May / act...03





「レノ!」
「おわぁ!」

 朝、バタン! と前触れもなく開いた自室の扉に、ジャージのズボンを片足を上げ履きかけていた俺は突如現れた天災の衝撃にそのまま背後にひっくり返るかと思った。

「おま、まだ着替えて……!」
「ほら早く早く! はいこれ食べて!」
「待、んぐっ!」

 ティーシャツにパンツの見えた中途半端な格好だというのに、ナマエは気にもせず俺の口に容赦なくサンドイッチを突っ込み物理で抗議を押し戻してくる。息をするスペースすらないほど詰め込まれたそれを必死に咀嚼し、喉を鳴らして飲み込む。……はぁ、まじで死ぬかと思った。

「美味しかった? 私が作ったの」
「は!?」
「あ、やばこんな時間! 早く早く!」
「な、分かったっての! だから引っ張るな!」

 頼むから服を着させろ! と朝っぱらからテンションの高いナマエを宥める。っつか、こいつが作ったならもっとちゃんと食いたかったなんて、微塵も味わうことの出来なかったサンドイッチに想いを馳せれたのは一瞬で、ドタバタと音を立てナマエに捲し立てられながら支度を終えた俺は、家を出る頃にはすでにどっと疲れていた。

「天気良し! 忘れ物なーし!」
「なんでお前がそんな気合い入ってんだよ、と」

 土曜の休日。チャリには乗らず駅までの道を二人並んで歩く。ナマエが入部してしばらく経ち、俺の独りよがりの虚しい緊張も最早なくなってあの頃と変わらない雰囲気で俺たちは過ごしていた。ナマエもあっという間に部に溶け込み、そして重宝された。ナマエはこの数年バスケから遠ざかっていた熱を取り戻すように色んなことを調べ、知識は力なりと言わんばかりに俺たちに提供してくれた。おまけにバスケに触れるのが早かったからか、1オン1の時にも見せたその目は見方の分析に止まらず、敵の対策にも役立っていた。

「だって初試合だもん」
「あんたが試合するわけじゃねえぞ、と」

 試合といっても、近隣高との練習試合だ。俺たちにとってはよくあることだが、ナマエにとって初めての試合に感情が昂ぶってるらしい。本当、こんなになるくせに自分じゃバスケをやらなかったことが不思議に思うくらいだった。俺の言葉にナマエは「知ってるし」と口を尖らせ不貞腐れる。へー、へー、俺が悪かったぞ、と、言えば、その顔には再び高揚が滲んでいた。そんな仕草にふっ、と笑い、俺たちは会場となる高校に揃って向かった。



「う、緊張して来た」
「だからなんでだよ」

 練習試合の高校に到着し皆と合流して着替えも終えた頃、あれだけ騒がしかったナマエが静まり返ったと思ったらそう言って自分の胸を押さえていた。

「分かります……私も緊張して来ちゃった」
「だよね……」

 ナマエの横にいたティファがそう言ってナマエと同じ仕草をして細く息を吐く。そういや一年にとってもこれが最初の試合か、なんて自分の当時が微かに脳裏を過ぎる。が、そん時だって俺が思い浮かべていたものなんて今も昔も変わらないことに気づいて、その答えを見つめた。

「なに? やっぱレノも緊張してんの?」
「ちげーけど、まぁ、ちゃんと見てろよ、と」
「? そりゃもちろん」

 マネージャーですから、なんて言うナマエには俺の言いたいことの半分どころか三分の一も伝わっちゃいない。なんとも不毛なやり取りに頭をガシガシ掻いて、まぁいいかとコートに向かうためナマエに背を向けた。

「レノ、」
「あ?、」

 なんだよと振り返れば、右手を掲げたナマエが、いた。

『レノ!』

 その姿に、まだガキ臭さが残る影が重なって目を見開く。

「かましてこい!」
「……ハ、上等だぞ、と」

 変わらない俺を鼓吹する言葉に一つ笑って、俺たちの掌は軽快な音を立てて合わさり、そして離れた。

「熱いな〜」
「うるせえぞ、と」

 コート中央にて挨拶のために並べば、ザックスにそんなことを言われ一閃する。別にもう他人に何を言われたっていいんだよ。俺は、俺のやりたいようにやる。一瞬だけ重なった掌をギュッと握った。そこから身体を廻り不思議と溢れてくる力は、確かにザックスの言う通り、熱くて仕方なかった。




 ◇




 風呂上り、濡れた髪にタオルを被せ自室の電気を点けた。今日の試合は大勝利もいいとこで、誰かさんのせいで気合い入り過ぎちまったな、なんて、終わった後のスコアボードに笑ったくらいだった。だけど、ティファと共に手を取り合って喜ぶナマエを見ればそんな微かな後悔は簡単に風に攫われちまった。我ながら分かり易い情緒に、やっぱり俺は笑ってしまったのだった。

「ん?」

 静かな部屋にこつん、と物音がした。その音の原因が何なのかを探る間もなくカーテンを開ければ、そこには腕を伸ばし俺の部屋の窓を再度叩こうとしているナマエの姿があって窓ごと開け放つ。

「お疲れ」
「おう」

 俺と同じように風呂に入った後なのか、髪はすっかり乾いていたがパジャマのようなラフな格好をしていたナマエはそう言って身を乗り出した。危ねえぞ、なんて、互いの家と家の距離は近いとはいえ一メートルはある幅に思わず俺も前のめりになれば、眼前に一本の缶ジュースが差し出され目を瞬かせる。

「祝杯!」
「祝杯って、ジュースじゃねえか」
「当たり前でしょ、高校生なんだから」

 受け取ったジュースに「サンキュ、」と返し、カシュ、と音を立てプルタブを引いた。それを風呂上りで火照った身体に一口含めば、冷えたそれは夜風と相まってやたら胃に染み込んでいく感覚がした。

「凄かったね、みんな」
「みんなかよ」
「レノも凄かったよ」

 ついでのような物言いについ顔が険しくなってしまう。そんな俺にナマエはけらけら笑って窓枠に肘を付いた。

「本当、上手くなったよね」
「……ま、じゃなきゃ練習の意味ないだろ、と」
「昔はこーんな小さかったのに」
「お前は親戚のばーさんかよ」

 全く、同じ年齢で同じ速度で歳を取ってるってのに、ナマエは自分の腰より下に手を掲げ懐かしんでいる。俺がそのくらいの時は、自分だって変わらなかったっつうのに。

「気分はそんな感じだよ?」
「…」
「ん、何よ」

 俺の悪態をあっさりと肯定するもんだから、じっとその何を考えてるのかわからない瞳を見つめた。だけど、やっぱりそこにはナマエの言う通り、成長を見守るかのようなものしかなくて心で舌打ちする。ほんの少しだって、こいつの目に俺は“男”としては映ってはいない。今更ながら、幼馴染みなんてアドバンテージが呪いの言葉のように思えて仕方なかった。
 首を傾げるナマエにいつものように「別に」とだけ返して背を向けた。だけど、また明日な、と言えないのは、俺がまだこの時間に居座っていたいからに他ならない。惚れた弱み、なんて下らないもんに、随分好き勝手振り回されてちまってるわけだ。

「でもさ、楽しみだね。インターハイ」
「お前なぁ、インハイ行くのがどんだけ大変か知ってんのかよ、と」

 これから五月、六月とかけて予選が始まり、夏に行われる全国高等学校総合体育大会──通称インターハイ。昔からそこそこ実績を挙げてるうちの高校だってその出場回数は数える程しかない。昨年なんてあと一歩とはいえ出場すら出来なかった。なのに、呆れ半分で言った俺の言葉に「知ってるよ」と答えるナマエは確信すら持っているようなキラキラした瞳をあけすけに俺へと向けた。それが俺には、今俺たちの頭上で輝く星なんかよりも、よっぽど眩しく見えた。

「だから連れてってね」

 疑いを知らないそれが、微笑みと共に俺に注がれる。その言い方は狡いだろ、なんて呟きを口に当てた缶で紛らわせれば、ナマエが首を傾げる。だから、ぐいっと身体を窓から乗り出して、左手を差し出した。

「俺が、連れてってやる」

 あえて強調した言葉に、ナマエは一瞬面食らい、噴き出すように笑った。その反応にちょっとムッとしたが、俺の突き出した小指にゆっくりとナマエのそれが絡んでいく動作に、僅かに息を呑む。

「約束だからね」
「ああ、だから、」

 言い掛けた言葉を詰まらせた。続きを待つナマエの瞳と、俺の視線が静かな世界で交じり合う。だから、その約束が叶ったら、俺と──

「レノ?」
「いや、なんでもないぞ、と」 

 絡めた指を名残惜しみながら離して、そう言った。バカみてえだ。そんな願掛けしなきゃ言えないなんて、情けなさすぎる。いや、怖いんだ。そうなってしまった時に、言わなきゃいけなくなる事が。そんな思考に少し伏せた視線で自嘲する。堂々とするなんて思いはしたが、この想いを告げることに関してだけはまだ、不安定なままだった。

「ちょっと退いて」
「あ? ってお前! 何やって、」

 目の前のナマエの行動が信じられなかった。自分の部屋の窓枠に足を乗せたナマエは、俺の制止を全く聞かず、そのまま俺に向かって、跳んだ。

「ま、こんくらいなら余裕余裕」

 なんとも軽々と、今度は俺の部屋の細い窓枠にその足を着地させ、そう笑うナマエに頭痛がした。距離なんてあってないようなもんだとしてもここは二階部分。下にクッションとなるような物なんてない。落ちたら怪我じゃ済まないことをどうやらこいつは分かってないらしい。

「分かったから、んなとこから降り、ろ」
「っわ、」
「ナマエッ!」

 瞬間、呆れを滲ませた瞳が緊張と恐怖を孕む。見えたのは足元が滑り背後に倒れていくナマエと、宙を漂うその腕に必死に手を伸ばす、俺の腕だけだった。

「イタタたた」
「……はぁ、」

 咄嗟のことで掴んだ腕を引く力が加減出来ず、俺たちは雪崩れ込むように俺の部屋へと凄い音を響かせ倒れ込んだ。止まったかと思った心臓はバクバクと脈打ち、どっと降りかかった疲れに俺は天を仰いで溜め息を吐いた。

「おい……大丈夫かよ、」

 顔を下げた俺は、思わず固まってしまった。うう、と悶えるナマエは俺の上で顔を顰め、俺の手はナマエの頭をしっかりと俺の胸に押し付けていた名残がむざむざと残っている。その着古したシャツの襟から見えた無防備な鎖骨と、偏った髪から露わになっている首筋から、目が離せなかった。

「何ごと!?」
「!」

 物音を聞き付けた母親が勢いよく扉を開け、そして固まる。そりゃそうだろうな。だというのに、ナマエは「お邪魔してます、たった今」なんて笑って言うもんだから、俺たちは揃って説教を受ける羽目になった。