April / act...01





 授業の合間の中休み。いつものように楽しくエアリスと雑談をしていると、徐ろに私の前の席にどかりと赤い影が降って来た。横向きに座った彼は私の机に腕を掛け、私たちが話の途中だという事に遠慮もせずグイッと身を乗り出す。なに? と目を瞬かせた私と、予想外であろう人物の来訪にエアリスでさえ思わず口を噤む。その彼、レノはいつもの飄々さに影を落とし、その青緑の瞳は珍しく緊張が滲んでる。一体その口からどんな言葉が出るのか、私たちは目の前の彼が口が開くのを目を瞬かせながら待った。

「お前、マネージャーやらねえか、と」

 高校二年の春。なんとなく慌ただしくなり始めるにはまだ早いこの時期。もう少しばかり学校生活という平穏が続いていくのだろうと思っていた私の日常は、そんな幼馴染みの言葉で一変する事になる。

「別にいいけ、」
「だめでーす!」

 手が回ってないのかな、なんて思うだけして二つ返事で了承しようとした私の声を遮って、隣のエアリスが一際大きく他人の机を叩いてそう抗議した。そんなエアリスに面倒臭えと言わんばかりにレノは見せ付けるような溜め息を吐き、険しい視線をエアリスに向けた。

「あんたには関係ないだろ、と」
「関係大有りです! ナマエが忙しくなったら私と遊んでもらえなくなっちゃうでしょ!」
「知るか」

 ぐっとワイシャツの袖を捲し上げ腕を組んだレノの筋肉が、同年代よりもきっちりと膨れ上がっている事を見て人知れず感心した。どうやら彼は真面目にバスケを続けているらしい。マネージャーというのもレノが入学から所属しているバスケ部のものだろうな、と思った。

 バスケに関しては小学校の時に遊びの一環で一緒に励んでいた。その後しばらくして本格的に始めたレノの相手をしたり、トレーニングに付き合ったり、まぁ真面目にやるもんだから私の方は色々調べて情報提供なんかをしたりしていた。

 だけど中学に入って少しした頃からその回数は日に日に減っていき、半ばになる頃にはその単語すら聞かなくなってしまった。同時に……いやきっと、それは先にレノと疎遠になってしまったことが大きな理由だった。年頃だしなぁ、なんて寂しさを仕方なさで塗り潰していた日々にも慣れて来てしまった今日、どうやらそれは解禁されたらしい。毎日学校で顔を合わせているとはいえ、レノの声をこの距離で聞くのはどれくらい振りか、昨日までの他人行儀が嘘みたいに話しかけて来るレノに、どちらかといえば私の驚きは傾いていた。

「んじゃ、明日からよろしくな、と」
「また急だなぁ。まぁ、分かった」

 少しばかり安堵したような瞳を携え身軽に立ち上がったレノは、そう言って口角を上げ席を離れた。だけど隣のエアリスはまだ納得いかないようで、ふと見ればその頬を此れみよがしに膨らませている。なんというか、可愛い。

「私、ナマエがバスケするなんて聞いた事ないんですけど」
「やってたってほどじゃないよ。レノに付き合ってただけ」
「それ! それも初耳!」

 そうだっけ? と首を傾げれば、エアリスは「もー!」と揃えた両足を不満げに揺らした。エアリスとの付き合いは高校からだから、この数年隣の家に住んでる同級生でしかなかった私たちが幼馴染みだなんてわざわざ言う機会もなかっただけなんだけど。
「……まぁ、ナマエがそんな顔するなら渋々許してあげるけど」

「そんな顔って、」
「楽しそうだよ」

 にしし、と悪戯に笑うエアリスが見当違いの考えを浮かべていることは明白だったけど、否定はしなかった。またあの頃みたいにレノとバスケが出来るなら、きっと私の顔はその期待を隠しきれてはいないだろうから。















「おーい、起きろー」
「──ん、」

 朝、そんな声が聞こえて身を捩った。まだ目覚ましは鳴ってないはず。放任主義の母親が起こしに来るなんていつ振りだ? と言うか遅刻も自己責任な親がそんな事……そこまで考え手繰り寄せることが出来ない答えを求め目を開け、瞬間的に覚醒した。

「な、」
「はいおはよう」

 ぱちりと目を瞬かせてみても、目に映るのは高校の制服に身を包んだ隣に住む幼馴染みのナマエでこれが夢じゃないことを悟る。そんなナマエは久々に入った俺の部屋を物珍しそうに眺めていた。

「んな朝早くから何してんだよ、と」

 欠伸すら出ない目覚めに携帯の時計を見ればまだ六時前だ。朝練に行くにはまだ早すぎる時間にボサボサの頭を掻き毟る。……ちらり、と自分の部屋を見渡す。よし、見られてまずいもんは、ない。むしろ綺麗な方だ、と自分でも思いナマエにバレなように安堵した。だけど、自分の部屋にナマエがいると言うだけでなんとも落ち着かなくてそわそわしてしまう。昔は、毎日のようにどっちかの家にいたと言うのに。

「何よ、レノが言ったんでしょ」
「は?」
「マネージャー」

 ……ああ、いや言った。言ったしこいつのことだ。ある程度は覚悟してはいた。が、まさか次の日の、こんな早朝からなんて予想外もいいとこだった。はぁ、と胡座をかいたそこに池が出来そうな程深い溜め息を溢し、でもまぁ、変わってねえなと安堵した口元は悟られないように手で覆った。

「ま、それとは別に、久々にやりたくなったの」
 そう言ってナマエは俺の机に置いてあったバスケットボールを手にし、俺へと向いた。パン、と軽快な音を立て俺の手に吸い込まれたそれに、ナマエは不敵な笑みを浮かべた。

「付き合ってよ」



 ◇◆◇



「おっそーい!」
「……ッ鬼かよお前は!」

 膝に手を置きゼーゼーと呼吸を繰り返す寝起きの身体へと放たれた文句に、思わずそんな悪態も吐きたくなる。だがそんな言葉耳に入っちゃいないナマエは、乗って来た俺のチャリを降り準備運動を始めていた。1、2、3、4、と身体を伸ばし、よし、とカゴに入っていたボールを手にする。

「っつか、それでやる気かよ」
「それ? ああ、そっか」

 ナマエのプリーツの入ったスカートを指させば、そこに視線をやったナマエは納得したように自分の鞄を漁り短パンをと取り出した。マジでやる気かよ、なんて思ったのも束の間、その場で短パンを履き始めるもんだから俺の心臓はどきりと脈打つ。バッカやろう、なんて思考とは裏腹に、そのウエスト部分がナマエの足に通され上がっていく様から、視線が離せずにいた。

「うん、準備完了。……何してんの?」

 遅ればせながら視界を覆っていた俺にナマエは首を傾げ、ダン、ダン、とボールをつき始める。……本当、人の気も知らねえで。ナマエの疑問に「別に」とだけ返して顔から手を退けた。

 俺たちの家と高校までのちょうど中間地点辺り。ネットに囲まれ、ただバスケットゴールが二つあるだけのその空間。ここに来るのも、随分久しぶりな気がした。最後に来たのは、中学の頃。俺が、ナマエから距離を置いて以来だった。

「さ、レノの成長具合を見せてよ」

 両手のスナップを利かせて放たれたボールを受け取り、へっ、と笑う。上等だ、と言えば、位置についたナマエは腰を落としディフェンスの構えをした。俺もナマエの前に立ち、目の前のナマエにボールを渡してそれが返って来る。1オン1開始の合図だ。ドリブルを始めた俺の手、足、腰にナマエの視線が注がれ、どこに動くかを見定めていた。さすがに隙がねえな、なんて、ガキの頃俺がバスケを本格的に始めたのをきっかけに得た知識と練習に付き合ってもらっていた身体はバスケから数年遠ざかっていたとは思えないほどのディフェンスで、よく二人でこの場所にいた当時を彷彿とさせた。

「そう言えば」
「あ?」

 体勢そのままに、ナマエの視線が一瞬、俺とかち合う。なんだ? とドリブルをしたまま首を傾げれば、ナマエは視線だけを戻し口を開いた。

「なんで髪の毛赤くしたの?」
「!」

 自主性と実力に重きを置く俺たちの通う高校に校則なんてものはあまりない。だから俺は入学して早々、髪を真っ赤に染め上げた。

「……別に。目立つだろ、と」
「うん。だから、意外」

 痛いとこ突いてくんな、と心でひとりごちる。罰の悪くなる質問につい視線を明後日の方向に向けた。……こいつにだけは、いや他の誰にだって言えるわけがなかった。中学の半ばでこいつから距離を自分から置いたっていうのに、あまりにも平然としているナマエにムカついて、気を引きたかったなんて。まぁそれも結局は効果なしだったのは今でも少し、根に持ってるが。 

「隙あり」
「あ、」

 パン、と弾かれた音と戻って来なくなった感触にハッとした。気付いた時にはナマエは俺から奪ったボールをつきながら駆け、ゴール下で、跳んだ。

(……やっぱ、綺麗だな)

 静かに、優しく、意志を持ったかのようにふわりとナマエの手から離れていくボールが、ボードに軽く当たってネットに吸い込まれる。ナマエがチームに所属したり、部活としてバスケをすることはなかった。だけどいつかの日の似たような光景に、まだ小さかった俺はまだまだ短い人生であろうと初めて息を呑んだ。そして今と同じ感想を抱き、俺のバスケ人生始まりの、ボールがネットを通過する眩い音を、聞いていたんだ。

「ちょっと、やる気あんの?」

 着地し振り返ったナマエはさぞ不満そうにそう言った。誰のせいだよ、なんて小さく責任転嫁をして、ボールを拾い再び1オン1開始の動作に入ったナマエに向かい、朝っぱらから入り乱れる情緒を切り替えた。ったく、ナマエにマネージャーを頼むと決めた時に捨てただろうが。過去のくだらなくてガキ臭い、自分の弱さなんて。

「瞬きすんなよ、と」
「え、」

 瞬間、稲妻が走ったかと思った。右に行くか、左に行くか。そのタイミングを目を凝らして見つめていた、はずだ。止められるなんて思っちゃいなかった。それでも多少の攻防戦くらいはあの頃みたいに出来ると、過信していた。ハッとした時にはもうすでにレノは私の横を通り過ぎていて、遅れて来たピリピリとした肌の感覚はまるで、光の過ぎ去った後に轟く雷鳴のように、私のそこを撫でた。

「!」

 見開いた視線をくるりと回転させれば、その瞳は更に大きく瞠目し、宙に浮かんだレノの後ろ姿を映し出した。左手一本で掴まれたボールを天高く掲げ、まるで翼でも生えているかのように跳躍し揺れる、赤い髪。

 ガン! と激しい音を立て、髪と同色の錆びれたリングがその衝撃とレノの体重にギシギシと音を立てている。トーン、トーン、と間の開いたボールの弾む音が二回して、よ、とレノは地面に着地した。

「……ダンクするポイントガードなんて聞いたことないんですけど」
「いっぱいいんだろ」
「私の知る限りではいないわよ」

 全く、レノには昨日から驚かされてばっかりだ。冷や汗すら滲んだ今見たものに顔を引き攣らせれば、レノは一人満足げに笑ってからボールを拾い、軽いシュート練習を始めた。

 これは、ここ数年怠った自分の知識をアップデートさせなければな、と思った。うちのバスケ部がそこそこ強いことは知っていたし、部活動に特化した施設を学校側が次々建てていることも聞いてはいたが、帰宅部だった私にその利用機会は当然のことながらない。

  それに、まぁ当然といえば当然なのだけれど、確実に中学生の頃のレベルとは段違いのプレーを見せられてしまったのだ。脳裏には次々と欲のようなものが湧き上がってくる。忙しくなるなぁ、なんて、その逞しくなった姿を眺め、密かに私の心は高揚したのだった。