになった頭の痛みなんて一瞬で消し去るくらいの鈍い痛みを発していた。正直、そのまま腕がもげるかと思ったくらいだ。痣になるくらいで済めばいいけど。

「本当大丈夫。で、何か用?」
「いや、なんて言うかさ、」

問いかける私に彼は罰の悪そうに視線を逸らす。なんだ? 何か言いづらい事でもあるのか。そう思い子供の相手なんか出来る気もしなくて、ただ黙って彼の言葉を待った。

「先生、死んじゃう気がして」
「!」
「や! ごめん! ごめんなさい! 俺変なこと言ったよな!? うわぁ、変な奴って思われたかな……」

最後の方はほぼ独り言だった。つい出た言葉を公開するように口元を押さえて、今にも土下座でもしそうな勢いだ。

「どうして、そう思ったの」
「え? あれ、平気な感じ? あー……えっと、俺、最近じいちゃん死んじゃってさ。先生、そのじいちゃんが死ぬ間際とおんなじ目してたから」
「……そう、」

こんな時、慰めの言葉でも掛けるべきなんだろう。ただ頷くことしか出来ない私と、聡く人の心に敏感すぎるこの子と、一体どちらが大人なのか、分からなくなる。本当、情けなくて仕方ない。彼の中を渦巻くものしか見ずに、組んだ腕の影で印さえ結ぼうとしていた自分が。

「──え?」

彼はこんな、たった一度会っただけの私の感情にも自分の痛みとして感じてしまったのかもしれないと思った。随分感情移入の強い子なのだろう。それでもまだ少年が故に身体を流れる感情に腕を掴む力に直結してしまった。だから、投げる言葉を知らない私は、ギュッと抱きしめてあげることくらいしか出来なかった。こうしてみると私より身長は高いし身体も本当に腕の一本くらいもいでしまいそうな程がっちりしている。抱きしめると言うよりは、ハグに近い。

「え? 先生? どゆこと?」
「私がこうしたい気分なんだよ」
「そうなの? でもさ、これ五条先生に見られたら俺死ぬんじゃ……」

ぽんぽん、と頭を撫で左右に振れば明るくて短い髪が頬に触れてくすぐったい。私にされるがままにただ立っている彼が、少し可愛く思えた。あ、これが噂に聞く母性本能ってやつか? 私にそんなものがあったこと自体が驚きではあるけれど、まぁ悪くない。

「君たちなにしてんの?」
「うわあ! ごごご五条せんせ!?」

私たちの真横に突如現れドスの効いた声を発する悟に、腕の中の彼が慌てふためき私から離れようとする。が、私は見せ付けるようにさらにギュっと彼の頭を胸に押し付けた。

「!」
「邪魔しないでよ。今いいところなんだから」

そう言った私の腕の中でピタリと動きを止めた名前も知らない彼が、「めっちゃいい匂いする……」と呟いた時の悟の顔は、向こう十年笑えそうだった。