August / act...09





「ちょっとぶつかっただけだって」

 救急箱片手に引きずられるようにロッカールームに連れてこられ、ベンチに貼り付けにされてしまった。俺の膝に硬く握った手を置き俯くナマエは、俺がそう言ったってぴくりとも動きはしない。こうしてる間にも点差が開いてしまうかもしれない。そう思えばすぐにでも戻りたいのに、倒れた直後顔を上げた時に見た泣きそうなこいつの表情を思い出せば、そうも出来なかった。

「なぁ、」
「……着替えて」
「は? 何言ってんだ、おい!」

 立ち上がったナマエは俺のロッカーから服を取り出し俺へと放り投げ始めた。思わず立ち上がり背中を見せたままのその腕を掴んでこちらへと向かせた。だけど、

「ッ……!」
「こんな手で続ける気?」

 掴まれた左手首に思わず顔が歪んでしまい心で舌打ちをする。バレてるとは思っちゃいたが、まさかこいつがこんな強行に出るなんて、微塵も思ってはいなかった。

「……当たり前だろ」
「っ、ばかじゃないの……!」

 起伏を伴わない淡々とした声でそう告げれば、ナマエは俺の汗まみれのユニホームをギュッと掴んで、そこに頭を付けた。その手と肩が小刻みに震えていて、どうしようもなくなる。だけど、引くわけにはいかねえんだ。

「俺を、嘘付きにさせないでくれよ、と」
「!」

 その髪にクシャりと頬を寄せそう言えば、ぴくりとその身体が反応した。ずるい、そう呟かれた言葉に一つ笑ってしまった。俺もそう思うと返して、頼む、と懇願する。

「……テーピングするから座って」
「ああ、ありがとな」

 我が儘を言ってるのは分かってる。百の力が出せないならむしろ足を引っ張ってしまう可能性だってある。それでも、例えナマエに言われたって、もうこの試合に対して譲れないものがある気がしていた。それがなんなのか知らずともただ突き動かされる身体は、止まりはしない。

「どう?」
「ん、バッチリだぞ、と」

 床に膝をついたままそう伺うナマエに、厳重にテーピングの巻かれた手を動かして見せて笑った。さすが、入部してから散々練習台になっただけあって、違和感もなければ痛みもだいぶ和らいだ。

「……ナマエ、」

 立ち上がろうとした俺のその手をナマエが掴んだ。第三クォーター後のインターバル終了のブザーはここまで聞こえていた。きっと、ナマエの耳にだって入っていただろう。だけど、ナマエは何重にもテーピングを巻かれた俺の手をそっと、だけどギュッと握って離そうとはしない。どうするか、悩みあぐねていた俺の耳にナマエの細く長い息を吐く音が聞こえる。それはまるで何かを決意したような、そんな気配がした。

「……絶対勝って」
「!」

 そう、顔を上げたナマエの瞳は薄い膜を張った水面のようにゆらゆらと揺れていた。それがこぼれ落ちないように必死に奥歯を噛み締め、それでも、強い瞳で俺を見上げている。

(ああ、)

 何かが、俺の中で息をした。大きく、深く吸い込んだ酸素に目を覚ましたそれをはギラついた瞳をこれみよがしに光らせ、鋭い瞳孔は俺さえも飲み込んでいく。そいつを押さえつける腕を俺はもう、持ってやしない。

「こんな怪我して戦うんだから、絶対勝っ」

 あとの言葉は、俺が飲み込んだ。

「──行って来る」

 そっと唇を離し、肩に掛けていたタオルをナマエの頭に被せ、俺は一人、コートへと向かった。











「交代、お願いします」

 戻ってすぐ、コート間際に立った顧問のアンジール先生にそう声を掛けた。顧問はナマエがいないことを疑問に思ったようだったが、それは問わずに一言、「いけるのか」と聞いた。だから俺は強く頷き、交代のブザーが鳴らされる。

「おい、大丈夫かよ」
「ああ、問題ないぞ、と」
「……お前、」
「あ?」

 時計が止まっている間に駆け寄って来たザックスは何か言いたげだったが、いや、と言いそのままポジションへと戻って行った。なんだ? とも思ったが、今はいい。スコアを見れば13点までその差が開いていた。だが、堪えた方だろう。残り時間はあと六分。す、と息を静かに吸えば、不思議と手首の痛みは感じなかった。

(勝つしかねえぞ、俺)

 ブザー開始の音と共にそう心でひとりごちた。いや、この時の俺はすでにもう、負ける気なんてしなかった。

「!」

 一つのフェイントでゴール下のルードへとパスを出す。そのまま身体を回転させたルードは飛び上がり、リングに直接ボールを叩き込んだ。

「あのタイミングでパスが俺に来るとは思わなかったぞ」

 自陣に戻る中で拳を合わせながら言われた言葉に「そうか?」と返す。だけど、

(……あと、11点)

 俺の頭の中はカウントダウンのような数字でいっぱいだった。

(取れる)

 ドリブルをしながら攻め込む相手の視線が一瞬、俺から逸れた。そのタイミングに腕を伸ばせば、容易くそいつの手から溢れたボールに手を伸ばしすぐさま顔を上げた。

「速攻!」

 叫んだ声に真っ先に反応したのはクラウドだった。

「っ、」

 片手で真っ直ぐ投げたボールはクラウドの手に吸い込まれ、レイアップシュートが決まる。

(あと、9)

 はぁ、と息を吐きユニフォームの襟で汗を拭えば、俺の前に至極不機嫌そうなクラウドがいた。なんだよ、と視線で訴えればその眉間のシワは更に濃くなり、大きく息を吸った口が開かれる。

「あんたのパスで腕がもげるかと、」
「あーハイハイ! 分かったから、な? クラウド。それは俺が言っとくから」
「強かったか? 悪い、そんなつもりなかったわ」

 気を付ける、と俺が言えば、暴れ出しそうだったクラウドも、そんな後輩を後ろから押さえたザックスも、動きを止め二人で顔を見合わせていた。

(……あと、7)

 だけど過ぎてく時間に反してそう簡単に数字勘定は上手くいかなかった。埋めたはずの点を奪われ、奪い返し、あと少しのところで防戦一方にまで引き込めない。点差は4点。残り時間は、二分だ。

「おい、あれやるぞ、と」
「!」

 相手のスローインを膝に手を置き待ち構えていたザックスの横をそれだけ言って通り過ぎる。視線も交わさないで行われたコンタクトに、ザックスは「りょーかいっ」と笑った。

 もう一本だって入れさせるわけにはいかない。その時点で俺たちの負けが確定する。必死のディフェンスを繰り広げる中で、俺たちのリングにボールが放たれる。

(外れろ……!)

 そう強く願った。その脅しにも似た願いが通じたのか、ボールを弾いた赤いリングが鈍い音を立て大きく揺れた。

「貸せ!」

 ゴール下の選手が何人か飛んだ時点で、その中のルードがリバウンドを制することを確信していた俺はそう叫んでいた。シュ、と鋭い音を立てボールが俺の手の中に吸い込まれ、俺は反転する。ザックスはもう、とっくに走り出していた。

 誰も取れないくらい、高く、高くリングの方向へとボールに弧を描かせる。それはリング一つ分横に外れていて、我ながら最高のコントロールだと、アホみたいに高く飛んだ黒髪を見て、思った。

 ガン! と激しい音を立て、リング横をすり抜けるはずだったボールはネットを強引に通過する。静寂に包まれたそこに、ザックスの着地する音だけが響いた。途端、わっ、と会場が湧き上がった。戻って来たザックスが、へ、と笑うから、俺も同じように笑い、俺たちは互いの手を甲高い音を立て鳴らし合った。

(あと、2点……)

 一本のシュートで試合を決めるにはスリーポイントしかない。

「レノ!」

 攻め込んでいた相手が疲れか、それともザックスのアリウープに触発された観客の影響か、動きの鈍くなったそいつからボールを奪ったクラウドが俺の名を呼ぶ。おいおい呼び捨てかよ、と。だが同時に手に吸い込まれるボールに、俺たちは進行方向を同じくして駆け出した。真ん中のサークルラインで目の前に敵が一人、そいつを目線でパスの選択肢へと誘導し、傾いた身体の反対から速度を落とさず抜き去る。

(あと、十秒……!)

 点差は、2。俺がスリーポイントを狙ってくると確信している相手はそのライン上で両手を広げている。だからその前でキュッと甲高い音を足元で鳴らし、重心を後ろにかけた。瞬間、シュートに移ると思った相手が跳んだ横を、ドリブルで駆けた。

 ダン、ダン、小刻みに繰り返されるドリブルの音がやたらゆっくりと聞こえた。パスをもらおうとするメンバーが見える。だけど俺は、あいつが俺みたいだと言った雷のようにこのコートの頂にあるリングに向かって走っていた。ナマエがそう言うならこの一帯を極光で染め上げ、轟かせてやる。──俺という名の、雷鳴を。

 高く、高く、跳んだ。あいつがテーピングを巻いた左手でボールを掴み、ギリギリまで相手を引き付け、そして、

 ガン! と音をたて、リングに叩き込んだ。審判が笛の音と共に2点が入った合図を送り、俺たちは同点へと並ぶ。だけど、これじゃ足りない。

「バスケットカウント!ワンスロー!」

 審判の声が着地した俺の背に届いてホッとした。俺のダンク中に身体を当てた選手は思わず天を仰ぎ、ザックスは「マジ……?」と敵のファウルによって得た一本のフリースローの権利に、他のメンバー同様目を瞬かせている。

 俺は審判から渡されたボールを受け取り、フリースローラインに立った。敵も味方もそのラインの曲がった先に立ち、俺はその視線を一心に受け、ボールを額に当てた。

 この一本で全てが決まる。勝つか、外したとしても延長戦にはなる、が、とてもじゃないが俺たちにその時間を戦い抜く体力はないだろう。細く、長く息を吐き目を開いた。見据えた見慣れたリングには、俺たちの積み上げたもの全てが映ってる気がした。……いや、これは、俺の見て来たモノだ。

 きっかけはあいつだった。ナマエをマネージャーに誘う時だって俺は、またあの頃みたいにいられるかもなんて邪な考え元、ただあいつとの距離を埋めるきっかけとしか思ってなかった。俺にとってはバスケはナマエへの口実だ。ただのあいつからの贈り物だ。だから続けていた。ずっとそう思って来た。たった今、この瞬間までは。

(ああ……好き、なんだな)

 ただ純粋に、バスケという存在が。そりゃそうか。じゃなきゃこの試合にここまで執着なんてしなかったはずだった。ナマエに負けないなんて言ったって、あいつを泣かせてまで貫きたいもんじゃない。だけど俺は、ナマエを置いてここに立っている。それが、何よりの証拠だというのに、未だどこか自分の感情に他人事な思考に呆れてしまう。だけど、

(楽しくて仕方ねえぞ、と……!)

 湧き上がる高揚感。ドクン、ドクン、俺の内側から皮膚を突き破らんとする獣は、ナマエの言う通り確かに俺の中にも存在したらしい。自分でも気付きはしなかった、バスケに対する──燃えるような俺の熱が。

 足の爪先から膝に上がって来る力が、やがて俺の上半身を伝いテーピングを通過してボールをその終着地点として放たれる。指先まで行き渡った神経から放たれた球体が会場中の視線を集め、全てを乗せ弧を描く。ハッ、ふざけんな。何万、何十万回打ったと思ってんだ。外す、訳がねえ……!

 ──シュ、

 乾いた音を立て、ネットにボールが通過した。瞬間、鳴り響く試合終了のブザー、湧く観客の声、泣き崩れる相手チームの声、歓喜に湧く仲間の声、全てが非現実の、どこか別の次元の音のように、俺には聞こえた。

(勝った……のか)

 全てが終わった今、まるで夢を見ていた気分だった。だけど、俺たちの高校の数字が上回ったスコアボードを目にした瞬間、俺は身を翻しベンチへと向かった。

「スッゲーなレノ! ……ってあれ」
「……許してやれ、報告が先だ」

 あいつの、女神にな。なんて言い合うザックスとルードの声なんか耳に入っちゃいなかった。今更になって左手がズキズキと、そこに心臓でも生えてしまったのように脈打ち、試合中は微塵も気にならなかった疲れに今すぐその場に突っ伏してしまいそうだった。だけど、そんなの関係なく真っ直ぐに勝利の音を鳴らすため右手を掲げたナマエへと向かっていた。今すぐ言いたくて仕方ない。勝ったぞって、見てたかって、俺の中にもあったぞって、そんなものを持てたのはナマエのおかげだ、って、約束を、俺は、俺は──

「……っ、」

 重なった右と左の手の平。ナマエが驚きに言葉を発する間もなく指を絡ませるようにそこをギュッと痛む手で握り締め、反対の腕は力任せに後頭部をぐっと引き寄せた。


「──好きだ、」


 気付いたら、そう口にしていた。

「あんたが、好きなんだよ……っ」

 目の奥が、身体の芯が、異常なくらいの熱を発する。泣きたくないのになぜか泣きたくなって、零れ落ちそうな涙を堰き止めるように瞳を閉じた。好きだ、好きだ。壊れそうなくらい湧き上がった感情にナマエの髪に触れた指先も、痛みを伴う手の平で握った手も、その名を呼ぶ唇さえも、震えた。例えナマエが俺を幼馴染みとしか見ていなくなって、一度溢れた感情のその先端をゆくのは、やっぱりこいつへの積み上がった想いで、もう今更飲み込むことなんか出来やしない。俺は、あんたが、ナマエが好きだ。──壊れて、しまうくらい。

 そう、バカみたいに何度も、何度も叫んでいた。