August / act...07





「全っ快! 間に合ったー!」

 俺の家を二人で出て早々、ナマエはそう言って両手を夏の青さが突き抜ける空へと翳した。インターハイ本戦に向け俺たちは県外へと赴く今日、土壇場での体調不良に一時はどうなるかと思ったが、結局三日間部活を休んだナマエはこの通り調子を取り戻した。は、いいが、

「おら、荷物貸せよ、と」
「いいよ。これはマネージャーである私の、!」

 ナマエの肩に掛かった重たげなバックの紐を掴み下ろせば、それに抗おうとナマエがそこをぎゅっと握る。瞬間、俺たちの手が、微かに触れた。

「…」

 途端、大袈裟に飛び退くナマエに俺たちの間に静寂が走る。あの日、俺がナマエの部屋に行ったあとからこいつはずっとこの調子だ。見開かれた瞳がやがて気まずそうに右往左往するのを見て、俺はそのままナマエから奪ったバックを肩に掛け何事もなかったかのように歩き出した。

「おいてくぞ」
「……え、ま、待ってよ」

 地に足付けたまま固まるナマエに顔だけ振り返ってそう言えば、ナマエは慌てたように自分のスーツケースを転がしながら走り出し、いつものように俺の隣に並んだ。

「…」

 だけど、段々と並んでた身体が後ろに下がっていく。だから俺はわざと立ち止まり、遅れてくるナマエの顔目掛け体勢を傾けた。

「う! わ、びっくりした……なによもう、」

 悶々と考え事をしていた瞳が俺とぶつかる直前でその足を止める。チッ、あと少しだったのに。なんて、一瞬だけ味わった鼻先の擦れそうな距離に目を細めつつも、後退り頬を染めるナマエに口角を上げずにはいられなかった。

「まだ万全じゃねえならおぶってやろうか?」
「な!?」
「中一の時みたいにな、と」

 俺がそう悪戯に笑えば、ナマエは赤くなったそこを膨らませ「歩けます!」と俺を押し返した。あれ、中一だっけ、なんて、あとからふと首を傾げた言葉は、聞こえなかったことにした。どうやら覚えてない設定にしてあるのに、墓穴を掘ってしまったらしい。危ねえ。

「遅刻すんぞ」

 だから、思案しているナマエの思考を遮るようにそう言った。慌ててついて来るナマエを確認して、歩くスピードを調整する。このくらいなら問題ねーかな、なんて自分の気遣いに、俺はこいつをどんだけ好きなんだよとツッコミたくなった。でも仕方ない。あんなことを言われて、こんな顔を見せられて、にやけるなという方が無理な話だ。

「なぁ、」
「ん? なに?」

 歩きながら隣のナマエを見つめる。そのぱちりと瞬かれる瞳には、我慢出来ずにこいつへの熱をあけすけに垂れ流す俺が映っていた。

「……いや、やめた」
「なにそれ」
「もう少し楽しむのも悪くないぞ、と」

 明らかに熱を出す前には微塵もに見せなかったナマエの反応に、“ただの幼馴染み”を脱却したことを悟った俺の機嫌はすこぶる良い。まぁ、ザックスとただ並んだだけというのは些か不本意だが、まぁいいだろ。今は、まだ。



 ……前言撤回だ。俺は今すこぶる機嫌が悪い。乗り込んだ新幹線。当然の如くナマエが隣に座るもんだとばっかり思っていたというのに、隣には酷く無愛想な金髪の後輩が座っていた。通路側の肘掛けに肘を立て頬骨を乗せれば、不満を塗りたくった顔が必然的に歪んだ。視線の先には二つ前の通路向かい側にマネージャー同士で座り楽しそうに雑談するナマエがいた。

「おいあんた」
「……一応聞いてやるが一年、それは俺を呼んだのか、と」

 隣から聞こえた声にぴし、と音を立て俺の眉間に綺麗なシワが寄った。口元だけ笑った不機嫌極まりない顔をそいつに向け威嚇も込めてこめかみを震わせたって、そいつ、クラウドは平然と「そうだ」というもんだから度胸だけは褒めてやる。

「先輩に対する口の聞き方を叩き直してから話しかけろよ」
「あんただってルード先輩にタメ口だろ」

 そう言って手の平上に顎を戻したが、クラウドの痛い一言に「ぐ、」と言葉を呑む。大体俺はいいんだよ。あいつだってその事に関してなにも言いやしない。だが、俺は違う。

「俺はお前にタメ口を許可した覚えはないぞ、と」
「あんた、なんでザックスのこと嫌いなんだ?」
「……お前、俺の話聞いてるか?」

 だけどその訝しげだろうと純粋な瞳がじっと俺を見るもんだから、隠しもしない溜め息を吐いて後頭部で手を組んだ。そういやこいつはザックスに憧れて中学でバスケを始めて、そんな背中を追い掛けてうちの高校まで来たんだったか。そんな奴があらさまに鬱陶しがられてたら気になるのも、俺にこんな態度になるのも自然か、と前の席で微かに揺れる黒髪に視線をやった。

「別に、嫌いじゃねえよ」
「じゃあどうして、」
「ただウマが合わない。それだけだぞ、と」

 もういいだろ、と言わんばかりに俺はそのまま目を閉じた。

「……コートではあんなに息ぴったりのくせに」

 ふと聞こえた呟きにクラウドにバレないよう片方の目を僅かに開いて様子を伺えば、悔しそうに俯くクラウドの姿があってなるほどなと思う。

(嫉妬、か)

 強い憧れを持っているからこその、醜くも至極当たり前な感情。全くそんなものを勝手にこちらに向けられたんじゃ堪ったもんじゃないが、こいつは一年唯一のスタメンだ。威勢と合わせてその努力と運動能力は認めてやる。ナマエも、こいつは見込みがあるとか言ってたしな。

 だがこれから大事な試合が始まっていく。こんなメンタルで倒せる高校なんて、正直一つもないだろう。それじゃ、困るんだよ。そんな俺にとってどうでもいいもんに、足を引っ張られたんじゃ。目を開け背もたれから身体を離した理由なんて、きっとそんなもんだ。

「お前は、俺にどうして欲しいんだよ」

 クラウドがその晴天を映しすぎて色移りしたような瞳を見開くのだって当然だろう。こんなこと、ナマエにだって言ったことも聞いたこともない。

「……別に、あんたに興味はない」

 ふん、と座り直し腕を組んで前を向いたクラウドに「俺もだぞ」と危うく同調するところだった。だがそれじゃ俺がこいつに向き合った意味が全くなくなってしまう。

「お前、バスケ好きか?」
「は?」

 キョトンとした視線が反射的に向けられた。当たり前だろう、とでも言いたげなクラウドの意識がこっちに戻ったことを確認して、俺は逆に背を付け前を、いや、遠い昔に視線を向けた。

「俺は、一目惚れだったんだよ」
「バスケにか?」

 まぁ、そんな反応になるよな。だけど、脳裏に容易く流れる一本のレイアップシュート。あれを見た時、俺は心は確かに電流を感じた。余りにもささやかで、余りにも大きな衝動を、あの日の俺は確かに感じた。

 クラウドの問いに小さく頷き、面と向かって言うにはあまりにも慣れない自身の内にある言葉を紡いだ。

「一つのこと以外はどうでもよかった。今だってそう、かも知れねえけど」

 俺は、なにを話してるんだろうか。自分で自分から出た言葉に驚いていた。きっと、その先に出そうとしている、言葉にさえも。

「運命だったんだよ。女神が他になんもねえ俺にくれた、な」

 ああ、そうか。だから俺は、今までずっと、あいつから離れた後も馬鹿みたいに足掻いて、後輩にこんならしくない話をしてんのか。

「俺のポジション、なんだか言ってみろよ、と」
「……ポイントガードだ」
「そ、ルードやザックス、他の奴らにボールを散らす役だぞ、と」

 そんなことは知ってる、なんて訝しげに眉を寄せたクラウドに一つ笑う。確かにこの質問は馬鹿にしたと思われたかも知れない。が、違う。

「信頼してる奴じゃなきゃ、パスなんて出せないぞ、と」
「!」
「もちろん、お前もな、クラウド」

 見開かれた瞳にへっ、と笑い、クラウド側に肘をついた拳を差し出せば、少し照れたように、でも俺への罪悪感を少し滲ませた視線が何もないそこを浮遊する。

「あんたは俺を信頼するか?」
「……当たり前だ」

 ザックスが信頼してるんだから、そう言ったクラウドに上等だと返せば、俺たちの拳はようやくコツンと合わさった。ふう、と息を吐き通路側に肘を置き顎を乗せる。反芻するのは今自分がクラウドに言った言葉だった。まさか自分がバスケに対して、後輩に対してこんなことを口走る日が来るとは思いもしなかった。まるで他人事みたいな自分の言葉。だけど、

(悪く、ねえのかもな)

 どこかでどいつもこいつも幼稚だと馬鹿にしていた。それはきっとあいつから離れたきっかけの言葉が俺の中で渦巻いて、全てにでもなってしまっていたみたいだった。だからこそクラスの奴らなんかとは適当に連んで、ただ、それだけの存在だった。友人、仲間、そんなもの俺にはいらねえとさえ、思ってたのにな。

「ん?」

 ふと視線を二つ先にいたはずの横顔に戻した。が、そこに目的の姿はありはしない。あいつどこ行きやがった? と視線を周りに向けた瞬間、幾多のそれが俺に集中している事に気付いた。

「あんたら……なにやってんだよ」

 前の二つしかないはずの背もたれから頭が一つ、二つ、三つ、そして四つ。ぎゅうぎゅうになってこちらを見ていた。それに遅れて気付いたクラウドは身体を跳ねさせて驚いている。

「いや〜レノが先輩してるからつい、な!」
「ああ、珍しいこともあるもんだな」

 顔を出したザックスとルードが上がった口角を隠さずに言うもんだから「うるせえ」と悪態吐く。同じく顔を出した窓際のティファはクラウドに「よかったね」なんて言って微笑んでいる。

「……なんだよ」
「別にーなんでもないぞ、と」

 俺の正面にいるナマエがなにも言わずに見下ろしてくるのが歯痒くてそう言えば、こいつも緩んだ顔を隠さずに、俺がはぐらかす時によく使う言葉と口癖をわざとらしく使った。ったくこいつら揃いも揃って覗き見なんて悪趣味すぎんだろ。

「んじゃ、」
「!」

 ぐっと伸びて来た腕の先は硬く握られていた。一緒に頑張ろうな、なんて相変わらず鬱陶しい言葉をさらっと言うザックスに思わず溜め息が出る。だけど、あんな言葉を聞かれてしまえば俺の溜め息なんか照れ隠しとでも受け取られてしまうんだろうことを察して、その拳に自分のそれを当てた。

「ってあんたもかよ」
「当然だろ」
「ったく、」

 入れ替わるように拳を差し出してきたルードにもそう言って同じ動作を繰り返す。なんだこれは、羞恥プレイかよ。

「ん、」

 そして、目を細めたナマエの細い腕が伸びてくる。勘弁しろよ、なんて思いながらも俺たちの拳は重なった。だけど今し方あんな話をしたからだろうか。こいつに限って言えば、そのまま引き寄せてしまいたい衝動が俺の中で疼いて、仕方なかった。











『神羅高等学校』
 
 会場に流れるアナウンスに呼ばれ、校旗を掲げたルードを先頭に俺たち選手は歩き出した。ったく、長い移動時間の末に到着したその足で開会式なんてめんどくせえ、と漏らした言葉に、それだけ大きい大会なんだからシャキッとしろとナマエに怒られたのが十五分ほど前の話だ。シード権の獲得は出来なかったものの、俺たちはインターハイへの切符をもぎ取りここにいる。前年を考えるとなんともあっさり、というわけにはやはりいかなかったが、インターハイに連れて来るというナマエとの約束も果たせたわけで、まぁこのメンバーを考えれば当然だろうとも思う。昨年は俺もザックスも一年だ。身体付きも、連携もまだまだ甘かったし、全ての試合にフル出場させてもらえたわけじゃない。それが歯痒く苛立ったりもしたけれど、今年は違う。

「…」

 馬鹿でかいアリーナ。熱気が立ち込めるその会場でだってその姿をあっという間に見つけてしまった時は流石に笑った。まぁ、最前にいたしあらかた場所は聞いていたからそれほど大したことじゃない。と、言い聞かせることにした。

 観戦席で左右にティファとエアリスを配置しながら胸に手を当てるそいつは、ただ真っ直ぐに俺を見ていた。それが嬉しくもあったし、すでに感極まっているような仕草と硬く握られた拳になんつー顔してんだと駆け寄りたくなってしまう。でもそんなことは出来ないから、べ、と舌を出した。

 そんな俺にナマエは面食らった表情になり、全くもう、と言いたげに眉を下げ笑った。ん、それでいい。俺も口角を上げて笑い、視線を外した。あんたはやれることはやってくれた。いや、俺にとってはただ、そこにいて俺を見てくれてるだけでいい。あとは、俺が……俺たちがやるだけだ。そう、前を見据えた瞳は、静かな闘志を携えていた。







 夜道をバスケットボール片手に二人並んで歩いていた。俺らの住む街よりも街灯は少なく開けているとはいえ、山が多いからか、夏だというのにじめりともしない気候は心地よかった。ちょっと付き合えよ、なんてメール一つでナマエを呼び出せば、「もう消灯時間ですけど」なんて開口一番に不満を漏らしながらも、見ず知らずの土地での散歩に付き合ってくれている。

 話す事といえばいつもと変わりないのだけれど、なんとなく、寝る前にこいつと話してようやく眠る体勢になれるというか、一種の入眠準備のようなものだと冗談交じりでナマエに話せば、確かにそうかも、なんて、思いがけず同意を得られてしまい、たった一言「そうかよ」とぶっきらぼうに返すことしか出来なかった。

「あ、公園発見」

 バスケットゴールあるかな、なんて道を外れていくナマエの背中に黙ったままついて行く。まぁこのご時世ボール遊びすら禁止されてる公園が多い中でバスケットゴールがあるとは思えなかったが、それはあえて言わなかった。例えそんな些細なことで得られるものがこいつといれる時間の、たった一分一秒だって、俺は欲しいのだから。

「ないねぇ」
「そうだな」

 公園内に入り残念そうに呟くナマエに、だろうな、とは言わなかった。俺は見渡したそこの端っこにベンチを見付け、そこに向かって歩き出す。そうすればナマエも俺がしたようになにも言わずにただついて来る気配だけがした。

「本当に連れて来てくれたね。インターハイ」
「今更かよ」

 二人木製のいたってスタンダードなベンチへ腰掛ければ、もう七月には今日という日が来ることが決まっていたというのにそんなことを言い出すナマエに、開会式の表情をも思い出して肩を竦めた。そんな俺にナマエは今更じゃなくてあらためてなんだと強調する。

「レノがバスケ始めた時はこんなことになるなんて思ってなかったよ」
「ま、それは俺もだけどな」

 何を考えていたのかも思い出せないほど過去のこと。小さな子供が遊ぶ遊具しかないその場所に視線を馳せらせるような物はなく、ただ俺がバスケを始めるよりもっと前の、いつかの見覚えのある小さな子供が親に連れられ初めて面と向かう光景がチラついた。

 俺の世界は一体いつからナマエを求めるようになったのか、そのきっかけすらも今は思い出せない。自らに擦り込んだこの感情は至極当たり前かのように、生まれた瞬間から備わっていた先天性のモノのように存在しているようだ。前世から受け継がれたモノだったとしても、そうじゃなかったとしても、俺はきっとこいつと出会い、欲していたんだろう。そこに訳なんかなくて、むしろ必要なくて、今はただ、あと一歩ナマエに近付きたい欲に駆られて仕方なかった。

「緊張してる?」
「いや、全然だぞ、と」
「私はきっとするんだろうな」

 だからなんでだよ、と練習試合の時のナマエが脳裏に浮かんで呆れて笑う。ふと隣のナマエを見れば、こいつがバスケ部に入部した帰り道と同じように星空を見上げていた。あの時俺はナマエを乗せてチャリを運転していたから出来なかった動作を真似て見る。明かりの少ない街並みにそこからでもよく光る星がいくつも見えて、背後からは一匹の蝉が朝を求めるように少し遠くで鳴いていた。それはまるでナマエのいなかった頃の俺のようで、朝露に溶けてしまいそうに海の向こうを見つめるいつかの自分と重なった。

 隣の彼女は一体今、なにを考えてこの空を見上げているんだろうか。出来ればその思考に俺がいればいい、なんて、空に駆けた一筋の光に願っていた。

「レノはいっつも平然としてるよね」
「そうか?」
「そうだよ。いつからだっけかなぁ」

 うーん、なんて唸りが横から聞こえて来る。だがその答えは得られなかったようで、でも、と言葉を続けた。コツン、と俺の胸にナマエの手の甲が当てられそこを辿ってナマエを見れば、やたら挑発的な笑みを浮かべていた。

「叩き起こしてよね、レノの中に眠ってるもの」

 ナマエの言葉に目を見開いた。

「きっとあるよ。だってレノは、こんなに好きなんだもん」

 誰しもが飼っているであろうその獣は、きっと俺の中にもいるんだとナマエは言う。冷静さももちろん大事だ。だけど熱を持たない奴には限界がある。それを呼び覚まし、試合に望めってことだ。さすがにそんなもんねえよ、なんて言ったって、ナマエはあるよと言い切ってしまう。

 それは応えてやれそうにねえな、なんてナマエから視線を外し乾いた地面に落とした。バスケの話をしているのは分かっていた。だけどその言葉を聞いた瞬間、俺はそれがナマエに対する感情を言われている気がしてならなかった。子守唄なんかじゃ眠りもしないその感情を必死に押さえ付け、ねじ伏せていたんだ。無意識下で行われていたはずのそれに気付いてしまった今、緩んだ抵抗に重く積み上がった想いが、俺に牙を剥いた気がした。

「…、!」

 身体の中で繰り広げられる戦争に顔を顰めていた俺の肩に降り掛かった重みによって、その勝敗は攻防の激しさに反してあっさりと傾いた。耳を掠めるナマエの、寝息。ったく、よくこんなとこで寝れたもんだ。……いや、どんなに眠くたって普通寝ないだろ。誰が通るかも分からない、こんな夜更けの公園でなんて。

「……お前が起こしちまったんだからな、と」

 俺の中の欲に塗れた、獰猛な獣を。例えこの重みが幼馴染みとしての信頼であろうとも、疼く胸と高まる感情はもう、抑えられなかった。

「……あっちいな、」

 初めて触れた唇は、真夏の太陽のように俺を溶かしてしまいそうだった。