恋だの愛だの他人の話は面白おかしく、かつ時には真面目に聞いたりしていた。興味がなかった訳じゃない。だけどそれはまるで、俺だけがいない世界の御伽噺のようなものだと思っていた。そんなもんに振り回されて見失うものも、見えなくなるものも……見えるものだって、俺には何一つ想像できなかった。たった一人の誰かに愛されることも、俺が狂おしく思うほど誰かを、愛することも。

 そう──あいつに出会うまでは。これはそんな俺の、たった一度だけした、恋の話だ。

 それは青天の霹靂のようだった。本部へ向かう途中にすれ違った彼女の靡く髪に、そこから顔を覗かせた形のいい耳に、同僚と話し動く唇に、笑って細まる瞳に、俺は一瞬で目が離せなくなった。さっさと帰ってルードを引き連れ飲みにでも行こうとしていた足は去り行く彼女の引力に引っ張られるように速度を無くしていき、そして急速に引き寄せられた。気付けば俺は彼女へ向かって走り出し、腕を掴んでいた。振り返り揺れた髪の隙間を縫って瞠目した瞳が俺を捕らえた瞬間、世界が光って見えた。大袈裟でもなんでもなく、きらきら、きらきらと、海に降る雪が光に反射するように眩しく、輝いていたんだ。




「……ルード、あれはなんだ」
「……さぁな」

 本部にて、そんな会話が聞こえてきた。二人を見ずとも訝しげに眉を顰める主任と、腹でも痛いのかと見当違いな思考を浮かべながら首を傾げるルードが容易く瞼の裏に浮かんだ。“あれ”とは考えずともデスクに項垂れるように突っ伏した俺であろうことを悟りながらも、その会話に入る気にはとてもじゃないがなれなかった。

『好きだ』

 先ほど自分が放った言葉を思い出してすぐに死にたくなった。あああ! くそ! 馬鹿かよ俺は! 羞恥に天を仰いで頭を抱え、真っ赤に染め上げた髪を掻き毟った。なんであんなことを言ってしまったのか考えた、が、答えは出やしなかった。糸が切れたように再び突っ伏し、はぁ、とデスクの上には俺の後悔が蔓延する。

……初対面でンなこと言ったって気持ち悪がられるだけだろうが

 頬にあたるデスクの冷たさに、熱に魘された頭まで冷えていくみたいだった。

『えっ……と、ごめんなさい』

 それは至極当たり前の返答だ。ファーストコンタクトは余りにも最悪で、出来れば時間を戻して欲しい。が、残念ながらそんな事出来やしない。俺は咄嗟に掴んだ腕を離し謝罪をした。彼女は苦笑しながらもそれを受け入れ、俺が所属と名前を聞けば躊躇うことなく教えてくれた。これには自分で聞いといてなんだが驚いた。

……腕、折れちまいそうだったな

 目線まで掲げた手の平を見つめ彼女の欠片に想いを馳せれば、自分の心臓から聞いた事のない音が聞こえた。甘いはずなのに痛みに似た息苦しささえ滲むそれに苦悩する俺の手の先には、顔を見合わせるルードと主任が、ぼんやりと映っていた。



 そこからの俺の行動は慎重だった。なんせファーストコンタクトがあれだ。同じ過ちは犯さないと誓い、毅然と、男らしく、堂々と……次に彼女に会った時俺は、再びの謝罪をした。チッ、過去の俺許さねえからな、と。
 だけど彼女はやっぱりそんな言葉を笑って受け止めてくれた。今度は、苦笑じゃなく。そしてやっぱり、好きだと思った。再確認を終え連絡先を聞いた俺は、言ったあとに早すぎたかと焦ったが、これもすんなり彼女は教えてくれた。携帯を取り出した手の平は尋常じゃない汗をかいていて、俺は初めて自分がせっかちでビビりなことを知った。そして、こんなにも誰かのことを知りたいと思ったのも、初めてだということに気付いたのだった。



「なぁ、」

 少ないながらも、短いながらも続けたメール。何度も我慢した電話は一週間に一回に止めて、月に一回誘った食事は浮き足立ちすぎて何を食べたのか微塵も思い出せない。ああいや待て、あいつが美味しいと言ったケーキを一口もらったやつは覚えてる。口に入れた瞬間まったりとしたクリームがそこら中に張り付いて、途端に口内を一色に染め上げた。まるで目の前で「どお?」と首を傾げる彼女のようだと思った。甘ったるくて仕方ないそれをアイスコーヒーで流そうと手を伸ばして、やめた。なんとなく、その余韻をまだ噛み締めていたいと思ったからだ。

「知ってると思うけどよ」

 月に一回だった食事が夜の街に繰り出し始めた頃、バーカウンターに並んで座った彼女は色素の薄い街並みに浮き立ちそうな色のカクテルをグラスの足を持ってゆらゆらと揺らしていた。俺はロックグラスを割れないように細心の注意を払いながら握り、呼吸を整えるよう細く息を吐けば、その熱に中の氷が溶け、背中を押すように一つ、高い音を立てる。

「俺は、あんたが好きだ」

 視線を淡い間接照明に照らされたその横顔へと向け、二度目の告白を口にする。今度はちゃんと、タイミングを図って。

「俺と付き合って……くれませんか、と」

 コトン、とカウンターテーブルとグラスが相見え、円形の底を細い指がなぞる。空白、のち、そこに向けられていた視線が音もなく静かに俺へと向かった。真っ直ぐ、俺の瞳を覗き込むその目に吸い込まれそうな錯覚を覚えて、この永遠にも感じる時間に喉が引き攣る。

「はい」

 たった二文字。彼女はそう言って、笑った。はい、はい……心で何度も復唱し、その考えずとも分かるはずの言葉の意味を探る。「レノ?」と首を傾げた彼女に、ようやく俺は口の中でもたついた甘ったるさを音を鳴らしながら飲み込んだ。

「はぁ〜……」

 黒塗りの鏡面タイルに向け吐き出したのは安堵だった。そんな俺の項垂れた頭にクスクスと粉雪のように優しい声が降り注ぎ、顔を上げる。この数ヶ月で見た中で見つけた、俺の一番好きな彼女の顔が、そこにはあった。

「笑うなよ。めちゃくちゃ緊張したんだぞ、と」
「ごめんごめん、レノってなんでもスマートにこなしそうなのに真逆なんだもん」
「それは、」

 あんたに関してだけだぞ、と。まぁ、度重なる失態にわざわざ上乗せするようなそんな格好悪いこと、言えやしないんだが。

「ま、改めてよろしくな」
「ふふ、うん。こちらこそよろしく」

 そう言い合い揃って向き合っていた身体を前へと戻した。……沈黙、の後、俺たちは同時に向き合い、熱い視線を絡め合い、キスをした。そこからは互いに何も言わず外に出た。半分以上残っていたカクテルも、氷が溶けて二層に分かれた俺の酒もそのままにして、気付けば近くのホテルでがむしゃらにまぐわっていた。時間を惜しむように乱暴に服を脱ぎ、その間も離れれば死んでしまうとでも言うように口付けをした。
 露わになる肌は滲む汗で月明かりの下に晒され艶めきを引き立たせたし、甲高い声は麻薬のように俺を酔わせ痺れさせた。
 溶けて、しまいそうだった。朦朧とする思考はただひたすらに彼女を求め高みへと誘っていく。飲まれていく。飲み込まれて、跡形も残らずにこのまま消えてしまう錯覚さえ起こした。でも、それでもいいと思った。こいつと一緒なら、それがいいって。



「……身体、大丈夫か」

 全てを終えキングサイズのベッドに横になって伸ばした腕は彼女の首と密着していた。凹凸のある白い天井を見上げたままそう問えば、すぐ耳元でやっぱりクスクスと笑う声がしてくすぐったい。

「うん、大丈夫だよ」
「そっか」

 初めてじゃない。女を抱くことなんて。だけど、初めてだった。スッキリしたはずなのに、どうにも物足りないこの感じ。

「レノ?」
「…」

 それを探るように身体を彼女へと向ければ、ベッドがぎしっと揺れた。俺を不思議そうに見つめる瞳にいつかのように胸が音を鳴らす。ドクンドクン、いつもと同じだ。だけど、違う。その頬を包み込んで撫でれば、暴れ出しそうな心臓が叫んでいた。

「好きだ」

 何度も、何度も言った。額を擦り付け、瞼に、頬に、額にキスを落とす度そう言った。好きだ、好きだ。何度言っても足りない。ちゅ、と唇に触れた。軽く触れ離れたそこはやっぱり物足りなくて、覆い被さり角度を変え、もっと奥深くにと重なり合う。これ以上こいつに近付けないことが、もどかしくて仕方なかった。





「おかえり、お疲れ様」
「ああ、疲れたぞ、と」

 もうすでに通い慣れた道を通りワンルームのマンションへと足を歩踏み入れた。この家に何度目か訪れた時に「いらっしゃい」が「おかえり」に変わって、この部屋のパスである鍵を手渡された。正直、警戒心のなさに一度は断った。だけど、そしたらこいつは「ならずっと鍵を開けっぱなしにするね」なんて言うから渋々それを受け取った。全く、変なところが頑固なのは、付き合い始めてから知ったことの一つだった。

「コーヒーでも淹れる? あ、ご飯食べた?」

 俺がリビングに入るなり座っていたソファーから立ち上がったそいつはそう言ってキッチンの方へと向かおうとする。それに短く「いらね」と答え、入れ替わるように座ったソファーの横をトントンと指先で叩いた。これは、座れの合図だ。そんな俺に彼女はキョトンとしながらも素直に俺の横に座った。俺の手はいつかの日ほどじゃなくとも、じっとりと汗ばんでいた。

「どうしたの、硬い顔して」
「いや、大したことじゃねえんだけどな」

 そう言ってゴソゴソとスラックスから一枚のカードを取り出し、顔も見ず頬杖付いたまま彼女へと差し出した。三桁の数字のみが書かれたそれに視界の片隅にいるそいつはピンときていないようで、裏表を一通り眺め、視線を俺へと向けた。

「……俺んちの鍵だぞ、と」
「!」

 答えを求める眼差しに痺れを切らして緊張を誤魔化す為の溜め息を吐きそういえば、彼女が押し黙ってしまった。そんな気配にせめてなんか言えよ、と思いつつちらりと横目を向ければ、じっと俺が渡したカードキーを険しい表情で見つめる彼女がいる。その反応は予想してなかった。嬉しくないのかよ、そんな不満が口から漏れれば、彼女は被りを振って俺の言葉を否定した。

「その、本当にいいの?」
「受け取らねえなら俺の家の鍵開けっぱなしにするぞ、と」

 ふん、と鼻を鳴らしてそう前に言われた横暴を口にすれば、そいつはようやく笑い大事そうに一枚のなんてことないカードを胸に当てた。それがこそばゆくて人差し指で鼻の下を二回掻く。

「ありがと、レノ」
「ん、いつでも来ていいからな」
「ふふ、レノが私の家に来て私がレノの家に行っちゃったりしてね」
「バカップルかよ」

 そう言って二人で笑った。タークスは忙しい。プライベートの予定なんて滅多に立てられやしない。だからこの家に来る時もいつも突発的だ。まぁ、今じゃ自分の家よりもここに帰ることの方が多くなってはいるんだが。

 例え来るのが深夜だろうとこいつが寝てるベッドに滑り込み、その手を握ったり目にかかる髪を梳いたりするだけで仕事の疲れなんて吹き飛んじまう。そんな魔法みたいな恩恵を受けられるんだからそれも当然のことだ、と俺は思う。それに、最近は後ろからこいつをすっぽりと抱えて寝る事にハマってる。足を擦れば当たり前かのように絡まるそこから俺たちの体温が同化していく感覚と、こいつのまだシャンプーの香りが色濃く残る髪に顔を埋める瞬間が好きだった。起きる前に出ていくこともザラにある。だったら家に帰れって話だが、もうすっかり仕事が終わると足が自然とこの家に向いてるんだから、仕方がない。

 こいつを泣かせたこともある。感情が先に出ちまう俺は気が立って、八つ当たりして、傷付けて、言い訳も弁解も面倒くさくなって、その時はこんな関係終わらせてやるとさえ思った。だけど振り返った先で、こいつの酷く傷付いた顔と音もなく流れる涙を見た瞬間、なんてこと言っちまったんだと後悔した。
 だけど関係の修復なんてことのした事のなかった俺は、何を言うべきか、言わなきゃいけないのか分からなくて家を飛び出した。外はそんな俺を咎めるように、クソ野郎と罵るように冷たい雨が降っていた。

 終わったなって、そう思った。だけど同時に浮かんだ感情はそれを真っ向から否定した。終わりたく、なかった。離れたくなくて、手放したくなくて、俺はしばらく経った頃にぼったくり花屋から「大丈夫だよ」なんてらしくない慰めと一輪の花を買い付け彼女の家に向かった。だけど家の明かりはなく、パスがあるにも関わらず勝手に入るのも気が引けちまった俺は玄関前に座り込んでその帰りを待った。
 どれくらい待ったか、は分からない。蹲り膝を抱えた俺が次に顔を上げた時は、彼女がもう目の前にいたから。悪かった、情けなくも俺はぶっきらぼうにそれだけしか言葉を紡げなかった。だけどそいつは「大丈夫」なんて、悔しくも花屋でもある古代種と同じ言葉を発して笑った。それから差し出した花は、ベッドの横に枯れてしまうまで居座り続けた。まるで俺たちを、見守るように。

 どれもこれも捨てがたく色鮮やかな思い出だ。あの頃はただこんな日が続いてくんだと思ってた。否、そんなことを考えることもないくらい当たり前で、癖のような、無意識の、当然にあるもののような気さえしていた。それがどんなに尊いもので、奇跡的なものだったのか……その全てを失った今なら分かる。
 一人目覚める朝。俺の匂いが微かに移った髪も、共有した体温も、おはようと告げる少しこもった声も、世界の眩しさに目を細め笑う顔も、もうここにはない。きっと、二度と手には入らないであろう“幸せ”と呼べた日々は、俺が捨てた。自らの手で、あんなに欲して、あんなに縋ったと言うのに、終わりは瞬く間に駆け抜け俺たちを引き剥がした。
──ここからはどうしようもない俺の、忘れたくとも忘れられない、忘れちゃいけない、罪と罰の話だ。





「やるしかねえか、と」

 ヘリのハッチを開け爆風に手を翳す金髪を見下ろしそう呟いた。一度は終えたはずの反神羅組織アバランチとの戦いは、一般市民を巻き込む最悪の展開を迎えていた。だが善人振るなと俺の中の俺が悪態吐く。こんなことは初めてじゃない。規模は違えど俺はこういった仕事を着実に、確実に積み上げてきた。今更だろ、と、やはり俺の中の俺が口走る。
 ここ一年ほどで起こった相次ぐ上位クラスのソルジャーの喪失に俺たちタークスの荒仕事、汚れ仕事は更に増えた。おまけに人員不足の組織は多忙を極め、ゆっくりあいつと過ごす暇さえ与えちゃくれねえ。本当、やになっちまう。
 そういやこの前眼前にいる元ソルジャーとやらにやられた傷を彼女に見られた時は大変だった。格好悪いと罰が悪そうにする俺に対し、私が倒してくる、なんて頼もしくも明らかに冷静さを失った彼女はフライパンを持って外へ向かおうとするから慌てて引き止めた。そのあと腹を抱えて夜通し笑っちまったのはきっと、この先も忘れはしないだろう。……なぜだかそんなことをふと思い出してまた笑った。そして無性に、あいつに会いたくなった。

「ん?」

 ヘリから飛び降りさっさと終わらせちまおうと思った俺のポケットが震えた。俺、今忙しいんだけどな。そう思いながらも画面を見れば見慣れた文字列が並んでいて、俺は片手に持っていた神羅お手製の特殊警棒を腰にしまった。普段俺がタークスとしてしていることを詳しく話したことはなくとも、世界に轟くならず者である俺の仕事中は一切電話をかけてきたことなんてなかった相手に、俺は迷わずそれを耳に当てた。

「どうした?」
『あ、レノ。よかった』
「!」

 ごめんね、仕事中なのに。そう言った彼女の背後に聞こえる騒音と呼べるものに、俺は反射的に背筋が凍る感覚を覚えた。

「お前、今どこいんの」
『そのことで掛けたの。神羅のヘリもいっぱい飛んでて、なんか街の様子もおかしいし』
「……どこに、いんだよ」

 自分でも信じられないくらい低い声が出た。捕まっていたヘリの部分を掴んだ指の骨はその握力に悲鳴を上げている。じりじり胸を焦がすものは患部を爛れさせ、じくじくと痛みを伴い広がっていく。焦りと不安が招く乾いた喉に無理やり唾を流し込む俺に、電話口の彼女が黙る。そして、

『七番街スラムだよ』

 そう、言った。ひゅっと喉の奥が死神に鎌を突き付けられた緊張感と恐怖で震え、俺は揺れる瞳孔を真下に広がる──これから潰れる、彼女のいる街を見下ろした。

「……げろ」
『え……? レノ……く、聞こえな…』

 周りの喧騒が激しさを増し彼女の声が遠くなる。声が震える。声だけじゃない。指も、腕も、足も、神経も、思考さえもがガクガクと揺れて立っている感覚さえ俺から奪っていった。

「逃げろ……!」

 気付けばそう叫んでいた。だけど電話口には途切れ途切れ何かを言おうとしている彼女の言葉にならない声が聞こえるだけだ。もどかしさと苛立ちによって出た盛大な舌打ちが殺伐とした空気に鳴り響き、携帯を握る手に嫌でも力が籠った。

「おい! 聞こえてんのか!? いいからそこから今すぐ」
『レノは』

 俺の声を掻い潜り彼女の声が聞こえる。

『そこにいるの……?』
「…」

 なぜか、見えるはずのない彼女に見つめられている気がした。そんなはずないのに、どうしてか咎められてる気分になって言葉が紡げない。ぱくぱくと空気だけを取り込もうとする喉は酷く役立たずで、こんなことをしている時間なんてないのに、いいから逃げてくれと伝えなきゃいけないのに、脳内に浮かんだ冷たい瞳を向ける彼女に身体が固まり出来やしない。

『ねえレノ、レノは……、っ!』
「!」

 彼女の詰まるような声の後、ガシャンと落下音が鳴った。ハッとし名前を呼んだのと同時に耳を劈くバキッという破壊音。その後耳に残ったのは、その通話が終わったことを告げる無機質な音だけだった。

「…」
「……おい相棒、何かあったのか」

 呆然とする俺に操縦席からルードが顔を出しそう言った。

「……いや、」

 未だ同じ音を繰り返す携帯をそのままポケットにしまい、警棒を握り締める。

「なんでもないぞ、と」

 もうなにも、考えたくなかった。





「──……ッいてえ、」

 鉛のように重い瞼を僅かに開ければ、何も理解していない頭に身体の各所から強烈な痛みが無遠慮に届けられた。なんだこりゃ、一体何がどうなって。

「!」

 途端、気を失う前の光景がフラッシュバックした。腕についた点滴を容赦なくぶちぶちと引き千切り、俺の中から出て行った針を寝ていたベッドに投げ捨て病院着ということを気にも止めずに走り出す。ガン! と拳を叩きつけるようにエレベーターのボタンを押し目指した先は、ミッドガルが見渡せるヘリポートだった。

「…」

 乾いた風が頬についたガーゼを通り抜け傷に触れ痛んだ、気がした。だけど、痛覚も思考も俺の中から抜け落ちてしまったみたいに全ての感覚が鈍くなっていた。──目の前の、七番プレートのように。
 建設途中の六番街とタークスの管轄地域である八番街のその間にあったはずの物は綺麗にその姿を消していた。俺たちの任務が滞りなく達成された証拠だ。そして、多くの人間が死んだであろうことは、その下に広がる瓦礫の山を見れば想像は容易い。あの場にいたあいつも、きっと──

「こんなところにいたのか」
「……よう相棒、あんたは無事か?」
「お前よりかはな」

 背後からかけられた声に、欠けた街並みから視線を曇天の空へと向けた。だけどそこは重たい前髪に隠され何も映っちゃいなかった。そりゃよかった、そう言って笑った。……なぁ相棒、上げた口角はぶっ壊れた人形のようにそのままだ。ああ、雨が降って来たな。最悪だ。傘なんか持っちゃいないからずぶ濡れになっちまう。そしたら風邪引くだろってあいつに怒られちまうんだわ。あいつ頑固だから、一度怒ると機嫌直るまで大変なんだよ。だから……だから、俺を

「俺を──殺してくんねえか」

 あいつのいない世界から、消えてなくなりたかった。一刻も早く、今すぐに、この張り裂けそうな胸の痛みから解放されたかった。目を開ければ雨は降ってなくて、ただ俺の頬だけが濡れていた。

「……相棒の頼みなら仕方ないな」
「おう、助かるわ」

 すんなり得た承諾にそう言って、心で謝罪した。こんなクソみたいな役回りをさせてしまうことに。だけど、やっぱ持つべきものは相棒だ。有り難くて、仕方ねえ。

「だが、まず彼女に聞いてみた方がいいんじゃないのか」
「……なに、」

 言ってんだ、振り返り見た肩をすくめるルードに、色を失くした瞳が開かれていく。

「っ、はぁ、…はぁ……!」

 走っていた。エレベーターを待ち切れずに、ひたすら続く非常階段を。

『主任が七番街プレートが落ちる前、古代種を確保するためにスラムに降りていた』

 さっき足が縺れたせいで手摺りに打ち付けた脇腹が痛む。だけど、そんなの関係なかった。そんなもんじゃ、駆け下りる俺の足は止まらない。

『その時、見たことのある顔が倒れていたらしい』
『俺も主任も何度か見ていた。お前たちが並んで歩くのをな』
『だが、レノ』
 ルードの言葉が反芻する。
『覚悟だけはしてくれ』



「ッ……!」

 バタン! と大きな音を立て一つの病室の扉を開けた。個室のそこは薄暗く、閉まったままのカーテンからは天気の悪さも相俟って光はほとんど入って来てはいない。ベッドに横たわるそいつの心臓の音に合わせた電子音だけが、静かなその場所に響いていた。恐る恐る、核心へと近付いていく。怖かった。もし、あいつじゃなかったら……駆け寄って一秒でも早く確かめたくてここまで来たというのに、いざ目の前に来ると足が竦んで途端に動きが鈍くなる。だけど、

「っ、」

 それは確かに俺が望んだ人物だった。求めた人物、だったんだ。そっと伸ばし触れた頬は温かい。生きて、る。なのに、その痛々しい姿に息が詰まった。

「……くそ、」

 両方の手の平でその白に包まれ僅かに肌の見える頬を包んだ。閉ざされた瞼も長い睫毛もピクリとも動きはしない。額を合わせ内側から熱く湧き上がったものは、安堵じゃなかった。これは不甲斐ない俺への嫌悪と、こいつをこうしてしまったのは俺なんだという罪悪感だ。ぽたり、ぽたり、止めどなくそいつの頬にも、雨が落ちていった。





「お花、枯れちゃったかなぁ」

 ベッドから見つめる瞳は開け放った窓のその先に広がる晴天へと向けられていた。その横で丸いすに座りその横顔を見つめる。だいぶ顔色は良くなったな。身体に巻かれた包帯だって日に日にその白い範囲は狭まっていき、医者にはあと一週間くらいで退院出来るだろうと言われた。そんな彼女の呟きに「そうかもな」なんて簡素な言葉しか返せなかった。まるで、喉の中心になんかが引っ掛かってるみたいだった。

「レノはもう平気?」
「ああ、問題ねえよ」

 一足先に退院し仕事へと戻った俺に彼女は「無理しちゃダメだよ」なんて、こんなことがあった前と同じ顔で笑った。それが逆に俺の精神を蝕み、俺は無理やり貼り付けたような笑みくらいしか出来ずにいた。忘れちまったんだ。今までこいつとどんな話をしていたか、どんな風に、笑いかけていたのかすらも。

「レノ?」
「あ? どうした」

 彼女に顔を覗き込まれ自分が俯いていたことを知った。ハッとして口角を上げれば、目の前の彼女が一瞬、表情を曇らせた、気がした。

「ねえ、退院したらさ、また八番街のカフェに行こう?」
「ああ、あんたあそこの飯好きだもんな」
「うん、病院食飽きちゃったから美味しいもの食べたい」

 ね、レノはなにしたい? なんて言う彼女はいつもと変わらない。気のせい、だったのかも知れない。彼女から出て来る場所はどれも一度は行ったことある所ばかりで、その時のことが脳裏に浮かんでは、俺の胸を締め付け続けた。だけど、そんな痛みは見て見ぬ振りをした。こいつがこうして笑ってるならそれでいいって、そう……思い込もうとしていた。





 ガチャリと、いつか振りに家の玄関を開けた。主人の不在がそこそこ長く続いたからか、部屋の中の空気はこもっていて少し息苦しい。俺より先に部屋へと足を踏み入れた包帯を全て取り払った彼女は同じことを思ったのか、ちょっと寒いけど、なんて言いながらカーテンとベランダへの窓をからからと音を立て開け放った。瞬間、入り込んだ夜の澄んだ空気が部屋の中を駆け抜け、彼女の髪を背後に揺らした。何度も、何度も見た光景だった。初めてこいつを見つけた時から、数え切れないほど。

「随分久しぶりに帰って来た気がするね」
「…」
「レノも私の看病と仕事で疲れちゃったんじゃない? ごめんね、お世話してもらって……あ、そうだ。お花、」

 首だけで振り返り俺を見つめていた彼女は視線をベッドサイドに移し、そして落胆した。花瓶の中身は薄茶色に濁り、こいつを泣かしてしまったあの日から定期的に贈っていた一輪の花は項垂れ見る影もない。汚れ切った水の中心に、ただ残ってしまった茎だけが存在していた。

「やっぱり、枯れちゃったな。折角レノがくれたのに」

 そう彼女は心底悲しそうに肩を下ろした。それにも、俺の返事はありはしない。多分、もうこれが三日ほど続いていた。こいつに掛ける言葉が見つからなくて、まずは表情が死んだ。そして誰かに首を絞められているかのように声が出なくなり、次は感情だった。なのに彼女は気付いていないとでも言うようにいつもと変わらず俺に接している。……頭が、おかしくなりそうだった。

なんで、笑ってられんだよ

 花瓶を置いたサイドテーブルに落ちた花弁を、何度も重ね、繋いだ指が撫でる。彼女の靡く髪が、そこから顔を覗かせた形のいい耳が、俺と話し動く唇が、笑って細まる瞳が、彼女を形容する全てが、好きだった。……好きだったんだよ。

「──別れてくれ」

 空白、の間に夜の帳が部屋を、そして俺たちを包み込んだ。ゆっくりと振り返り真っ直ぐに俺を見つめたその瞳は驚きもせず、狼狽えもせず、悲しみさえも浮かんではいなかった。ゆるりと上げられる頬と口角を携え、決して枯れない名花のように凛とした彼女が近付いてくる。まるで、そう言われるのが分かっていたみたいだ。
ただそれだけを言った俺へと伸びた少し冷えた指先が頬を撫で、黒が沈着した目の下をなぞる。困ったように一つ、彼女はやっぱり笑った。全てを受け入れるように、全てを、諦めるように。

「分かった」

 震えることもなく出たその言葉に、ホッとした。もうこんな風に悩むことはなくなる。夜だって眠れるようになるはずだ。こんな重苦しい毎日から解放され元の生活に戻る……きっと、こいつに出会う前のように。

 だがそう言ったあとも彼女は俺の頬や髪を撫で続けた。哀しみにくれる幼子をあやすように、その一つ一つを、記憶するように。

「最後にお願いしてもいい?」
「……おう、」

 彼女が俺に触れる度愛おしそうに笑うから、俺はその顔を見ていられなくて視線を長い間過ごし、俺の、俺たちの欠片がいくつも落ちている部屋を他人事のように見ていた。

「一回でいいから、抱き締めて」
「…」

 ゆっくりと視線を彼女へと向ければ、だめかな……なんて眉を下げる彼女が痛々しくて、俺はポケットに突っ込んでいた不誠実な手を渋々外へ出し彼女へと向けた。
 それは、酷くよそよそしい抱擁だった。過ごした年月も、抱えていた想いも微塵も感じさせない、冷え切った、ただ身体を密着させるだけの行為だ。ギュッと俺の背に回された手が俺の心のような真っ黒いジャケットを握り、そして離れていった。

「ごめんね、わがまま言って」
「いや、あんたが」

 そんなもの言ったことなんてなかっただろ、そう言いかけてやめた。考えるな。もう、終わりなんだから全ては無意味だ。もう考えたくない……なにも。一歩、彼女が俺から離れるように後退する。さよならの、合図だ。俺はじゃあなって、幸せになれよって、そう言って立ち去る……つもりだった。

「レノ、」

 開け放ったカーテンから入り込む月明かりを背景に、彼女が最後の言葉を紡ぐべく息を吐く。

……眩し、

 その光に思わず顔を顰めた。まるで闇の中に浮かぶ月のように眩しくて、目を細めて、俺は、

「好き、だったよ」

 息が、止まった。ハッとして、目を見開いて、俺はようやくその溢れる涙に思考を動かし始めた。

くそ……っ

 抱きしめたかった。力の限り。奥歯を噛み締めて、震える腕で、大事そうに、きつく、強く。ごめん、ごめんな。そう、何度も言って。だけど俺の手はそいつに伸ばしたまま宙を漂った。言わなきゃいけない、こいつには。あの七番街プレートを落としたのは俺だって、何万もの人を殺したのは俺だって、俺のこの手はあの日──あんたを殺そうとしたんだ、って。

「っ、」

 抱き締めることも、罪を告白することも、できる訳なかった。最低だ。俺はまた初めてこいつを泣かせた時みたいに自分のことしか考えてなくて、全ては俺の所為なのに、俺が無責任に愛したくせに、それなのに切り捨てて、殺しかけて、一番大事で、もう二度と泣かせたくない奴をまた泣かせた。本当、自分の救いようのなさに自嘲すら浮かばない。
 そう思ってしまえば、こいつに対し湧き上がってくる感情なんて一つだけだった。好きだ。愛してる。心で嫌と言うほど叫んだ。だからだろう、鼓膜の代わりに心臓が痛くて仕方なかった。もう終わりだって、こいつの前から消えろって、頭で何度も言葉にした。お前じゃ傷付けるだけだって、幸せになんか出来やしねえって。だけどその度に嫌だって、離したくねえって俺の中の俺が叫んで振り解かせてくれない。
 罵倒して、最低だって、人じゃないって、嫌いになって、怖がって、逃げて、逃げて、俺から遠く離れていってくれたら……よかったのにな。だけどこいつはそうしない事は分かっていた。

「忘れてくれ……っ、俺の、全部」
それしか、あんたを救ってやれない。
「レノ、」

 顔を上げられなかった。俺を呼ぶその声は諭すように優しく降り注ぎ、目の奥が湧き上がる熱さに耐えきれなくて嗚咽が漏れた。傍にいる権利も、繋ぎ止める権利も、愛する権利だって俺にはありはしない。なによりそれを、俺が許せなかった。きっとこの世界中で、俺だけは。

「今まで、ありがとう」

 ふわりと包まれた両頬。軋む床、額に触れた、柔らかな感触。目を開き揺れる視界の先には、俺の一番好きな顔で笑う、彼女がいた。

「…」

 そっと、身体が離れていく。ゆっくりと、ずっと分け合っていた体温が遠ざかっていき瞬間的に冷えていく。この部屋で枯れた花のように眩しいくらいの色彩を失った俺は、二度と会うことはないであろう彼女に背を向けた。

「愛して、悪かった」

 水分の微塵もない、掠れた声だった。捨て去って、なかったことにして、いつもみたいに笑っててくれ。俺のいない世界で、どうか、幸せに。

「……──」

 扉が閉まる刹那呟かれた言葉は、俺の空虚に満たされた心に届くことはなかった。





 くしゃりと、だらしなく垂れた前髪を掴んだ。

「……そんなこと言ってもらえる人間じゃねえんだよ、俺は」

 何度も見る最後の日の夢。目覚めた後に残るのはいつだってそんな罪悪感だった。

「仕事、行かなきゃな」

 そう思うのに身体はあの日から酷く重く、なかなか言うことを聞いてはくれない。自分の部屋なのに他人行儀なそこでは息がしづらい。いや、きっと元に戻っただけだ。だけど酸素の濃い世界に長く居すぎたせいで、あいつがいない世界では、帰る場所を失った俺は、きっともう、上手く呼吸なんか出来やしないんだろう。
 ゆっくりと目を閉じる。水の中を落ちていく感覚。俺から溢れる気泡は光の彼方に消えていく。それに手を伸ばす権利は、俺にはない。這い上がることもなくただ、落ちていく。深く暗い、花も咲かないような深淵へと。
 これでいい、これでいいんだ。俺は、あいつを殺しかけた罪を抱えたまま、タークスとして誇りに書き換えた罪を背負って生きていく。例え側から見たら極悪人だろうとも構わない。だけど、俺にとって眩しすぎるあいつを巻き込むわけにはいかない。なんでもっと早く、気付かなかったんだろうな。
 御伽噺の世界に自分が迷い込んでいたことにも気付かずに、見失って、見えなくなって、そして……見えてしまった物にこんなにも苛まれる日が来るとは思ってなかった。やっぱり知るんじゃなかった。堪えらんねえよ、未完成な、俺には。
 汚れた手の平は一つのものしか掴めず、俺がタークスを捨てることなんか出来るわけない。恋なんて、愛なんて、俺には眩しすぎたんだ。





 燃えていた。目の前に迫り来る隕石は毎秒確実に俺たちの星に近付き、全てを無に返そうとしているようだった。住民の避難に翻弄し走る。全く、俺たちの仕事は支離滅裂だ、と心が自嘲した。だけど明らかに手が回らない中で現れた懐かしい連中の登場に安堵した。ザッと並んだダークスーツは書類上は死んだやつしかいない。俺たちタークスは、総務部調査課は、そういう所だ。

「やっぱりお仲間は楽でいいぞ、と」

 そんな連中と共にやるべき事を終え、あとは行く末を見守るだけになったそこで、赤黒く染まる景色を見つめ呟いた。考えることも感覚も、背負っちまったもんも同じ奴らといるということは余計な事を考えずに済むって事だ。やるべき事をただやる。無駄な気遣いも配慮もなければ、感情を激しく揺さぶられることも、ありはしない。

「そうだな。まぁお前は俺たちに逃げてるだけだと思うが」
「……どういう意味だよ」

 遠回しだろうとも俺と行動を共にしていたルードが何を言いたいのかが分かって、思わず顔を顰めた。

「タークスのエースも大したことないな」
「おいおい、世界が終わるかもって時に喧嘩売るなよ、と」

 冗談めかしてハッと笑ったが、内心穏やかじゃなかった。苛立ちが思わず行動に現れ俺はポケットに手を突っ込み二、三、その場で足踏みをした。なら俺は、どうしたら良かったんだよ。

「終わるかもしれないから、だろう」

 ルードは更に俺の傷を抉るように言葉を重ねた。ちら、とその顔を見れば、先ほどまで俺を焚き付けるように笑っていた顔がサングラス越しでも分かるくらい真剣味を帯びていて舌打ちを漏らす。どうやらこいつはこの話題をあやふやなまま終わらせる気はないらしい。

「……俺には抱えらんねえ。ただそれだけだ。あんたなら出来ちまうのかも知れないけどな」
「お前にだって同じ数の腕がある」
「技量の話だよ」

 俺の言葉にルードは「分かってる」と頷く。やっぱりその瞳は俺に一つの答えを見つけろと訴えていた。余計なお世話だ。もういい。俺たちは、終わったんだ。住民を避難させたって空に浮かんだ隕石が落ちてくりゃそれこそ何もかも終わる。あいつを想えば、それすら望んでしまう俺がいる辺り、未練がましい自分が本当に嫌になりそうだった。

「もう一つくらい抱えたってバチは当たらないだろう」
「……でも俺は、あいつを殺そうとしたんだぞ」

 大事だった。好きだった。きっと、今も。それなのに俺は、タークスである俺はあの日にそんな自分の感情すら当たり前かのように捨てた。捨ててしまえた。考えることを放棄して、楽な方を選んだ。そして、またあいつを傷付けた。それが俺にはどうしても許せないんだ。もう二度と、あいつを苦しめたくはねえんだよ。

「あいつを俺たちの世界に巻き込むわけにはいかない」
「確かに、そうかもしれないな。だが言っただろ、相棒」

 ようやくルードが肩を竦めフッと笑う。ヘリポートで見たルードと、同じ顔をそいつはしていた。

「彼女に聞いてみろ」
「……でも俺は」

 ヘリの時、七番街プレートを落とす間際に浮かんだ冷たい瞳を思い出す。実際彼女にあんな目で見られたら、生きていけない。タークスですら嫌いになっちまうかもしれねえ。御託を散々並べたが、俺は、怖いんだ。全てを受け入れちまうあいつに、いつか拒絶されるその日が。

「厄介だな。誰かを想うのは」
「…」
「だがそれが、誰かと生きていくということだと、俺は思う」

 本当、嫌になる。一人でいれば考えずに済むのに、世界中にいる人間の大抵は誰かといることを望む。それが面倒事の類で悩みも尽きないはずなのに、それでも人は恋をする。誰かを、愛してしまうんだ。

「お前は、どうしたいんだ?」
「俺は、」
「いや、彼女はどうしたかったんだろうな」

 ルードの言葉に死んだように生きていた瞳がゆっくりと開いていく。瞬時に浮かんだのは最後の日のあいつで、

『……忘れないよ』

 扉が閉まる瞬間の呟きが今更俺の脳に響く。

「っ、」

 馬鹿だ。俺は、本当に。救いようもないくらい大馬鹿野郎だ。なんで俺は、あいつといたのに、全部、全部独りよがりだった。あいつの声を聞こうとしなかった。あいつが全て受け入れてくれることに甘えて、それがあいつの為なんて全部勝手に決めつけて、逃げた。なにが俺たちはだ。俺の中で終わらせていたに過ぎない。全部、全部、俺が情けないせいで……

「悪いルード、あと頼む」
「ふ、相棒の頼みなら仕方ないな」

 本当、持つべきは理解ある相棒、だ。そんなことを再度確認して、俺は走り出した。



 静かだった。その殺伐とした風景に俺一人がこの世界に取り残されてしまった感覚すら浮かぶくらいには。ミッドガルの住人は俺たちタークスによって須く避難したはずだから当然だ。俺が向かおうとしている先だってもぬけの殻だろう。それでも、俺が向かう場所はあの家しかなかった。
 仮にあいつがもう俺なんか必要としてなくて、俺の顔なんて見たくないと言うならもう仕方がない。そん時は潔く諦めてやる。……否、きっとめちゃくちゃへこむし死にたくなるかもしれない。だけど、もし、もしもまだ間に合うなら、あいつがこんな俺でもいいと言ってくれるなら、俺は、もう間違わないって誓う。なんでも一人で決めちまう事もやめる。だって恋は、愛は、一人じゃ出来ないんだから。
 なんでそんな簡単で当たり前のことに気付かなかったんだ。好きで仕方ないあいつの気持ちを、蔑ろにしちまったんだよ。許してくれなんて今更言えない。だけど、謝らせてくれ。あと願わくば──好きだって、言わせて欲しい。




「…」

 散々通い、くぐり慣れたはずのその扉は、やたらと他人行儀だった。勢いよくここまで来たものの、やはり自分がしたことを考えれば躊躇いが俺の中で疼く。スラックスから取り出したずっとしまいっぱなしだったこの部屋へのパスは、俺の戒めだった。思い出なんて呼ぶには色褪せない想いに何度打ちひしがれたか分からない。それでも捨てようと、手放そうと思ったことは一度もなかった。忘れちゃいけない。忘れたくなんか、なかったから。
 ふと背後に広がる殺伐とした景色に目をやった。星の終わりを予感させるような、禍々しい色に染まる静かな街を。世界がこんなになってるってのに、あいつがここにまだいる可能性は限りなく低いだろう。だけど、そう視線を戻し俺はそのパスを小さな鍵穴に差し込んだ。
 かちゃり、と俺の侵入を許す音が響いて僅かにホッとした。俺たちが離れてからそれなりの時間が経つ。引っ越した可能性だってあったし、この鍵を俺が持ってることによってあいつが鍵を変えている可能性だってあった。ゆっくりとその扉を引けば、懐かしい香りが俺の胸を締め付け目を細めた。あいつの、匂いだ。途端に湧き上がる愛おしさに眩暈さえ起こしそうだった。

 玄関から見たそこは何も変わっちゃいなかった。物音のしない室内にやはりあいつも避難したんだと思えば、残念さよりも安堵が勝った。

報い、か

 告げられず終わるかもしれない世界にそんなことを思った。折角決意してここまで来たというのに、どうやらいるのかも分からない神は俺を完全に嫌っちまったらしい。当然か。俺はきっと、それだけのことを、したのだろうから。
 一歩、二歩、噛み締めながら奥へと進んでいく。おかえりも、お疲れ様も聞こえては来ない。廊下を進み右手に広がるキッチンにも、ご飯食べた? と首を傾げる彼女はいない。だけど、少なくとも今日の朝まではここにいたであろう彼女の面影はどれも優しく、俺に笑いかけた。彼女の髪を揺らすため風を迎え入れるカーテンと窓、テーブルに置かれたままのあいつがあの頃も使っていたマグカップ。そして、俺たちが体温を分かち合っていたベッド──

「──……あんた、」

 に、目をやれば、壁にピッタリと張り付き息を顰めた、彼女がいた。

「なに、やってんだ」

 幻でも見たかのように目を見開いた俺たちの視線がぶつかり、息を呑んだ。声は辛うじて震えてはいなかった、と思う。声にならない彼女の唇が俺の名前を形どり僅かに動く。なんで、ミッドガル住民には避難勧告を出していた。だから俺たちはその誘導に右往左往し、駆けずり回っていた。星が終わりかけていることは、誰もが感づいていたはずだ。それでも逃げない奴は確かに一定数いた。だけどそいつらは、そいつらは──

「!」

 地面が揺れた。轟くようなその地響きは無遠慮に脳に直接叩き込まれ、そのあまりにも世界の終わりに相応しい音にこめかみに嫌でも汗が伝う。断続的な揺れが収まる間もなく、ぐらり、と一際大きな揺れに身体が持っていかれそうになるのを堪えるのに精一杯だった。ちらりと見た少し先の彼女は壁に手を付きながらも必死にそれに耐えていた。

「ッ!……なんだよ、これ」

 どうにか一歩踏み出そうと思案した刹那、けたたましい音を立て窓をぶち破って淡いグリーンの光が勢いよく部屋に駆け込み、目を見開く。
 それは瞬く間に部屋中に広がった。が、まるでここを通過点としているかのように蛇行しながらも、確かな意思を持って玄関の方へと抜けていく。吹き抜けとなった窓からはその光が街を覆い尽くすように蔓延っていた。それが魔晄、星の命であることはすぐに分かった。街の破片を巻き込み上昇するそれはまるで、これまでの代償を掻っ攫うように、これがお前らの罪だとでも叫んでいるかのように、俺には見えた。

「!」

 そんな神秘的な絶望の光景に呆けていると、ガシャン! と甲高い音がして視線と意識を直ぐさま部屋の中へと戻し、息を呑んだ。彼女の足元には花瓶だったものが落ちている。音の正体は明らかにそれだ。だが俺の驚きは、そんなところにあったわけじゃない。
 大半の光が外へと駆けていったが、俺の周りにも僅かな星の命が纏わり付いている。俺はそれに、暖かささえ感じた。だけど、

なんだ……?

 一歩、踏み込もうとしたが本能がそれを制した。彼女の周りを蠢くそれは同じモノのはずなのに、そう例えてしまうほど黒く濁り、澱んでいた。まるで彼女の何かに、反応するかのように。いや、それよりも他に違和感があった。もっと重要で、重大な、

「まさか、あんた」

 見据えた彼女の瞳は、今日何度か見て来たモノと同じだった。こいつと同じように逃げない奴は口を揃えてこう言った。──ここで死にたい、と。
 どこに行ったとしたってもう助からない。なら、自分の望む場所で最期を迎えたいと、そう言っていた。まだ分かんねえだろ。いいから逃げろ。面識のない俺たちの陳腐な言葉はそいつらには微塵も届きはしなかった。生への執着を、諦めた瞳。俺を見つめ微笑むその顔は、まさにそれだった。

「もういいの」

 静かな、凪いだ湖のような声だった。ギリッと俺の歯を食いしばる音が脳に響く。なんで、なんでだよ。

「…」

 彼女へと伸ばした手が血塗れで、俺は思わずその動きを止めた。目を閉じ被りを振って見た自分の手に赤はない。だけど、やっぱり俺の手は赤く汚れているんだ。グッとその手を強く握った。情けねえ。まだビビってる。だけど、言わなきゃ。

「七番街を落としたのは、俺だ」

 たくさんの人間が上にも下にもいると知ってて、あんたがそこにいると知ってて、俺は、それでも仕事をした。正しかったなんて思っちゃいない。だけど、これが事実だ。

「俺は、あんたを殺しかけた」

──悪かった。そう、真っ直ぐに彼女を見つめた。謝って済む問題じゃないことも許されるとも思っていない。これは懺悔だ。軽蔑されても仕方がない。

「それでも俺は、あんたといたい」

 なんて自分勝手だと思われても仕方がない。だけどこれはもう、隠さない。偽らない。そう思って俺は、この場所に来たのだから。

 硬く結んだ手を解いて、一歩踏み出した。だからどうか、今も手を取ってくれ。

「ごめん、レノ」

 ピタリと、俺の足が止まった。それは、こいつが初めて俺に向けた、否定だった。グッと彼女が胸の辺りで組んでいた手に力を込めた。そして、そこにはあるものに俺の瞼はゆっくりと大きく開いていく。あまりにも小さくて気付かなかった。彼女の手には、その欠片みたいになったあの日枯れた花の茎が、大事そうに握られていた。

 それはこいつにも俺への未練があることの証だ。なのに、彼女はなんで。思考が読めず困惑した俺に、そいつはあの日、俺の別れの言葉を受け入れた時と同じ笑みを見せた。諦めと、全てを受け入れる笑み。だけど今回諦めたのは生で、受け入れたのは、きっと死だ。納得いかねえ。勝手に諦めんな、受け入れんな。言葉は全部自分に返って来て心臓が痛む。だけど……そうか、これを俺たちは怠ったのか。スッと、上りかけた肩の力が抜けた。

「理由を、教えてくれ」

 彼女の瞳が僅かに見開く。そりゃそうだ。俺たちはぶつかる壁を壊そうとせず、ずっと見て見ぬ振りをするか、逃げることしかしなかった。だけどそれじゃダメなんだよ。ずっと一緒に、いるためには。

 彼女は俯き言葉を渋った。その眉間には微かに皺が寄っている。……あれだけ一緒にいたというのに、初めて見る表情だった。

「……私が、私の存在がレノを苦しめるなら」

 最後の日の彼女の顔が脳裏を過ぎる。あんなことがあったのに変わらず接するこいつに、貼り付けた笑みをした時の一瞬の違和感。疲弊しきった俺の顔を撫でた、冷たい指。ああ、くそ。俺は一体、こいつのなにを見てたっていうんだ。

「消えちゃいたいの」

 こんな風に、悲しく笑わせるために俺は、こいつに想いを告げたわけじゃなかったのに。

「!」

 手を伸ばした。淀む星の命なんて構わず、目を見開く彼女へと向かって。頭を俺の胸に押し付けて、背中を抱き寄せて、最後の日のただ触れるだけの抱擁じゃなく、強く、強く、抱き締めた。あんたが好きだと、伝わるように。

「俺は、あんたに苦しめられるならいい」
「!」

 そうだ。あんたの為なら、あんたの事なら幾らでも悩んでやる。傷付けられてボロボロにされたって、それがあんたなら全部受け入れてやる。あんたがずっと、そうしてくれたように。

「我が儘だって聞く。だから、そんな風に無理して笑うな」
「……っ、私は」

 彼女の震えた声も、初めて聞いた。腕の中の彼女の腕がゆっくりと上昇し、俺の背に回される。そしてギュッと、縋るように俺のジャケットを握った。震える喉を堪えるように歯を食いしばる気配がして、その背を上から下へと手を這わせる。何度も、何度も、俺たちが互いに伝えきれていないモノが、伝わるように。

「レノの彼女になる時、決めたの。何があっても受け入れようって、笑って……いようって……っ」

 調査課は暗部だ。闇だ。非人道的な事だって仕事だと言われればやる。タークス、なんてならず者の肩書きが付くくらいにはその内容は認知されてる。それをこいつは分かった上で、理解した上で、それでもそんな覚悟を持って俺の告白に頷いた。……知らなかった。だから、自分が死にかけたって、俺が……別れを告げたってこいつは笑ってた。湧き上がったのは、やっぱり罪悪感だ。俺はこいつのそんな覚悟を知らずに、自分の感情だけを押し付けて、こいつを振り回してた。馬鹿だな、俺は。いや、俺たちは。

「もう、そんな必要ねえよ」

 あまりにも俺たちは未完成で、愛なんてものを履き違えてた。ぶつかり合わなきゃ、言葉にしなきゃ伝わらないモノの方が世の中には多いというのに。

「全部言ってくれよ。あんたの不満も不安も、願いも、」

 叶えてやりたい。傍にいて、喜びだけじゃなくて悲しみも、全部、全部分かち合いたいんだ。

『だがそれが、誰かと生きていくということだと、俺は思う』

 ああ、その通りだ相棒。あんたは間違っちゃいない。さすが、俺の相棒だぞ、と。そうだよな。今なら分かる気がする。俺はこいつに恋をして、触れたくて、知りたくて、傍にいたくて、離れたくなくて。でも俺は、こいつをいつの間にか愛していた。それに目を向けるのが怖くてあまりにも似合わない単語を拒絶して、苦しんで、でも、それでもやっと……答えを見つけた。

 その頬を撫でれば、笑みのない滲む瞳と目が合った。やっぱり好きだって思って、こいつを見つけた瞬間から微塵も色褪せない自分の想いに苦笑した。きらきら、きらきら、いつの間にか濁りを無くした暖かな光が、彼女の瞳に反射して眩しい。だけど今度は逸らさない。もう、迷わない。──だから、願わくば、

「あんたの全部を、俺にくれよ」

 もうあんたを離さないと誓わせてくれ。絶対泣かせない自信なんてないしあんたに辛い思いをさせることもあるかもしれない。また、傷付けちまうことだってあるかもしれない。先の時間を考えればそれが現実的だ。夢や理想だけじゃ他人が一緒にいるなんて無理なことを身を持って理解してしまった。だけど、今度はちゃんと全て話そう。そうすれば大丈夫だ。こんな俺だけど……あんたとなら、そう思えるんだよ。

「ずっと、俺のそばにいてくれ」
「……っ、」

 彼女の顔が歪んで、俺を見つめたままの瞳から涙が止めどなく溢れた。やべえ、もう泣かせちまった。いくらなんでも早すぎる。だけど、知ってる。これは、悲しみの涙じゃないってことくらい。

「泣け泣け。そんなあんたも、俺は愛してんだぞ、と」
「……っばか」
「おおっと、それは流石に予想外だな」

 彼女から出た悪態にけらけら笑って、まだまだ途切れそうにない涙ごと頬を包み掬う。ちゅ、とその瞼に口付けて、笑った。

「で、返事は?」

 その問いに彼女も笑った。ずっと大切そうに握っていた欠片をそのままに、彼女の柔らかい掌が俺の頬を包み返し、俺たちの額が重なる。枯れたはずのその花の代わりに触れた俺の髪が、まるで俺たちの間で赤い花を咲かせたみたいだった。

「はい」

 それは、俺たちの始まりの音と同じだった。今度はすんなり飲み込んだ言葉の後、やっぱり俺たちはキスをした。優しくて甘い、いつか食べたクリームのような、溶けてしまいそうな口づけを。

「おかえり、レノ」
「!」

 唇を離した僅か三センチの距離で鼻先が擦れ合う。擽ったそうに笑う顔は、俺が一番好きな、こいつの表情だ。それに鼻の奥がツンとなって、引き寄せる手の平が微かに震えた。

「ああ、ただいま……っ」

もう聞くことはないと思ってた。言えるなんて思ってなかった。きっと、たったこれだけの言葉に、こんなにも満たされる瞬間が来ることも。

「あともう一つ、レノに言ってなかったことがあるの」
「……なんだよ」

 気付けば星の命は本来あるべき場所に戻ったみたいだった。まるで、役目は終えたとでもいうように。そう、世界は、これからも続いていく。俺たち二人を、乗せたまま。

「私ね、あの日、レノに腕を掴まれたよりもずっと前から……あなたのこと──」






枯れたアネモネの色付く頃に