インターハイ予選真っ只中。昼休みは試合で抜けていた分のノートを写したり宿題を片付けたりと忙しい。必死にペンを動かしながら疲労回復に良いと言ってナマエが俺の口に度々真っ赤なイチゴを放り込んでいた。
「ね、ねぇナマエ……」
「ん?」
そんな時、クラスの女がおどおどしながら一つの机に向かう俺たちに声を掛けた。そいつの視線は顔を上げた俺たちを交互に見つめ、まるで助けでも求めているかのようだ。
「どうかした?」
「それが、」
言いづらそうな口元が言葉を選ぶようにもごもごと吃り、俺の口に差し出されようとしていたイチゴがの指先に摘まれたまま宙を漂う。
「なんか、すごい怖そうな男の人がナマエを呼んでて……」
「私?」
女が人が行き交う廊下に視線を向ければ、ナマエのそれも自然と外へ向く。その横顔に心当たりはないようで、俺の眼光だってもちろん穏やかじゃなくなる。
「まぁ、分かった。ありがと」
そう言って立ち上がったナマエは、俺に用意したはずのイチゴを自分の口に入れた。あ、くそ、最後の一個だったのに。そんな名残惜しむ俺なんて気付きもせずに歩いて行くナマエのあとを、当たり前のように俺も追った。
「くく、すごい怖そうな人って、あんたかよ」
廊下を出てナマエと一足先に話してた人物を見れば、俺は腹を抱えて笑い出した。
「ちょっとレノ、笑いすぎ。ルード先輩に失礼でしょ」
「だってよ、あんなビビられてたのがルードだと思うと…っ、腹いてえ」
「俺はいい、いつものことだ」
「あれ、お前らなにしてんの?」
ちょっと傷付いてる辺りが更にウケるな、と思った矢先、廊下で立ち話をしていた俺たちを見付けた男が一人、ルードの横から顔を出し俺の笑いはピタリと止んだ。
「俺も混ぜてくれよ」
「お呼びじゃないぞ、と」
「えー同じバスケ部だろー」
け、と唾吐きたくなる気持ちを抑え、視線を逸らす。その先には、あの花火の日と同じような顔をしたナマエがいて、ついに舌打ちが漏れた。
「で、用ってなんだよ」
「ああ、ナマエにこれを見てもらいたくてな」
さっさと済ませろよと言わんばかりにそう言えば、ルードは紙の挟まったバインダーをナマエに手渡した。それを受け取ったナマエの手元に顔を覗かせその内容を見れば、それは次の対戦相手の資料だった。
「あらかた俺と顧問で対策などは書いたが、お前の目から見て足りないものがあれば書き加えておいてくれ」
「私が、ですか。まぁ分かりました」
「頼んだ。ほら、行くぞ」
「え!? 俺も見たかったんだけど」
「完成したら見せてもらえ」
ルードはそれだけ言って駄々を捏ねるザックスを引きずる様にして足早に踵を返した。ただでさえ二年の階に三年がいるだけでも目立つのに、おまけにあのガタイだ。そりゃ見慣れない奴はびびって仕方ないだろう。現にルードに気付いた奴らは飛ぶように廊下の端に避けていたが、もうそれを見たって笑えやしなかった。
「もう、レノが変なこと言うから変に意識しちゃったじゃん」
「俺のせいかよ」
「そうです。もう、全然そんな気ないのに」
はぁ、と一つ息を吐くナマエが嘘を言ってる様には見えない。だけど、やっぱり気に食わなくて俺の眉間には深く濃いシワが寄った。
「で、どうなんだよ参謀長官殿」
「やめてよそれ。そんな大したアドバイスなんて私出来ないんだから」
廊下の開け放ったままの窓に腕を置いて真剣に資料を見るナマエを、そう俺を不機嫌にした代償のように茶化せばジロリと睨まれてしまった。だがすぐに顎に手を置き悩ましげに唸り始める。次の試合は昨年インターハイに出場している強豪校だ。だからこそルードもあんな目に晒されながらも少しでも早くナマエにこの資料を届けたかったのだろう。
「このレノとあたる選手だけど、」
「あ? どいつだよ、と」
ナマエの細い指が事細かく書かれた資料の一角を指す。それをナマエ側に回り込んで見れば、自然と俺たちの身体の一部がぶつかった。
「この八番の選手、」
「おーい、廊下でイチャつくなよ」
突如聞こえた無粋な声にナマエは言い掛けた言葉を止め、俺たちは揃ってその声が聞こえた方を見た。そこには他のクラスの男が二人、ニヤニヤとしながらこちらを見ている。どうやらさっきのは俺たちに向けたものだったらしい。チッ、と実際現実となった嫌な視線に、気分の悪さも相まって苛立ちが胸の奥でザワザワと揺れた。
「なーなーどこまでヤッた?」
「そりゃもう最後までだろ」
ゲラゲラと下品な笑い声と向けられた言葉にグッとナマエの顔も険しくなる。いつかはこんなことが起こると思ってた。だから、離れた。
『お前ナマエの幼馴染みなんだって?』
いつかの日、俺にそう聞いて来た奴がいた。付き合ってるのか聞かれ否定すれば、そいつはこいつらと同じような顔をして紹介しろだの仲を取り持ってくれだの言って来て、吐き気がした。だけどそれを言うこともナマエにずっと抱えてるものをぶつけることも出来なかった俺は、ナマエと関わることをやめた。そうすればそんなふざけた提案をしてくる奴もいなくなるだろうと、思ったからだ。
この年代の奴らは男女が一緒にいるだけでやたらめったら騒ぎ立てる。あの頃はそれが、どうしても嫌だった。恥ずかしいとかそんなんじゃない。俺たちの関係を見せ物みたいに扱われるのが我慢出来なかったし、開き直る器用さも当時の俺にはなかった。いや、俺は怖かったんだ。そう言われた時のナマエの反応が。ナマエから俺の元を離れてしまう、可能性が。だから俺は逃げたようなもんだ。他の誰でもない、ナマエから。……だけど、今は違う。護ればいいだけの話だ。俺が、ナマエを。そう決めて俺はこいつとの時間を取り戻したんだから誰にも邪魔はさせやしねえ。もう勘弁なんだよ。ナマエの、いない日々は。
「は? なんだよそれ、ナイト気取りか?」
「レノ、」
俺の背後にナマエを押しやれば、そこでナマエが小さく俺の名前を呼んだ。いいからそこいろよ、と目配せをして、そいつらに向いた。
「なんか用か」
「別にーただすげー邪魔だなって思って」
「そうそう、ド派手な奴がいると目に付いて仕方ないし?」
「へぇ、そりゃ悪かったな、と」
それだけ言ってくるりと身体を後ろに向けナマエの肩を掴み歩き出した。こんな低能な奴らに構うだけ時間の無駄だ。……それに、あんな奴らの視線上にナマエがいると思うだけで虫唾が走る。
「女の方も残念だよな」
「本当、まぁお似合いなんじゃね?」
ピタリと、俺の足が止まった。ざわり、胸の奥にあった苛立ちが全身に広がっていく感覚にじりじりと焦げるように身体が熱くなっていく。
「今なんつった?」
「お、赤髪が怒ったみたいだぞ」
「なになに? 女と合体でもすんの?」
「そりゃ夜の話だろ」
腹を抱え笑う二人にこめかみがぴくりと痙攣する。下世話な話だって勝手にすればいいし俺のことを言われる分にはなんとも思わない。だけど、ナマエが関わるなら、話は別だ。
「てめえら、……は? あ、おい!」
「レノはそこにいて」
もう我慢ならねえ、そう思った。が、それは俺の手をすり抜けそいつらに向かって行くナマエの、聞いたこともない様なドスの効いた声によって動きを止めた。
「なんだよ、あいつやめて俺らとイチャつくのか?」
「あんたたち、本気で言ってるの?」
腕を組み真っ直ぐにそいつらを見るナマエの顔は嫌悪さを含みながらも真剣だった。そんな毅然としたナマエに二人は顔を顰め、あきらかにまずい雰囲気を出している。なに言う気だよ、と先ほどまであった苛立ちなんてどっか行っちまった俺はただ固唾を飲んだ。せめて何かあった時庇える位置まで近付こうとしたが、それはナマエの視線で制されてしまう。
「よくみて見なさいよ。あんなに赤髪が似合う男いると思ってんの?」
「は?」
……いや、俺も二人と同じ反応をしてしまった。向けられた親指が、やたら気まずいのは人生で初めてだ。
「なんならレノとあんたたちの顔を全教室に並べて張り出してあげようか? 楽しそうでしょ?」
「てめ、」
「ふざけてんのか!」
「ナマエ……!」
なんで煽ってんだよ……! 遂に拳を上げた男に、俺は駆け出した。だけど、
「殴りたかったら殴れば良い。まぁ、」
その拳がナマエに降りかかる事はなかった。ナマエの口角がこれ以上ないくらい上がり、男二人は本能的に動きを止めた。
「私がメンテしてる身体に、そのあとボコボコにされる覚悟があるなら、だけど」
持っていたバインダーをわざとらしく見せ付けるナマエの思考を察し静かに隣に並んだ。距離がなくなればそいつらは俺の目線の下、だ。う、と言葉を詰まらせたそいつらはそのままなにも言わずに廊下を駆けて行き、俺は深く息を吐いて肩の力を抜いた。
「ったく、肝が冷えたぞ、っておい……!」
全く、とナマエに呆れた視線を送ったがその視線は交わる事なく、むしろ腕を掴まれぐいぐいと引っ張られてしまう。その足取りはやたら荒っぽく、俺はなんなんだと困惑に揺れていた。
「おい、もうすぐ鐘が鳴る、」
「サボります!!」
前方に現れた長い銀髪の教師の言葉を遮って、一番言っちゃいけないであろう宣言を堂々と言ったナマエに瞠目する。こりゃ確実に説教コース、
「そうか。程々にな」
……って、いいのかよ! 通り過ぎた際に見えたふっと笑った横顔に、思わずそうツッコんでしまった。
散々階段を上り、バタン! とすごい音を立てナマエの足が扉を蹴っぱぐった先には青空が広がっていた。同時に校内に鳴り響く鐘の音に本気でサボる気なのかと思った。屋上に着くなり俺の腕を離したナマエはそれでも俺に視線は向けず、銀色に鈍く光る柵へ歩み寄りそこをガシッと掴んでは、すぅ、と大きく息を吸い込み、止めた。そして、
「ムカつくーー!!」
「!?」
背伸びをし目一杯身を乗り出して腹の底から突然叫び出したナマエに目を見開いた。鐘の音に紛れたその声は梅雨の明けた清々しいほどよく晴れた空に向かい、消えていく。
「なん! なのよ! あいつら!」
「お、おい」
かと思えば、今度はその柵を足の裏で打つけ始めた。ナマエが足を振り下ろす度に、ガン、ガン、とナマエの足を発生源として広範囲のそこが小さく振動している。
「あー! ムカつく! ……やっぱ一発ぶん殴ってくるわ」
「待て待て待て……!」
血走った目でそう言って腕を回しながら俺の横を颯爽と通り過ぎようとするナマエの腕を焦って掴めば、そいつは俯いたままようやく足を止めた。
「だって、悔しい」
ポツンと溢れた言葉は、悲痛さを孕んでいた。握られた拳は震え、それに連動するように肩が小刻みに揺れていた。あー、くそ。やっぱりやめとくべきだったのか。そんなナマエの姿に後悔が過ぎる。こんな思いをさせたくなかった。あの日の俺が抱いた嫌悪も、不快感も、何もかもこいつにだけは感じて欲しくなかった。
「悪かった」
「なんでレノが謝るのよ」
「だって、」
俺のせいだろ。俺が、アンタといたいから。少しでも近くで、僅かでもその瞳に俺を映してほしいと願ってしまったから起こったことだ。だけどそんなこと言えるわけもなく口を噤んでしまう。なんなんだよ。中途半端な自分に苛立ちが募る。何が護るだ。こんなことになるならまた離れようと言われても仕方ない。
そう、思うのに、ぐっと押さえ付けられたように痛み出す胸に次の言葉が出て来ない。
「レノは、」
先に口を開いたのは、ナマエだった。
「すっごく可愛かったんだから!」
「……は?」
「幼稚園の時なんか、ナマエちゃんって呼んでくれて、いつの間にか呼び捨てになってちょっとイラッとしたけど!」
「おい、なんの話だ、と」
訳が分からねえとしどろもどろする俺を完全無視で、ナマエはなぜかそんなことを力説し出し唖然とする。
「小二の時なんか私が熱出した時ずっと手握ってくれてたし、中学の時体育で怪我した私をおんぶして家まで帰ってくれた!」
「……いや、覚えてねえぞ、と」
「レノは優しいの! レノが覚えてなくたって、私は覚えてる! 知ってる! なのに、なんでなんも知らないあいつらにあんな事言われなきゃいけない!?」
ああ、と息が漏れた。なんで、と繰り返すナマエは、俺のために怒ってたのかと分かったから。だから、俯き両手で顔を覆うナマエの頭に、コツンと自分の額を当てた。
「……ムカつく、」
「ああ、」
「なんなのよ」
「そうだな」
「私の幼馴染み……馬鹿にすんな」
ふん、と鼻息を荒くするナマエに、思わず笑った。全く、俺の葛藤は何だったんだ。俺はこいつを甘く見てた。逞しくて、強くて、護ろうとしたのに、逆に護られちまった。必要、なかったんだな。ナマエが俺から離れてしまうかもなんて恐怖も、俺がナマエから、離れた時間も。
「ありがとな」
「当然でしょ」
幼馴染みなんだから、そう言うナマエに安堵した。だけど、そう言われれば言われるほどこの関係を壊す可能性のあるこの気持ちは、俺の奥深くに押し込めるしかなかった。