August / act...10





 心臓が、止まったかと思った。コート内でレノよりも大きな選手が彼へと縺れ、倒れていく光景を見た時は。

「レノ……っ!」

 審判の試合を中断する笛の音に我先にと駆け寄り崩れるように倒れたレノの横に膝をついた私に、レノは「なんつー顔してんだよ」と笑った。だけど、私は微塵も笑えやしなかった。掌にはびっちりと嫌な汗がこびり付いて気持ちが悪い。ベンチに一度下がったレノは大丈夫だと言い張り第三クォーターに入ってから様子のおかしい左手に関して何も言わずにコートに戻ろうとした。だから、救急箱片手にレノを半ば引き摺るようにしてロッカールームへと向かった。

 レノは隠してるつもりだったのかもしれないけれど、ちらりと見えたその左手首は異常なまでに赤く腫れていた。それはまともにプレーなんて出来る状態じゃないことは明らかだと言うのに、ベンチに座らせたって白状しようとしないレノに痺れを切らし病院に連れて行こうとした。だけど、

「俺を、嘘付きにさせないでくれよ、と」

 なによそれ、と、放たれた言葉に心臓が痛んで、奥歯を噛み締めた。そんな懇願する声で、だけど、強い意志のこもった初めて聞く願いに、悔しくも私がそれ以上なにかを言える訳がなかった。

 テーピングを巻くと言えばようやく出した左手には思わず顔を顰めてしまった。こんな無理させるためにレノに練習を頼んでた訳じゃないのに。そう思えば、涙さえ零れてしまいそうだった。だけどそんな私の意に反してよく巻けたテーピングにレノは「バッチリだぞ」と笑った。……バカ、人の気も知らないで。そう、心で悪態吐いた。

「…」

 レノがコートに向かおうとする。そのためにしたテーピングだ。だけど、私はその手を離せなかった。行かないで、そう言いたかった。だけど彼は行くんだろう。未だコートの中で戦う、仲間の元へ。こんなになってまでしたい、バスケのために。だから、

「……絶対勝って」

 そう、言った。本当、ムカつく。風邪を引いて熱に魘されたあの日、レノは離れないって言ってくれたのに……それでも彼が自分を遠ざけていた背中が嫌でもちらついてしまう自分が。もっと彼のそばにいられる確固たる理由が欲しいのに、私には、そんな言葉で送ることしか出来ない。

「こんな怪我して戦うんだから、絶対勝っ」

 泣きたくなかった。だから必死で堪えていた。堪えて言ったというのに、その言葉は最後まで紡げやしなかった。後頭部に回されたレノの手がぐっと私を引き寄せ、喰らうように唇が塞がれる。瞬く私の瞳に熱を帯びたレノの青緑が映って、一瞬、何が起こったのか分からなかった。

「──行って来る」

 パサ、と私の頭にレノの香りが降って来て、あっという間に包まれてしまう。レノの頼もしくも凛とした言葉のあと、パタンと扉が閉まる音が私の鼓膜に響いては、静かに消えていった。

「……バカ、」

 そう静寂に包まれたそこでひとりごちた。掛けられたタオルで熱くて仕方ない唇を覆って、すぐに後悔する。鼻腔を直撃するその慣れ親しんだはずの香りに心臓が破裂しそうなほど脈打ち、それを誤魔化すように自分の膝を抱いて蹲る。私はあの日の熱から今もまだ解放されてないのかもしれない。だって、ずっとおかしい。幼馴染みのあいつに、こんなに心臓が痛くなるなんて。

「カッコ、つけないでよ……」

 私の中で男の人にならないで。じゃなきゃ私は、この拍動で死んでしまう。そう、思った。











 私が放り投げたレノの服を片付け、足早に会場へと戻った私は目の前の光景に目を見開いた。レノが抜けていたこともあるから、その点差はある程度覚悟していた。ああは言ったけれど、それがどれほど難しいかも理解していたから。だけど、その点差はレノが負傷する前よりも縮まっている上に試合は完全にうちの高校が押していた。

「……なにが、あったんですか」
「ああ、戻ったか」

 コートサイドに立つアンジール先生の横に立ち、選手たちが行き交うコートに俄かには信じられないと目を走らせたままそう問えば、先生はただ一言、「レノだ」と彼の名前を呟いた。

「レノ、ですか」
「ようやく火がついたな」

 確かにレノの動きを見ればとてもあんな怪我を負っているようには見えないし、その動きは普段の一段階も二段階も上回っているように見えた。そっか、きっと気付いたんだね。夜中、たまたま見つけた公園で話した会話が私の脳裏を過り、安堵した。あの時レノは難しい顔をして考えていたから、そんな思案も必要だろうとただ黙って隣にいた。その途中で寝ちゃったことは少し反省してるけど、でもレノが横に、

(……レノが、いてくれたから、か)

 ドクン、ドクン、と胸の奥が甘い音を立てる。気付いた。気付いてしまった。ずっと、ずっとそこにあった……酷く痛く、脆く、優しい音に。

 脳裏には高校入ってすぐ髪を燃えるような赤に染めたレノがただじっと早朝の海を眺めている後ろ姿が浮かんでいた。レノが私を避け始めてから、それでも家が隣だと部屋の明かりとか、家の前で自転車の鍵を開ける音とか、そんなものでなんとなく生活リズムを知ることは出来た。だけどたまに、朝練に行く時間よりも早くに家を出る時があった。どこに行ってるのか、それを知る術は幼馴染みという肩書を失っていた私にありはしない。

 でも偶然、あれはちょうど今頃の季節だった。夏休み、エアリスと出掛けるその前に私用を済ませたかった私はだいぶ早く家を出た。レノの家の前に、彼の自転車はすでになかった。その道すがら、街に馴染まない赤が、視界の端に映った。イヤホンを耳に当てポケットに手を入れたその後ろ姿は、ただただ遥か彼方に見える地平線を見ていただけだ。だけど私にはなぜか、その姿に哀愁のような、虚しさのようなものを感じてしまった。なんでそう思ったのか分かりはしない。なんで駆け寄れないのか、なんで声を掛けられないのか。そんなもどかしさがそう見せていたのかも知れない。私たちは幼馴染み以外の何ものでもないのだと、いやでも思い知らされた瞬間に。

 そんなことに胸が張り裂けそうだったことも、レノが告白をされて苦しかったことも、醜く幼馴染みというものに縋り付こうとしたことも、距離を置かれたことに自分が傷付いてしまわないよう無意識に取り繕っていたことも、全てが物語っていたじゃないか。初恋なんて終わったような言い方をして、それがずっとずっとあったことに気付きもしないで、知りもしないで、見ようともしないで、本当、

「……バカみたい」

 コートをひた走る彼をずっと見ていたかった。だから色々調べてりなんかした。どうして、その時点で気付かなかったんだろう。私はバスケが好きだった訳じゃない。バスケをするレノが、好きだったんだって。

「お前だろう」
「え?」

 私の掠れそうな自嘲が聞こえていたかは分からないけど、そんな言葉に隣を見れば、視線はコートのまま先生は口の端から笑みをこぼした。

「あのレノをやる気にさせたのは」
「…」

 それはあの公園でのことか、いや、前の二戦はいつもと変わりなかった。となれば、きっかけは一つしかない。途端、レノが触れた自分の唇が、やたら他人行儀になってしまった。……自惚れてもいいのだろうか。レノも、同じだって。だけど、ちくりとレノが私から離れていたことがトゲのように引っ掛かった。ならなんで、そう思うと、全てが上手く飲み込めない。

「信じてやれ」
「!」

 きっと先生が思うようなことを考えていたわけじゃない。それを知っているわけがない。だけどその言葉は、やたら私の胸を刺激した。信じる……ううん、そんなことわざわざする必要なんてない。だってそれは、すでに当たり前のように私の中に備わってるものだから。

「当たり前じゃないですか」
「ほう」

 だから、先生に向かって涙を堪えて笑った。

「私の、幼馴染みですから」

 ふ、と笑い返す先生とコートに視線を戻し、その赤い髪に目を細める。──手遅れだ。一度気付いてしまった事実に胸が痛いくらい鼓動していた。好き、好き、ずっとそばに居たいと願うほどに。そんな感情とっくに抱いていたというのに、そのたった二文字のピースだけが欠けていた。焦がれる感情に眩暈すら起こしてしまいそうだった。

 そんな視線の先にいるレノの集中力は凄まじいものだった。きっと今は、バスケしか見えていないのだろう。……うん、大丈夫。これが終わったら、言おう。でもいきなりキスされた腹いせに絶対先に言ってやる。レノが、好きだって。でも、その前に──

「……本当、どんだけ跳ぶのよ」

 あの、二人だけのバスケットコートで見た時よりも激しく、止まない雷鳴に打ち拉がれる。リングに容赦なく叩き付けられたボールが少し哀れに思った。そして、レノを相手にした、敵チームも。

「バスケットカウント! ワンスロー!」

 試合中一度も越すことの出来なかった点をひっくり返す、唯一にして最後のチャンス。ボールを額に当てたレノに、ただただ視線を送っていた。

(外すわけ、ない)

 皆が祈るように弧を描くボールを食い入るように見つめる中、私はその真っ直ぐにリングへと向けられた瞳と、笑みすら携えた横顔に心ごと奪われていた。シュ、とブレることなくネットに吸い込まれたボールに、会場中にいる人の息を呑む動作が重なる──刹那、試合終了のブザーと、わっ、と湧き上がる会場に身震いがした。

「……っ」

 泣くな。泣いたら何も言えなくなってしまう。だから、泣かないでよ。震え出す唇にレノに渡されたタオルをギュっと胸の位置で握り締めた。おめでとうって、お疲れ様って……約束を守ってくれて、ありがとうって、言うんだ。行って来ると言ったレノを、笑っておかえりって迎えてあげたかった。……なのに、


「──好きだ、」


 引き寄せられた後頭部と紡がれた言葉に、言いたかった言葉は一つとして言えやしなかった。駆け抜け続けたその身体は酷く熱を発し、ぴったりと隙間なく張り合わされた全身からその温度がありありと伝わって、息が出来ない。

「あんたが、好きなんだよ……っ」

 まるで、悲鳴のようだった。知らなかった。いつも飄々として、なんでも余裕そうで、冷静で。その中にこんな叫びを、抱えていたなんて。本当、バカみたいだ。レノも、私も。どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。どうしてもっと早く言ってくれなかったのだろう。どうしてもっと、あんなに一緒に、いたのに。

「!」

 ギュッと、タオルを持ったままレノの肩に手を回した。絡まった指はきっと力を入れたら痛いだろうから、そこを、強く、強く抱き締めて、私も叫んだ。

「私も、レノが好きだよ…っ…」

 震えていたレノの身体がぴくりと反応して、沈黙する。ゆっくりと離れていく熱。だけど、その繋がれた手は離そうとはしなかった。驚いた瞳の中に、満面の笑みの私が映る。どうしようもなく頬に伝ったものは、見て見ぬふりをして欲しい。

「好きだ、」

 どうやらレノは私の言葉を遮るのが好きらしい。残りのたった一文字くらいちゃんと言わせてよ。だって結局、レノに先を越されてしまったんだから。重なるその唇の衝撃に私の身体は背後に飛びそうになる。だけど、背中に回された腕がそうはさせまいと、離さないと、言ってくれてる気がした。











 六日間の遠征。怒涛のインターハイは閉会式終え、私たちは帰路についていた。新幹線に乗り込み、行きと同じようにティファと並んで席に着く、はずだった。

「う、わ……!」

 だけど、座席番号を確認していた私の腕が突如無遠慮に引かれ、あれよと言う間に一つの席に座っていた。その原因が何かを探るまでもなく瞬く私の肩に真っ赤な頭が落ちて来て、一つ笑ってしまう。

「おーい、座席くらい守れよー」
「うるせえ、俺は枕が変わると寝れないんだよ」

 前の席のザックスがこちらを覗き込んで放った抗議に、レノは頭を上げることなくそう反論した。全く、どこでも寝る奴が何言ってんの。まぁ、公園で寝た私に言われたくはないだろうけど。

 ──あの試合の次の日、ベスト8をかけた試合は当然、レノの欠場で幕を開けた。幸いそんなに酷い怪我ではなかったが、一週間の絶対安静を医者に言い渡されてしまえば出るわけにもいかず、先生の配慮でベンチに一人だけ入れるマネージャー枠はティファへと変わっていた。私たちは揃って観客席の後方から立ってその試合に固唾を呑んだ。座らなくて平気? と問い掛けたが、前日の件で一躍有名人となってしまった神羅高校の赤髪は、常にご機嫌斜めだった。ここでいい、と言うレノに合わせ、後方から試合を見つめる。だけど、レノという名の司令塔を欠いたチームは善戦するもあと一歩及ばず、彼らの夏は、終わりを告げた。

「……っ、」

 試合終了のブザーにレノがティーシャツの襟で顔を覆うから、私は言葉の代わりに彼が左手を悔しさで強く握り締めてしまわないよう、そこをそっと握る。返された手の力にその痛みが伝染した私の胸も、ちくりと痛んだ。だけど、痛みを分け合えるのならこれでよかったと心底思った。海を見つめていたあの日の彼に何があったか、何を思っていたのかは分からない。それでも、もうあんな顔をしていたって、こうして寄り添えるのだから。



「大変だなぁナマエも。我が儘な彼氏で」

 ……彼氏。その単語に閉じた瞳を思わず片方開けた。茶化すように発したザックスの言葉にナマエは反応に困ったような笑みを浮かべていた。

 あの試合の日、昂った感情に押し流された俺の告白に返って来たイエスには正直驚いた。だけどナマエが惜しげもなくその言葉を繰り返すから、ついにブレーキなんて概念を失った俺はただこの身体を折れちまいそうなくらい抱きしめ口付けをした。今思えばなんて醜態晒したんだと思わなくもない。現にこの新幹線に乗り込むまでに何人の知らない奴に声をかけられたから分かったもんじゃない。だけど、そのどれもが祝辞のようなものだったがために無碍にも出来ず、上手いこと飲み込むことも出来ずに俺はただ、照れ臭さを不機嫌で誤魔化すしかなかった。

 にわかには信じられない進展にまさか幼馴染みとしてじゃないだろうな、なんて思いもしたが、ザックスが口にしたはっきりとした単語を否定せず、あっけらかんとしているわけでもないその様子からこの関係が確かに変わったことを見て人知れず安堵した。喜びよりも安心が先に来るなんて、拗れすぎな上にどんだけ怯えを抱えてたんだと自嘲する。だけど仕方ねえよな。俺はそれだけこいつが大事で、離れ難いのだから。

「あれ、寝たんじゃ」

 やがて新幹線が動き出し皆が長い遠征にその瞳を閉じる中、するりとその膝に置かれた内側の手首を撫で、這うようにテーピングのしてある自分の手の平を絡めていく。一本一本の指が交差した中に熱を込めてぎゅと握れば、ナマエが呼吸を止めたのが分かった。

「今更だろ」

 そんなナマエに、俺たちは幼馴染みなんだからと顔を上げ悪戯に笑えば、こんなことはしていないと言わんばかりに頬を染めながら顔を険しくするナマエがいる。そんな仕草が可愛くて、愛おしくて、俺は自分の中にいた感情という名の傲慢な獣に人知れず感謝した。

「もう、そんな顔しないで」

 それがどんな顔なのか、俺には分からなかったけれど、きっと至極満足げな顔をしていたに違いなかった。だって、どう頑張ったって上がった口角を下げられそうにはなかったから。それに、もう隠す必要だってない。じっと見つめた俺の額に指を押し付け距離を取ろうとするその腕を掴めば、ナマエが抗議を含んだ声音で俺の名を呼ぶ。両手を俺に捕まってしまったナマエは、その一席分の空間で僅かに身動ぎをした。だけど、舞い落ちるように自分の頭を降らせその唇に触れれば、キュと上がる肩に胸の奥が小さく鳴いた。重なるだけのささやかで甘い感覚に、骨の髄まで溶けてしまいそうだった。

 何度も何度も願ってた。何度も何度も叫んでた。こいつに恋したいつかの日から、心の中でずっと。だけどこれからは何度も何度も触れて、何度も何度も音にするんだ。あんたが例え、この先俺を拒む日が来ようとも。

「好きだ」

 三センチの距離で見つめ合いそう囁いて額を擦り合わせれば、俺たちの前髪がくしゃりと絡み混ざり合う。重なる吐息を互いに飲み込めば、細めた視線がぶつかった。

「もう離さねえからな、と」

 フッと笑い、願いでも贖罪でもない誓いを放った。覚悟しとけよ。これからあんたに心で叫んでいた分の想いを、伝えるんだから。