July / act...06





「おい、いつまでやってんだ、と」

 レノにそう声を掛けられ、インターハイ出場校が明記された資料から顔を上げた。

「片付け終わった?」
「もうとっくにな、と」

 え、と目を瞬かせればレノが小さく呆れた溜め息を吐いた。そこでやっと周りの静かさに気付き辺りを見廻せば、あれだけ人がいた広い体育館にはすでに制服に着替え、自分と私の分の鞄を持ったレノと、それを見上げる私しかいなかった。いつの間に、と呆然としていると不意にレノに腕を引かれ座っていた安っぽいパイプ椅子から強制的に立たされる。「帰んぞ」なんて言葉に慌てて頷いて、座っていた椅子を片付け始めた。

 そんな私を横目にレノは体育館入り口のある照明のスイッチ横に立った。奥の倉庫へと椅子を片付けきちんと扉を閉める。刹那、体育館の二階部分全体から強烈な白い極光が体育館に差し込んだ。うわ、なんて声と反射的に竦んだ肩に自分自身がびっくりして笑ってしまう。今日天気荒れるって言ってたっけ、なんて今朝の天気予報に思考を向けていたら、ゴロゴロと地響きの様な地面を這う音が耳を劈き、照明が全て落ちた。

「ちょっとー消すの早くない? いじめ?」
「んな訳あるか、停電だぞ、と」

 まぁそうか、なんて真っ暗になった原因がレノによるものじゃない事くらい分かっていた。光を突然奪われた視界でも、まだ室内より夜とはいえ外の方が辛うじて明るい。その開け放った扉の横に立つ目印の赤を頼りに歩き出せば、ザー、と屋根を打ち付ける無数の雨音が聞こえてきた。どうすっかな、とでも言いたげに土砂降りに近い空を見上げるレノの隣に立ち、同じ様にバケツをひっくり返した様な雨の降る空を見上げた。

「お前、傘持ってる?」
「持ってると思う?」
「だよな」
「めちゃくちゃ光ってるね」
「雷怖ーいとかねえの?」
「ないね」

 だよなぁ、と心底言うレノに何を期待してんだか、と呆れてしまう。幼少期から一緒にいるんだから、そんなこと言わずもがなだろうに。

「なんか、レノみたいなんだよね」
「雷が、か?」

 レノが疑問の眼差しを向けてるのが分かった。だけど私はそのまま、時おり闇を一瞬で白に染め上げる稲光に視線を向けたままだった。ゴロゴロ、ゴロゴロ、肌に、耳に、脳に、雷鳴はいつまでも私の中に居座り消えはしない。例え形がなくとも……例え、隣にいなくても。

「だから、怖くないの」

 得だよね、なんて笑ってレノに言えば、なんだそれ、とそっぽ向かれてしまった。

「!」
「な、なに……?」

 前方にある渡り廊下のその先、ものの見事に真っ暗な校舎から聞こえて来た足音に私たちの視線は集約される。雷は怖くなくとも夏休みに入り誰も居ないはずの夜の学校から聞こえて来る足音は別だ。だってレノはお化けじゃないし。思わず視線が金縛りみたいになりながらも、咄嗟に右側にいたレノの制服の袖をぎゅっと握った。

 やがて足元が見え始め、私の身に纏う制服と同じプリーツスカートが目に映り「ひっ、」と喉の奥が微かな悲鳴を上げる。それに気付いたレノがそっと、だけどぎゅっと袖を掴んだ手を握ってくれて、私の上がり切った肩と緊張は自然と凪ぐ。

「あの、すみません……部活終わるまで待ってようと思ったんですけど、その、停電しちゃって」

 そう言って姿を現したのは折りたたみ傘を胸の位置でぎゅっと握り、恐怖と緊張に震えた声でこちらを見る女の子だった。ブレザーに刻まれた刺繍の色に後輩であろう事を察し、更に彼女はとても重大な決意を持ってそこに立っていることを悟った私は、パッと繋がれていた手を離した。まるで、私たちはそういう関係ではありませんと、彼女に伝わるように。

「な、おい……!」

 そしてその離した手でレノの背中を押した。レノから抗議の声が上がったけれど、私はそのまま靴を履き替え状況を同じく理解しているであろう機嫌の悪そうにこちらを見るレノに背を向けた。

「こんな時間まであんたを待ってたんだから、ちゃんと送ってあげなさいよ」

 待てよ、とレノの制止を促す声が聞こえたけど、私は未だ衰えを知らない雨の中へと駆け出した。私の存在が目視出来るうちは話なんかできないだろうから、可能な限り早く、遠くへ。

「はぁ、…っはぁ、このくらい来れば、いいか」

 ふう、と息を吐いたはいいが、膝が笑っていた。おかしいな、そんなに走ってないはずのに。そう思えば毎朝家から学校までの距離を文句をいいながらも走っているレノの体力は凄まじいなと関心さえしてしまった。

 ……レノはちゃんとあの子を送っているだろうか。追って来ないということはきちんとそうしたんだろうと安心した。彼女は胸に傘を持っていたから二人であの半径30センチの世界に入って、帰路を歩くのだろう。きっとレノに告白して、それから……

「あ、れ……」

 もう呼吸は正常に戻ったはずなのに、息がしづらい。笑いの収まった膝から手を離し顔を上げれば、目の前には私たちが1オン1をしたバスケットゴールのある広場が目に入った。

 いつの間にこんな所まで走ってたのか。まるで無意識の行動に自分自身の事なのに訳が分からなかった。網模様のフェンスに近付き、気付けばそこを強く、強く、握り締めていた。

「苦しい…っ…」

 反対の手で自分のびしょ濡れで苦痛が響く胸元を掴んだ。ふと、その手はさっきまでレノの大きな手の平が包んでいたことを思い出し、ずきん、と心臓が痛んだ。なんで、頬を伝う何かがこの降り頻る雨のように溢れ出る理由が分からなかった。頭上では相変わらず光のあとに雷鳴が轟く。平気だったはずだ。彼が離れた数年、例え、隣にいなくても。それなのに、今この瞬間走る閃光は、私の心を八つ裂きにするようだった。

「苦しいよ、レノ……っ、」

 カチャン、と悲しい音を立て、無機質なそこと私の額が合わさった。閉じたまぶたの裏には、はっきりと揺れる赤い髪が映った。











 久しぶりに目覚ましの音を聞いた気がした。ナマエがマネージャーになってからというもの、朝の走り込みのためにその設定時刻よりだいぶ早く、直接か窓を叩く音によって起こされていたから。だが今日はその時間をとっくに過ぎたってそのけたたましさは訪れず、昨年までと同じ時間まで寝てしまったらしい。

「…」

 起き上がり真っ先に隣の部屋が窺えるカーテンを開ける。だけど、そこは昨日と同じ様に固く閉ざされたままだった。あのあとナマエに言われた通りあの一年を送り届け、帰った後もナマエの部屋にすでに明かりはなく、その後も灯ることはなかった。だからこそ目覚ましが鳴るまで起きなかったのだが、昨日のあいつを思い返せば、やるせなさにあいつが似合うと断言したボサボサの赤髪を掻き毟った。

 他クラスの奴らに揶揄われた時、俺のために怒り狂うナマエに少し期待した。だけど、やっぱりそれは幼馴染みの域きを超えていないことを昨日まざまざと思い知らされた気がして、思わず重い溜め息が溢れた。あいつだってあの一年が俺に告白をすることくらい気付いただろう。いや、気付いたからこそナマエはああ言って先に帰ったんだ。答えなんて決まってるから、俺は早急にそのことを告げその子の傘には入らず雨に打たれたままその隣をしばらく歩いた。やがて家はもうすぐそこだと言う一年は今にも泣き出しそうな顔をして去って行った。ちくりと痛む心がなかった訳じゃない。その気持ちは嫌というほど分かってしまうから、尚更。

「……ったく、あいつなにしてんだ」

 未だ訪れる気配もその目線の先にあるカーテンが開かれる様子もなく、俺は仕方なく支度をして、数年ぶりに隣の家のチャイムを鳴らした。

「は? 風邪?」

 だがナマエは姿を見せず、代わりに出てきたナマエの母親に挨拶もそこそこにそう言われ目を瞬かせてしまった。昨日の雨が原因か、少し顔見てもいいかという俺の提案にすんなり家へと通してもらった俺は、迷いもせず一つの扉の前に立った。この部屋に来るのも実に数年ぶりで、少し緊張する。

 だけど、そんなものはベッドに横たわるナマエを見れば一瞬で消え去ってしまった。ぱっと見でも分かるその呼吸の荒さと、苦悶に耐える様に閉ざされた瞳に普段のナマエの面影はない。ベッドの横に鞄を立て掛けサイドに腰を下ろしその額に触れれば、異常な熱を発していて顔を顰めた。

「──ん、」
「悪い、起こしたか」
「レノ……?」

 目を開けるのも辛そうなナマエに小さく返事してそのまぶたを掌で覆えば、自分の体温より低い温度に、ナマエの肩に入っていた力が僅かに緩んだ。

「あの後すぐ帰らなかったのかよ」
「……帰ったよ」

 嘘付け、とは言えなかった。ナマエの母親が昨日は特段帰りが遅かったと言ってた。その時間を聞けば俺の帰宅時間よりも遅いものだった。あんな雨の中、ずぶ濡れでなにしてたんだよ。聞きたかったことはナマエの嘘によって問うことは出来なかった。ナマエの手によって瞼に置いていたそれが退けられ「遅刻するよ」と力なく笑う。だから、俺はその手をぎゅっと握った。昨日、ナマエに振り解かれたその手を、今度はもっと、強く。

「ほら、やっぱりレノは優しい」

 ふふ、と声を漏らすナマエの脳裏には屋上で言っていた小二の頃の俺が浮かんでいるんだろう。力なく握り返される手に言い放ちたくなる。あの頃の俺だって、今の俺だって、こんなことをするのはお前だけだって。

「覚えてないぞ、と」
「言ったじゃん、私が覚えてるからいいの」

 浮かんだ思考に照れ臭くなってあの時と同じ様にそう嘘を付いた。俺だって、ナマエとの記憶を一つだって忘れちゃいない。忘れる訳、ないんだ。

「レノ、」
「ん、」

 苦しさを抱えながらも笑っていた瞳が不安と熱に揺れていた。どうした、と問えば、その唇が小さく動き出す。

「もう、離れないでよ」
「!」
「私は男友達みたいに、バスケ部のメンバーみたいに、あの頃みたいに、もう練習相手にもならないかも知れないけど」

 だけど、そう言葉を続けるナマエを、見開いた瞳で見ていた。

「幼馴染みでいいから、傍にいさせて……」

 我が儘、言っちゃったな、なんて無理やり笑うナマエに言葉の嬉しさよりも先に湧いたのは酷く重いずっしりとした罪悪感だった。俺が話さなくなったって、離れたってこいつは平気なんだと、何も思ってないんだと思ってた。視線の合わない日々。再び話しかけるきっかけを見付けられず俺から遠ざかったというのに、そんなものに苛ついて染めた髪。話し始めたってこいつがなんで俺が距離を置いたかなんて聞いて来ることはなかった。そばに居れればなんでもいいと思いつつも、悲しくもそんな程度なんだって思ってた。俺がこいつを想う熱量より、ナマエが俺を想うものなんて。

「もう、離れねえよ」

 自分だけの願いだったものをナマエにもそう、贖罪と誓いを込め呟く。そっと額に掛かった髪を撫でれば、ナマエは安心した様にそっと瞬きをした。

「……昨日の子、」
「ああ、告られたけど断った」
「そ、か」

 でもちゃんと送ったからな、と言えば、本当優しいね、なんて言われた。あんたが言ったからだろ、なんて不満は、やっぱり言えやしなかった。

「ねえレノ……」
「なんだよ」

 譫言のようになりつつあるナマエの意識がゆっくりと微睡に沈んでいくのがその表情から見て取れた。だから、もう寝ろよ、と思いつつも、まだナマエの声を聞いていたくてつい返事をしてしまう。

「レノの初恋はいつ……?」
「は?」

 思いがけない質問に、目を瞬かせる。だけど力の抜けかけたナマエの手が再度俺のそこを握り返すから、必然的にどきりと胸が音を立てた。

「私は、レノだったんだと思う」
「……思うってなんだよ」

 少し不貞腐れた俺の声を察知して、ナマエの口角が僅かに上がる。

「だって、今気付いたから」
「!」
「ねえ……レノ、は」

 そう言った後聞こえたのは、ナマエの寝息だった。この熱だ。こうして起きて話してること自体が身体的には負担でしかなかったのだろう。

「俺は、」

 そう言ってナマエの手の平を掬い上げる。完全に眠りに付いたその手には微塵も力は入っていない。だけど、その熱を持った柔らかな甲に、同じくらい熱い自分の唇を押し付けた。

「初恋継続中だぞ、と」