act...09
散々終わったあとに何食べるだの言っていたはずの出張は、あの後すぐに空港に向かうから首を傾げた。だけどこの仕事が元々トンズラした一級術師の尻拭いだったこと、オマケに私の監視をわざわざ上層部が悟にと要求して来ていたことをこの時初めて告げられた。

行きのマシンガントークが本当に私の思考を遮るためだったことも然る事ながら、現地で感じた違和感の正体が急に押し寄せざわりと心臓が嫌な悪寒を覚える。

そしてそれは、悟に掛かってきた一本の電話で現実へとなってしまった。行きにあれだけしゃべっていた悟は一言もしゃべらず、静かになってよかった……なんて言えるわけもない空気は酷くピリピリとしている。それはきっと、私にも言えたことだろう。

「わざとでしょ」

この部屋に入るなり本来人を寝かせるはずのベッドを乱暴に移動させそこに腰掛けた悟の低い声が、ここ、死体安置所に静かに落ちる。私の前でそのベッドと呼ぶためには必要な要素がほとんど満たされていない場所に寝かされた一つの遺体が薄っぺらい布の下で、息を忘れていた。

『悠仁が死んだ。特級相手にして』

電話を切った悟は、私にそれだけ言った。呪術師が死ぬことは特段珍しいことじゃない。高専時代の時だけだって味わった苦みだ。その苦味に耐えられなかった男たちのことも、私はよく知っている。きっと、それは隣の悟だけじゃなく現呪術師皆が等しく抱えているものだ。

だけど、まだ呪術師になり得て間のない、つい最近まで一般人だった虎杖くんが死んだ。しかも、特級を相手にして。──あり得ない。恐らく私たちの考えていることは同じだった。きっと、仕組まれた。本来手を取り合うべき、呪術師たちに。だから、殻を破ってしまいそうな負の感情を私たちは並んで必死に抑え込んでいる。

『ねえ』
『なんだよ』

慣れてしまった痛み。だけど痛みを感じていないわけじゃない。こんなことがある度私たちは嫌でも古傷を自覚せざる得なくなる。それさえも、きっとアイツは耐えられないと思ったんだろう。

『狂ってたのはアイツ? それとも、私たち?』

顔も見ずに悟に問いかける。悟もこちらを見ている気配はない。だけどやっぱり私たちは写鏡のように、同じ顔をしていたのだろう。

『決まってんだろ』

目に映るのは飛行機の窓から見えた、闇だ。

『俺たちだよ』



「珍しく感情的だな。……と、久しい顔がいるな」

悟が補助監督を務めていた伊地知に詰め寄る殺伐とした空気を、微風くらいに思っていそうな代わり映えのない口調が三人しかいなかった部屋に増えた。学生時代は肩に掛からないくらいだった伸びた髪を徐ろに弄りながら白衣を見に纏う女は、九年ぶりに私を見たってその声音は弾みも沈みもしない。

「硝子、久しぶり」
「生きてて何より。まぁ、再会を喜ぶ場所としちゃ最悪だけどな」
「本当に」

硝子から視線を外し目の前で横たわる死体に再度目線を落とす。やっぱりそれは、ピクリとも動きはしない。

「随分お前らのお気に入りだったんだな。彼」
「僕はいつだって生徒思いのナイスガイさ」
「あまり伊地知をイジメるな。私たちと上との間で苦労してるんだ」
「男の苦労なんて興味ねーっつーの」

そうか、なんて悟の言葉にあっさり返すところなんかはほんと変わらない。懐かしく心地いあの頃聴いていた声は、たったひとつ欠けてしまっただけでざわりと胸が疼く。特に私は、去年までその声を聞いていたから、余計。

「で、コレが、宿儺の器か」

硝子がそう言って心許ない布を容赦なく剥ぎ現れた顔に、分かっていたはずなのに思わず顔を顰めた。──『先生死んじゃう気がして』そう言った彼が先に死んでしまっては、あの言葉さえ呪いじみてしまうから嫌になる。

「戻ってきたのは最近だろ。そんなに彼と接点があったのか」
「別に。ただ帰って来たらお礼ぐらい言わなきゃなって思ってただけ」
「そうか」

硝子にそう問われるくらい今の私は酷い顔をしているのか。でもきっと、あの私が逃げ出そうと思った時に彼が手を掴んでなかったら、私はまた逃げ出したかもしれない。彼の持っていた選択肢に憧れなければ、教師なんてものをやろうなんて思わなかったかもしれない。だから、ただそれだけが心残りなだけだ。

「僕はさ、性格悪いんだよね」

そう切り出した悟は、私にも語った夢の話をし始めた。この件に関わっているであろう上層部を腐ったミカンのバーゲンセールに例え、もっともその職業に不向きであったにも関わらずなぜ自分が教鞭を取っているのか。悟の力があれば並んだ首を物理的に根絶やしにすることは容易いだろう。だけどそれじゃ、何も変わりはしないことを知ってしまっている。それほどに闇の世界といえどこの呪術界は広く、問題は根深い。それを彼は、悟ってしまった。親友の、言葉によって。

きっと、ここに横たわる彼も悟が行わんとしている改革と、その先を見据えた構想の中にいたんだろう。本当に変わったんだな。悟は。そんな彼の横で足枷だらけの私は、一体何が出来るのだろうか。

「ちょっと君達、もう始めるけど」

硝子が解剖のため医療用の手袋とマスクを嵌め悟と伊地知に向かって声を発する。私、といえば、虎杖くんの胸に空いた穴が、急速に閉じていく様に目を見開いていた。

「そこで見てるつもりか?」
「硝子、」
「あ?」
「おわっ! フルチンじゃん!」

暗い空気の澱んだ場所に、一際明るく場違いな単語が飛んだ。辛うじて隣に立った硝子の名前を呼ぶのに精一杯だった私に、なんだと顔を戻した硝子も思わず固まっていた。伊地知はテンパって悟の名前を呼ぶのも一苦労だし、そんな悟は笑って伊地知にうるさいと言っている。それもそうだ。死んだはずの人間が生き返るなんて奇跡を、目の前で見てしまったんだから。

「ちょっと残念」
「あの〜恥ずかしいんスけど……」

ってか誰? と唇を尖らせる虎杖くんは、本当に生きている。おかえりと言った悟と、ただいまと返す彼が目の前でハイタッチを交わして、私は、

「おわ! 先生!? また!?」
「あ!」

彼をギュッと抱きしめた。どくんどくんと抜け落ちていたはずの心臓の音がする。あの時と、同じ音だ。

「おかえり」
「うん、ただいま……でも服着させてくんね? あと五条先生が」
「気にしなくていい」
「気にしろよ。っつか悠仁に抱きつくの禁止って言っただろ」
「聞こえない」
「聞こえてんじゃねーか」

不機嫌な悟とお前たち変わらないな、って笑う硝子の間で、私はじわじわと体温を取り戻していく虎杖くんの背を、もう一度、強く抱きしめた。