その日はよく晴れていた。だから窓から差し込む月光が、彼女の寝顔をいつもより鮮明に浮かび上がらせている。普段の偉そうで、自信と知性に溢れ、時たま子供のように純真な彼女は、そこにはいない。
 私が彼女の護衛任務について早二週間。彼女は毎晩悪夢の中にいるようだった。お化けが怖いなんて五歳児みたいなことを言って私のベッドに滑り込むようになったあの日から、いや、それよりも前からきっと、彼女はこうして呪いのように与え続けられる夢に魘されていたのだろう。

「──……う、」
「大丈夫ですか」

 苦しげに歪められていた瞳が、ゆっくりと開いていく様にそう声をかけた。

「……なんだ、随分夜更かしだな。子守唄でも歌ってやろうか」
「鎮魂歌ですか? 生憎、私はまだ生きてますよ」

 彼女は起きた瞬間にいつもの彼女に戻る。口角を上げいつもの減らず口の彼女に、私もあえて同じように返した。彼女が寝静まったあとから始めるのが日課になっていた文庫本を閉じ、呼吸が浅くなり起き上がることも億劫そうなその顔に張り付いた髪をそっと避ける。触れた額には、じっとりと汗さえ滲んでいた。
 彼女は決して弱音を吐かない。苦しんでいた自分を認めたくないのか、掘り返されたくないのかはわからないが、こんな状態である自分の身体に気が付かない訳がなかった。だが、彼女はそのことについてなにも言わない。そして私も。だって、こうなっている原因は聞くまでもないのだから。

「近付いてる」
「日本の終わり、ですか」
「その始まりがな」

 すまない、水をくれるか。と言いながら私と同じようにヘッドボードに背を預けた彼女に、サイドテーブルにあったペットボトルの水を蓋を開けて彼女に差し出す。一つ礼を言った彼女はほんの少しのそれを口に含み、喉が鳴りもしないくらいそっと飲み込んでは、細く息を吐いた。

「段々色だけが濃くなっていく。様々なものが入り混じった黒に、血の赤。鉄錆と人の焦げるような匂い。全ての人間が胴体の一部しか見えない。それ以外は全部、死んでる」

 コツン、と天を仰いだ頭部が壁にぶつかり鈍い音を立てる。だけど彼女はそのままの体勢でゆっくり目を閉じた。

「君も、そこにいたよ」
「顔も見えないのに分かったんですか」
「そりゃあな、動きの癖とか格好とか、その本人を認識するのは顔だけじゃないだろう」

 それもそうか、ともう飲む気配のない彼女の手から水を奪い蓋をした。私は、そこで死ぬのだろうか。その時なにを思い、なにを考え、誰に想いを馳せるのだろう。
 先日、敵の領域展開に飲み込まれ死を覚悟はしたが悔いはないと思った。……だが今は、何か違いがあるのか。それはきっと、その時になってみなければわからないのだろうと思った。

「私の能力は本当に中途半端だな」

 その珍しく自虐的な言葉とは裏腹に、その声はやはりいつもと変わらなかった。

「あなたが極端なのでちょうどいいんじゃないですか」
「そうだよな。そこまで完璧では世界との釣り合いが取れん」
「その意気ですよ」
「なんかバカにされた気がするな」

 気のせいでしょう、と肩を竦めたが、彼女は私にペットボトルを奪われ手持ち無沙汰になった手の平をじっと見下ろしていた。変わらず口角を上げ会話をしたはずなのに、もうその瞬間にはその横顔から見えた薄く開いた唇に力はなく、瞳にも色はなかった。
 ……これが、当然の反応だと思った。毎夜見る悪夢は悲惨さを増し、尚且つ己の死さえ刻々と迫っているのを彼女はきっと感じ取っているのだろう。だが肝心の情報は得られず、生き地獄のような毎日。普通の人間ならとっくにおかしくなっているはずだ。死と隣り合わせの私たち呪術師であったって、そう毎日人の死に目に会うわけではない。彼女の身体に抱え込むそれは、想像を絶するに違いなかった。
 だが安易な同情や深追いした気遣いは振る舞いからも彼女は望んでいないように思えた。だから──

「それに、中途半端のなにがいけないんです」

 私に彼女の苦しみを理解することも被ることも出来やしない。これまで重ねて来た孤独を消すことは出来ない。──私に出来る事といえばただ一つ。彼女が強くあろうとする流れを、途絶えさせないことだけだ。

「その力のおかげで私たちは出会い、友人になれたのでしょう」

 私へと向けられた瞳が、ゆっくりと色付き大きく見開かれていく。だから、敢えて笑った。時期に来る終わりの時まで、あなたがあなたでいられるようにと。

「……君は本当、おかしな男だな」
「そうかもしれませんね。でも、あなたもですよ」
「そうかもな」

 陰鬱な感情を見せず彼女が笑い、私の肩にその頭が落ちてくる。私たちの未来に反した静かな夜は、互いの呼吸音の中に溶けていった。





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