「うぎゃああああ!!」
「!?」

 耳元で轢き殺されたカエルの声を聞いた気分だった。用意されていた部屋のベッドで寝ていた私に届いた耳を劈くようなそれは、なにを考えるでもなく反射的に私の身体を動かすには十分な威力を持っていた。彼女曰く、好きに使えと与えられたゲストルームを飛び出し、ほぼ段差を踏まずに一階へと降りて行く。油断していたわけじゃなかったが、呪霊や呪詛師の気配は感じなかった。ほんの数秒前、彼女の悲鳴が聞こえるその瞬間までは。

「!、なぜ呪霊がこんな近くに」
「ななな七海建人!!」

 昨日大部分の時間を過ごしたリビングを視界に入れれば、驚きに腰を抜かし床に座り込む彼女と、それを見つめる呪霊の姿が目に入った。彼女の手には僅かに呪力を放つ手紙が握られている。恐らく、あの呪霊はそれに吸い寄せられるように現れたのだろう。彼女の呪力を、トリガーとして。

「おいおいおいおいなんだあれは……! 昨日見たホラー映画から出てきたのか!?」
「……そんなわけないでしょう」
「ならなんだ! 半分人間みたいな形してるぞ……!」
「そうですね」

 ゴキブリのような速さで私の足元へと四つん這いで移動して来た彼女は、瞬く間に登り棒でも登るみたいに私の身体にのしかかり、肩から伸ばした腕で問題の呪霊を指さした。

「なにを呑気にしてる! 早く祓えよ呪術師!」
「そうしたいのは山々ですが、あなたが邪魔で」
「ばか言え! 一ミリでも離れたら許さないぞ! いきなり飛んでくるかもしれんだろ! あとゴキブリに例えたの謝罪しろ!」
「……はぁ、」

 バシバシと寝起きの頭を叩く彼女に心底溜め息が出た。キンキンと金切り声が脳に響いて、明らかに三級にも満たない呪霊に大騒ぎする彼女を今すぐひっペ返したい所だが、更に騒がしくなることが容易く予想された。出来ることなら耳元で鳴り響くカスタネットが、シンバルに進化するのは避けたいところである。

「ホラーが苦手ならあんなもの見なければよかったのでは?」
「一人で見れないから初めて見たんだ! あ、あんな恐ろしい……いや少しびっくりしただけだ!」

 彼女が今更強がった理由は分からなかったが、致し方なく彼女をおぶったままゆっくりと呪霊に近付いて行く。その間も「おい! 鉈はどうした!? 正気か!?」とあちこちを叩かれ引っ張られ、いい加減こめかみに青筋が浮かんだ。


 ◇


「呪霊を見たの初めてなんですか」
「……実際には。私は引きこもりだったからな」

 引きこもり。言い得て妙だが間違ってはいない。わざわざ卑下した意味はやはり分からないが、呪霊を退治し朝食を食べ始めたところでようやく落ち着いたらしい彼女は、先程までの自分の取り乱しようにバツが悪そうだった。

「次からはむやみやたらに落ちてる物を拾わないように」
「私の部屋に落ちてた物だぞ! そりゃ拾うだろ! ……まぁ、次からは気を付ける」
「よろしい」

 小鳥のような口でトーストを齧る彼女も、それなりに反省はしているらしい。まぁ余程怖かったのだろう、が、その日は一日中大変だった。
 小さな物音で伸ばし切ったメジャーのように勢いよく飛んで来るのだから、こちらとしては勘弁して欲しい。忙しい毎日に思いがけず出来た読書の時間も、当然のようにままならなくなってしまった。もちろん仕事中ということを忘れてはいないが、敵はいつ襲って来るのか分からないのだからそれまでは普通に過ごす他ない。それも、喧しい誰かさんの所為で叶ってはいないが。


 ◇


「──……ん、」

 慌ただしい一日を終え、就寝していた月の高く上がった時間。小さな気配に目を覚ました。なんだ? と寝惚け眼を凝らし、働かない頭を持ち上げその正体を確認しようとして、背中にTシャツの突っ張りを感じた。は? と過ぎった可能性を信じ難くも確かめるように向けた視線の先に、あるはずのない膨らみを見付け思わず脈拍が上がった。

「な!? に、してるんですあなたは……!」
「ね、寝れなくて……」

 ちょこんと掛け布団から出した顔は今日ずっと見てきたものと同じだった。ハァー、と盛大に息を吐き頭を抱えてベッドに沈み込めば、怒る気力もなくそのまま彼女に背を向けた。

「今日だけですよ」
「よし、一週間ね」
「あなたは……! 自分が女性だということを」
「?、知ってるに決まってるだろう」

 ダメだ。引きこもりであった彼女に俗世を説くのは些か骨が折れる。しかもこんな時間に、長丁場になり得る議題は流石に避けたい。少し上げた顔も下ろし、強引にまぶたも閉じた。寝てしまおう。そう思った。雑念に囚われてしまう前に、僅かに残っていた眠気を手繰り寄せ深く深く息をする。そうすれば意識が段々と微睡みへ返っていった……というのに、
「うわ、」だの「ぎゃっ」だの、風で窓枠が揺れる音や、湿度の変化によって軋む床に口篭った声と、驚きにビクつく肩の振動がスプリングを通じて私の身体をも微かに揺らす。再び重く長い息を吐いては、身体を反転させその小さな身体を腕の中に収めた。

「び、っくりしたじゃないか。君は一言いえないのか?」

 言えるか。心でそう悪態を吐きながらも、グッと彼女の後頭部を引き寄せた。今日散々抱き付かれたんだ。今更だろうと自分に言い聞かせながら、今度こそ寝てしまおうと固くまぶたを閉じた。神経を外に向け、なにも、考えないように。なのに、

「!」
「人ってあったかいんだな」

 背中に回った腕と、絡み付くひやりとした足に喉の奥がクッと小さな悲鳴を上げた。擦り寄った柔らかな髪は私の鎖骨を撫で、安心し切った声は一瞬にして跳ね上がった心拍をそっとなだらかにしていく。

「……あなたは、冷たいですね」
「大丈夫、まだ生きてる」
「知ってますよ」

 彼女がゆっくりと夢の中へ落ちていくのが分かった。ドクンドクン、彼女の鼓動が聞こえる。消えかけた睡魔は瞬く間に私を襲い、彼女は既に飲み込まれてしまっていた。容易く腕の中に収まってしまった彼女が女性であることに気付かされたのは私の方で、それでも死を間近に控えた友人同士である私たちは、その日、酷く穏やかな眠りについた。




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