もはや痛覚なんてものは存在していなかった。ただ行かなければという意識の元に進む足は、ちゃんと地面を踏みしめているだろうか。誰か生きて──彼女はまだ、息をしているだろうか。



「別れの言葉は必要か?」

 呪詛師や呪霊の襲来が途絶えて丸一日。私たちは口に出さずとも始まっていたカウントダウンが、限りなくゼロに近付いていることを悟っていた。そしてその晩、一本の電話が入った。渋谷を中心に下された大規模な帳。それ故の緊急招集。電話を切った私に、彼女はティーカップに口を付けながらそう言った。

「どうせすぐ会えますよ」
「そうだな」

 あの世で、とは目前になりつつある死に対して冗談は口を出なかった。身支度に入った私にも、彼女は視線を手にしていた分厚いハードカバーの本から上げることはない。実に彼女らしい。それが私の心をも、風ひとつ吹いていない水面のように穏やかにしていた。
 もう時期死ぬと言われたが今日であるという確証はない。明日か、明後日か、一週間後か。だがきっと一人ではこの家から出れない彼女は、私が出た瞬間にその首を刎ねられるかも知れない。上層部はそれも分かった上で、私にも召集をかけている。そのことを、彼女自身だって分かっているだろう。

「なるべく早く帰ってきます。なのであなたは襲撃が来た際には隠れて……なぜ笑うんです」

 キュッとネクタイを締めながらそう言えば、彼女が肩を震わせるから、なにもおかしなことを言ったつもりのない私の眉間には自ずとシワが寄った。

「いやすまない。君はまだここに帰ってくる気なんだと思ってね」

 でも、と彼女は続ける。その瞳は静かに言葉を噛み締めているようだった。

「そうか、君が帰ってくるなら今晩の食事は私が用意しておこう」
「後片付けが大変そうなのでやめてください」
「大丈夫。きっと食っても腹が壊れる程度だ」
「失敗前提じゃないですか」
「全ての成功は数多の失敗上にあるものだぞ」
「はぁ、では私は胃薬を買って来ます」

 それがいい、と彼女は組んでいた足を解いて本を閉じた。外から見たらパステルカラーの重厚な玄関に向かう私のあとを、彼女も静かについてくる。どうやら見送りをしてくれるつもりらしい。

「大丈夫ですか」
「誰にものを言ってる。君がいない数時間くらい堕天使にでも守ってもらうさ」
「それは私の仕事なので自分でどうにかしてください」
「ふふ、君がそう言うなら善処しようか」

 ──七海建人、と彼女が私の名前を呼ぶ。手に掛けたドアノブから手を離し振り返れば、私たちの視線が交差した。分かってる。決められた未来はもう、きっと用意されている。だけど私たちの瞳は、その先を信じたいと、願っていた。

「必ず帰って来いよ」
「もちろんです」



──彼女は毎晩、こんな風景を見ていたのか。
 破壊された駅構内。徘徊する呪霊の中には人間だったものも多くいた。その他は屍だ。一般人、行く道に点々と倒れ込んでいる見知った顔。

帰らなければ

 半身を焼かれ朦朧とする意識の中で浮かんだものは、守れそうにない彼女との約束だった。半分しかない視界に数えるのも面倒なほどの呪霊が映り、天を仰いで息を吐く。

「マレーシア……そうだな、マレーシア……クアンタンがいい」

 なんでもない海辺に家を建てよう。海外ならば呪霊も呪詛師も少なく彼女も安心して暮らせるだろう。ずっとあの家にこもっていた彼女は、青く広がる広大な海にまた眩しいくらい瞳を輝かせるに違いない。休みの日は買うだけ買って手を付けていない本を読んで、彼女のためにキッチンに立とう。そしてなんでもない毎日を送る。そんな生活を、私は──

「……いたんですか」
「いたよ、ずっとね」

 失いかけた意識を、胸に当てられた“死”が現実に引き戻す。──すみません、と直接言えそうにない謝罪を心でひとりごちる。真っ白に染まる世界に現れたかつての同期は、ただ、静かに微笑んでいた。
 終わりだ。そう思った。この私の胸に手を当てたツギハギ呪霊の領域展開に飲まれた時、私は悔いはないと思った。そして今は……せめて、私の願いが叶わないならば、彼女だけでも。

「!」

 ぐっと、腹部に背後から何かが巻き付いた。死が私から離れ、瞠目した私と呪霊の瞳がそれが何かを確かめようと視線をやる。

「君の言う通り私の力は私たちを引き合わせたのかもしれない。だが結果、私は役立たずだった」

 見開いた瞳が、聞こえて来た声にさらに大きく開かれていく。どうして、彼女がここに。傾く身体は確かな体温を感じ、緩やかに導かれるように倒れていく。頭に浮かんだ疑問は、なに一つ音にはならなかった。

「だけど世界は救えなくとも君のクソみたいな運命を変えられたらもう十分だ。それに、」

 きらりと、視界の片隅で鮮烈な光が走った。──ああ、やっぱりよく似合っている。被っていたローブが勢いに背後へと流れ、その勝気な笑みを携えた人を私の瞳に映し出す。

「たった一人の友人の未来は、私の手で変えたい!」

 彼女が何かを手にし振り落とすのと、鉢合わせた虎杖くんの私を呼ぶ声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。


 ◇


「おい…っ…七海建人! ちゃんと守れ! 君が自分の仕事だと言ったんだろう!」
「ッ、あなたって人は……! なんて無茶を!」

 私と呪霊の間で起きた爆発により崩落した足場の底で、痛む全身を震わせながらも上体を上げた。咄嗟に庇うように抱き竦めた彼女は、文句を言いながら顔を上げ、なぜか私の顔を見た瞬間キョトンとする。

「なんです。そんな間抜けな顔して」
「失礼だな。というか、君は誰だ?」
「は? 誰って今私の名前、」
「言った……な。いやなんとなくそう叫びたくなってだな」

 ああ、と思わず瞳を閉じた。彼女はここに来るまでの間に多くの記憶を失い、そして最後、虎杖くんを見てほんのひと握りだけあったものさえも失った。だから私と送った数週間も、ただ一人過ごして来た多くの時間も、全て、消えてしまったんだ。

「まぁでも、なんとかなるだろう」

 そう言い服に付いた汚れを叩きながら立ち上がった彼女を見上げる。何を言ってるんだ。きっと私はそんな顔をしていたに違いない。だけど、彼女は腰に手を当て私を見下ろした。

「よく分からないが、呪いから開放された気分だしな!」
「!」

 そう、曇りのない空に浮かぶ太陽のように、彼女は笑った。そして「なんだこの鬱陶しいローブは」と、生命線を脱ぎ捨てた。瓦礫の上に無造作に舞い降りたそれは、役目は終えたと言わんばかりに息絶えている。まるで、死ぬはずだった彼女の代わりのように。いや、或いは初めから──

「君はいつまでそうしてるつもりだ? ああ、怪我をしているのか。手を貸してやろう」

 すっと、私の眼前に彼女の手が差し出される。たった数時間ぶりだというのに懐かしささえ感じるその偉そうな物言いに、置かれている状況も忘れ笑みが漏れてしまった。今朝の彼女に言ってあげたい。君は決して中途半端などではなく、偉大な預言者であったと。

「ありがとうございます。ですが、まず挨拶でしょう」

 またあんな悪態吐かれても腹が立ちますし。と口角を上げる私に、彼女が首を傾げる。だが私はそのまま彼女の手を取り、ゆっくりと立ち上がった。見下ろした彼女がじっと私を見上げている。ただそれだけのことなのに、胸の奥が温かな光に包まれ、癒されていく感覚がした。

「私は七海建人。あなたの──友人です」











初めましてから始めようか。