「七海くん」

 その人の声は今でもはっきりと思い出せた。社会に出てからずっとノイズが掛かったように聞こえていた音でただ一つ、彼女の声だけは真っ直ぐ、そして鮮明に響いていた。それが何故だったのかは、凄惨な現場へ辿り着いた現在だって判りはしない。ただ一つ判る事といえば、その声が確かに今、私の耳に届いたということだけだ。

「あなたは、」

 忘れもしないその姿。あれから三年の歳月が過ぎているから、あの頃より少し髪が伸びただとか、更に落ち着いた化粧とか僅かな違いは所々に見られた。だけど、私に向ける笑みは脳裏に焼きついたままのそれと微塵も変わってなどいなくて、会社を辞め高専に戻ると決意したあの日の感情がフラッシュバックする。

 生き甲斐を選んだ私の、選ばなかったモノ。掴めなかったモノ、置いてきたモノ、忘れてしまおうと思ったモノ。──願っていた。自ら距離をおいた、私では与えられない彼女の幸せを。二度と会いたくなかった。なのに今日、望まなかった再会は、前触れもなく訪れた。もっとも、最悪な形で。



 高専を卒業し二年の空白を経て、呪術師にはならず証券会社に入社した私の指導役が彼女だった。ひとつ年上の、屈託のない笑みを浮かべる人だった。男ばかりの営業部門でも成績優秀、社長のセクハラも笑顔で躱すほどには肝が座っていて、何より、よく周りを見てはきちんと行動に移す、火の打ちどころのない人だ。きっと呪いなんて存在することすら知らず、周りに恵まれ生きて来たんだろう。そんな、第一印象だった。

『月が綺麗だよ』

 月の見える日、彼女はそう言っていつも電話を掛けてきた。仕事の電話じゃないなら切りますよ、なんて私の言葉にも、聞いているのかいないのかそのまま話を続け、気付けば長電話をしてしまうことも多くあった。

『七海くん知ってる?』
「何をですか」
『月にはウサギがいるんだよ』
「それは月の海、と言っても地球とは違い吹き出したマグマが固まって黒くなり、それが地球から見たら影のように見えているだけであってですね」
『あとウサギは寂しいと死んじゃう』
「……死にませんよ。そんな感情は人間の都合のいい解釈にすぎません」

 彼女の話は大抵実のない話で、それを本人も分かっている。その時目に映ったもの、行き交う他人の容姿や身形から職業や人間性を推測したり、足元に擦り寄った猫との会話を聞かされたり。ネットで拾った信憑性もなくくだらない、その場限りの話題ばかり。

 最初はもうすでに暗くなっているにも関わらず出歩く危機感のない彼女が家に着くまでの間、防犯も兼ねて付き合っていたに過ぎない。恐らく、お互いに。現に家の鍵を開け、外の喧騒が途絶えたところで彼女はいつも『また明日ね』と電話を切った。そういう役割なのだと理解して、そんな役割を担ってくれる男など彼女ならいくらでもいるだろうとも思っていた。それでもそんな彼女に踏み入るようなことは口にしなかった。私は呪いとも他人とも、もう深く関わりたくはなかったから。

「何してるんです、あなたは」

 残業に残業を重ね、ようやく帰路についていた私の目に見慣れた姿が映り足を止めた。深夜の公園。ベンチに座り膝を抱えるように足を上げ、背もたれに仰け反る女は側から見たらものすごく異質だ。口に咥えた煙草は彼女の視線と同じように空を見上げ、紫煙はゆらりと夜の空気に溶けていく。

「お疲れ、七海くん」
「お疲れ様です。で、どうしてこんなところにいるのに連絡してこないんです」

 危ないでしょう、と咎めるように言えば、酷く重たげにその頭を持ち上げ、歯で挟んでいた煙草を指で摘んでポケットから取り出した携帯灰皿に押し込んだ。その慣れた手付きに、煙草なんて吸っていたんだな、と人知れず思った。社内にいる時の彼女は、いつもほのかに甘い香りを纏っていたから。

「意外と心配性なんだね」
「あなたはオンオフが極端なんですよ。もう少し外でも会社にいる時のようにしっかりしてください」
「……そのための月光浴だよ」
「は?」

「知ってる?」といつものように彼女は話を始めた。

「狼男は月の光で変身する。人間の皮を破ってさ」
「それは狂犬病患者が強すぎる満月の光に対し、太陽と同じように苦痛を訴え」
「ねえ七海くん。狼の時と人間の時、もしまともなのが狼の方だったなら、君はどうする?」

 彼女は正解や真相を求めていない。それは随分前に察していた。だが彼女のいう空想とも哲学とも取れる言葉に、私の想像力は働こうとはしない。それは自分の中にある言葉を探す行為であり、記憶を、経験を掘り起こす行為になる。そうなれば嫌でも高専時代の時間が蘇り、あの日の喪失感がまるで今朝の出来事のように浮かんでしまう。

 忘れたいわけじゃない。だけど今はまだ、目を逸さなければ自分を保っていられなかった。その点知識はその辺に転がっているものだから楽でいい。まぁ、いつも彼女に言葉を遮られてしまうのだが。

「なーんてね。気にしないで、もうすぐ帰るし心配しなくていいよ」

 タクシー呼ぶし、と笑う彼女に「そうですか」と返して、なら、とその場を後にした。「また明日ね」と聞こえた声に歩きながら会釈をして、公園の出口に差し掛かる。いつもと同じだ。声も、抑揚も、電話越しに聞いていたものと変わらない。だけど、彼女はいつもあんな、生気のない表情をしていたのだろうかと疑問が浮かんだ。

「……私には関係ないだろ」

 頭に浮かんだ考えと、視線の合わなかった彼女の顔を被りを振ってそこから追い出した。気にするな、関わるな、もう誰とも。あんな思いを、二度としないために。

「!」

 そう、思ったのに。私は二つの缶を持って彼女の横に腰掛け、間に如何にも甘そうな飲み物を置いた。またしても天を仰いでいた彼女は驚いたように顔を上げ瞬かせた瞳をこちらに向けていたが、その視線を交えることは出来ず自分用に買った缶コーヒーに視線を落とした。自分でも、なぜこんなことをしているのか、分からなかった。

「ミルクティーにはリラックス効果があります。さらには紅茶の茶葉には抗菌殺菌効果があり」
「ありがと、七海くん」
「……いえ、女性一人置いて行くのが憚られただけです。あと、先程の答えですが」

「ん?」と彼女が首を傾げるから、「狼男の話です」と短く告げれば、彼女は「ああ、」と口の端から息を漏らした。そんなこと言ったな、というよりは、つい零れてしまった言葉に対する自嘲のように、私には聞こえた。

「どうもしません。狼がまともで、人間が異常だったとしたって、その人であることは変わりありませんから」
「…」
「ただ、一般的に言えば狼がまともということはありませんし、残念なことに異常な人間は腐るほどいる。ですが狼になって好転するか、と言われれば疑問ですね。結局それは他人か、もしくは自分を苦しめる結果になる」

 狼男が満月に向かって吠えるのは、抱えきれない苦痛を叫んでいるにすぎない。敏感になる五感に耐えきれず、月の光でさえも呪いたくなる。真相はともかく、月光により狼になる都市伝説のもと彼女がなぜ月光浴をするのか。聞くべきでは、ないんだろうな。踏み込むべきじゃない。分かってる。だけど、綴り出した筆は止まってはくれなかった。だって私は──

「それでも狼になりたいのなら止めませんが、せめてその時は声を掛けてください。あなたは女性なんですから」

 こんな深夜にひと気のない公園にいるべきじゃないと、一息に言った。彼女の顔は、見れなかった。そんな私を、彼女の声が呼ぶ。気は進まなかったが無視するわけにもいかず、あれこれ言ってしまった気まずさを引き連れて顔を上げ、私は息を呑んだ。その横顔は見たこともないくらい穏やかに微笑み、吸収した光を、溢れんばかりに放っていた。

「月が綺麗だよ」
「そう、ですね」

 彼女は促すように視線を遥か彼方、広大な宇宙に浮かぶ天体に向ける。確かに綺麗だった。そんな感情が初めてだと思うくらいには。隣で輝く月から目が離せない。……ああ、やっぱり来るべきじゃなかった。そんな後悔はもはや無意味だった。だってそれは気付けば落ちているものだ。落ちようと思って落ちるモノなどいない。抗いようのない胸の奥深くにある厄介な感情に心で舌打ちをした。──だって私はもうとっくに、彼女に惹かれていたから。



「あれ、七海くん。久しぶり」
「久しぶりって、昨日も電話で話したじゃないですか」

 コンビニによく食べていたパンがなくなってしまい、仕方なく会社から少し歩いた場所にあるパン屋へと初めて足を運んだ。その店から出て足を止めていると、前方から端末越しではない聞き慣れた声がして溜め息混じりにそう言った。が、彼女は「会うのは久しぶりでしょ」と笑った。

 先月、彼女には部署移動の通達が下り、会社で会うことはめっきり減っていた。接点も薄れたことだから連絡もなくなるだろうと思ったその日に掛かって来たいつも通りの電話に、安堵した気持ちは気付かない振りをした。

「店覗いてたけど……なになに、七海くんああいう子がタイプ?」
「後輩を茶化して遊ばないでください。ただ次は何を買おうかと考えていただけです」

 私の肩越し、背伸びして覗いた店内にいる店主を見ていたのがバレていたらしいが、そう言って誤魔化した。店主の肩に乗った蠅頭を見ていたなんて言ったって信じてもらえない上に、呪いなんて見えない人間からしたら頭のおかしな戯言にしかならない。七海くんもそんな冗談言うんだね、とケラケラ笑われるのが容易く想像出来た。そんな彼女の話以上に実りのないことを、わざわざ言う必要はない。

「意外と食いしん坊なんだね。でもここには私よく来るんだけど、どのパンも美味しいよ。あ、そうだ。ちょっと待ってて」
「は?」
「私も買って来るから一緒に食べよ。パンも特別に齧らせてあげる」
「あ、ちょっと私は一人で……」

 名案だとでも言いたげに口角を上げ、カランカランと扉に取り付けられたベルを鳴らして店内へと消えてしまった彼女と、断りを入れるため上げたはいいが引き止められず行き場を失くした腕にひとつ溜め息を吐く。

「さすがに買いすぎちゃったな」
「自覚があって何よりです」

 私よりも食べないであろう彼女の手に抱えられた紙袋にはたくさんのパンが入っていた。公園のベンチに座り、そう切り出した彼女は私との間に次々と買ったばかりのパンを並べては、ひとつひとつこれは塩気と酸味のバランスがいいとか、こっちは黒胡椒が効いているとか、聞いてもいない説明を始めた。

「……ではこれをいただきます」
「あ、それね。私週に三回は食べるよ」
「ならこっちにしておきます」
「いいのいいの、遠慮せず食べて。私の一押し」

 お金を渡そうとしたがもちろん受け取ってもらえるわけもなく、「いただきます」と断り食べたパンは、一押しとだけあって確かに美味かった。隣でその無言の反応を見ていた彼女は、ただ満足げにひとつ笑って自分も手にしたパンに齧り付いた。

──昼下がり、電話ではよく喋る彼女が黙って、でも楽しそうに食事をする姿に胸に横たわっていた何かが静かに芽吹いた気がした。それ酷く暖かく、木漏れ日のような眩しさを孕んでいた。

 結局月光浴に誘われることは一度もなかったが、あの日から通話をしてる場所が外の喧騒の聞こえない彼女の自宅になった。通話の役割がなくなったにも関わらず彼女は私へ連絡をよこし、私はそれに付き合う日々が続いていた。その意味を問い詰めることはしなかった。ただその時間、今この空間もがあまりにも穏やかで、彼女となら、彼女といれば、私はもしかしたら……

(何を、考えているんだ)

 ずっと彼女への気持ちに気付きながらも見て見ぬ振りをしていた。それを認めてしまえば、きっとこうなることが分かっていたからかも知れない。春風に吹かれていた心臓が、急激に冷えて行く感覚がした。

 一般社会に紛れ、抱いたこの感情は酷く心地が悪いものに思えた。同時に、自分の思考に吐き気さえした。なぜ、望んでしまったのか。そうしなければまだもう少しだけ、彼女といられたかも知れないのに。

 もう誰とも重みのある名の付いてしまう関係を築きたくなくて、仲間に死を強要しなければならない呪術師なんてものも辞めて、呪いとも他人とも無関係でいると決めたじゃないか。

『あとは頼んだよ、七海』

 私は、逃げただろう。友の最期の言葉からも。なのに、私はこの暖かさに手を伸ばすのか? 全てを、なかったことにして?

「七海くん? どうかし」
「どうして、私に構うんですか」
「……なに、急に」

 彼女の戸惑いは当然だろう。だけど耐えられなかった。忘れたかったわけじゃない。だけど高専を辞めた……いやきっと灰原が死んだあの日から、私は目を背け続けた。そう、忘れたかったわけじゃないんだ。あいつと過ごした一日一日を忘れることはしない。それでも彼女といると忘れてしまうんだ。あの日々を。そして突き付けられる。高専にいき忘れてしまった当たり前の、もう一つの世界を。

 だめだ、と私の中の私が叫ぶ。何もかもが中途半端で、こんな風に受け入れられてしまうことが、許されてしまうことが、自分が望んでしまい、また大切なものを失うかもしれないという恐怖自体が……怖い。

 いつの間にか握っていた拳が、血の廻りを求めるように白く染まり震えていた。一人でいい。私は、独りがいいんだ。罪と罰を抱えたつもりはない。だけど、これ以上何も抱えたくない。触れたくない。それが暖かなものなら尚更、掴むべきではない。この手は、何も得ることは出来ないのだから。

「もうやめていただけますか」
「七海くん、ちょっとどうしたの」
「迷惑なんです、あなたの行動は」

──失敗した。そう、思った。
 私の言葉に瞠目した彼女の、傷付いた顔。最低だ。自分から拒絶しておいて、彼女のこんな顔は見たくなかったなんて思うのはお門違いもいいとこだ。

「そっかぁ。ごめんね、気付かなくてさ」
「……なぜ笑うんですか。私はあなたに」
「そりゃさ、お別れの時は笑顔がいいでしょ」
「っ、」

 彼女の言葉に、顔を顰めたのは私の方だった。自己嫌悪と後悔でいっぱいになった肺では上手く呼吸が出来ず、その間に彼女は広げていたパンを袋に詰め直していた。

「これ、あげる」
「いえこれはあなたが買った」
「いいの、餞別だよ」

 そう、彼女は私の膝にそれを押し付け、立ち上がった。うん、とひとつ背伸びをして手の平を組み、それを鬱陶しいくらいよく晴れた空に掲げた。

「今までありがとね、七海くん」

 そう腕を下ろし振り向いて笑う彼女をただ呆然と眺め、私は、瞬きを忘れていた。そして彼女は、「じゃあね」とだけ言って会社方面へと歩いて行った。私は、立ち上がることも出来ず、ただ彼女から渡された紙袋に視線を落としていた。これでいい、そう、言い聞かせながら。

「……はい」
『言い忘れてた』

 震えた携帯に相手の名前も確認せず耳に当てたそこからは、今し方まで隣から、そしてこの一年いつしか毎夜待ち望んでいた声が聞こえた。ハッとして顔を上げ、彼女が立ち去っていた方角を見れば、辛うじて目で確認できる位置で彼女がこちらを見ていることが分かった。

『君の歩いていく道に、穏やかな幸せがありますように』
「……なんですかそれ。またどっかの胡散臭い記事でも見たんですか」
『失礼な。偉大な先輩の最後の言葉だよ』

 遠くで彼女が大きく手を振っている。表情は、見えはしない。

『幸せになる方法は、ひとつじゃないよ』

 それを最後に途絶えた声と、今度こそ歩き去ってしまった背中をじっと見つめていた。何度も、何度も言葉を交わした。それは実りのないものばかりだったけれど、私はきっと、彼女の声が好きだった。だから、気付いてしまった。気丈に振る舞った彼女が、泣いていたことに。

「クソッ……」

 静かになった携帯を額に当て、項垂れた。分かってたはずだ。自分の気持ちなんて。その時点で離れておけばよかったんだ。どうせ、誰かといる気なんてないのだから。最低だ。もっと違う別れ方だってあったはずだ。彼女を、傷付けずに済む方法が。馬鹿みたいだ。自分が傷付けたのに、今すぐ涙を流す彼女の元へ駆け寄り、抱き締めたいと思うなんて。本当……今更にも程がある。正しさがなにかも分からずに、望むべきものは遥か海の底に落ちてしまった。私はきっとまだ、子供だったのかもしれない。それが正当化されるには事足りないことくらい、自分が一番分かっていた。

 それからと言うもの、全てを紛らわすため働いた。友人の言葉を思い出したからか、彼女との関係を絶ったからか。見るのはあの日か彼女からの着信に携帯が震える夢で、締め上げられる心臓に耐えられなくなり自宅で眠ることも減っていった。

 金、金、金。それだけを頭に浮かべていた。彼女に出会う前と、同じように。それさえあれば全てと無縁でいられる。来る日も、来る日も、高専の日々も彼女との日々も頭の隅に追いやって、さっさと金を貯めてどこかへ行きたかった。たった一人、何にも縛られることなく、何も得ることもなく、何も失わない場所へ。

「大丈夫ですか? ちゃんと寝れてます?」
「あなたこそ、疲れが溜まってるように見えますが」

 昼食を買いに彼女がよく来ると言っていたパン屋へとくれば、店主にそう声をかけられた。彼女に別れを言わせてしまったあの日から、彼女はここへは来ていないらしい。私たちが外で話していたのを見ていた店主が先日、「最近全然見ないんですよね」と零した言葉には、何も言えやしなかった。

「一歩前へ出てもらえますか?」

 彼女の寝不足の原因は火を見るより明らかだった。だから、祓った。彼女の肩にへばり付いた蠅頭を。理由はよく分からない。疲れに思考が鈍って、ただ気が向いて、そんなところだ。なのに、

「ありがとー! また来てくださいねー!」

 そんな言葉に、前を見据えながら掌をギュッと握った。“生き甲斐”なんてものは無縁の人間だと思っていた。そして、この手では何も得られないとも。だから彼女とも距離を取った。だけど……灰原の言葉がまた脳裏で反芻する。私は、何を託されたのだろうか。まだはっきりとした答えは見つけられそうにない。──だけど、その答えはやはり、この道の先にしかない気がした。

「もしもし、七海です。お話があります」

 そう一本の電話を掛け、退職するため会社に向かった。そして全てを終え、二度と戻らぬその場所を振り返り、思案する。

『月が綺麗だよ』

 蘇るのはそう開口一番に彼女が言う言葉で、そういえば、かつての文豪はその言葉に違った言葉を乗せたんだったか、と脳内でひとりごちる。彼女がそれを知っていたのかは今となっては分からない。あの日以降、私の携帯に彼女の名前が浮かび上がることは、なかったから。だが高専に戻ると決めた今はこれでよかったのだと思った。呪いのない世界で生きる彼女と、呪いに突っ込んでいく私とでは、住む世界が違う。

「あなたの歩いていく道に、穏やかな幸せがありますように」

 そう地獄への道を、私は再び歩き出した。
 幸いにも、その日からあの夢を見ることはなくなった。迷いがなくったからかもしれない。だけど月の存在を認識するたびあの声が蘇った。彼女は元気にしているか。否、彼女なら問題ないだろう。明るく人当たりも良く優秀だ。今頃結婚でもしてあの会社にはいないかもしれない。相手は彼女の実りのない話をきちんと聞いて、正しい知識を与えられているだろうか。私みたいに、彼女に傷をつけてはいないだろうか。心配は、いらないだろう。彼女のことだ。幸せになってくれている。私なんかに割いた時間を無駄だったと笑えるくらい、きっと。──そう、思っていたのに。


 報告によれば、郊外にある今は使われてもいない廃墟に近い雑居ビルに現れたのは二級呪霊だ。一級という階級を持つ私からしたらなんでもない相手。だが、それは呪術師をしていればの話だ。一般人である彼女からすれば、呪いが受肉した時点で圧倒的脅威となる。当然の如く、その脅威は容赦なく彼女の身体を貫いていた。

「今助け」
「やっぱり術師だったんだね」
「!」

 驚きに止まった足を動かそうと、手にした鉈を握る手に力を込めた。が、それは他でもない彼女の言葉と、目の前の現象によって動くことはなかった。

「あなた、まさか」

 私がなにもしていないにも関わらず消滅した呪霊に息をのんだ。呪いは呪いでしか祓えない。一体何が起こっているのか、頭の中は再会を嘆くよりも先に混乱が生じていた。いや答えは目の前にある。そんなことは考えずとも分かっていた。だが、脳が拒絶するんだ。彼女は、こちら側の人間だったのだという事実を。おまけに私が術師だと言うことにも、あの頃から知っていたような口振りに開いた口が塞がらない。

「……っ、」
「──!!」

 身体を貫いていた呪霊が消滅したことにより、彼女の風穴からは夥しいほどの血がコンクリートの床に溢れた。途端力をなくした身体が膝から血溜まりへと堕ちる。私は彼女の名を呼んで駆け寄り、その肩を抱いて補助監督に連絡を入れた。要点だけを告げ切った携帯を懐にしまい、すぐさま彼女を抱えて走り出した。

「しっかりして下さい!」
「七、海くん」
「っ、」

 震える真っ赤な手が、白いジャケットを力なく握り締める。その懐かしくも未だ愛おしい声に心臓が軋む音がした。だから、二度と会いたくなかったんだとでもいうように。彼女が幸せだと思い続けることだけが私の平穏だった。だというのに──車に乗り込み用意させていたタオルで傷口を押さえる。だが、それは瞬く間に彼女の血で染まった。

「私はね、逃げたの」
「話しは後で聞きます。だから今は」
「君と一緒」

 その言葉に、思わず目を見開いた。彼女には何も告げていないはずだ。高専でのこと然り、私がなぜあの証券会社にいたのかも。

「確信したのは、パン屋の子の肩にいた蠅頭がいなくなってたこと。きっと、七海くんが祓ったんだと思った」
「気付いていたんですね。否、知っていたからこそ通っていた」
「そう。でもね、それは本当に後から知った。私はね、あの頃の君に、高専を逃げた時の自分を重ねていたんだよ」

 彼女から紡がれる私の知り得なかった言葉を聞きながら、今更のように自分の過去を話すこともしなかったが、彼女もまた自分の過去を話すことをしていなかったことに気付いた。あれだけ、無駄に長い会話を、していたと言うのに。

「高専を出てからは正反対の、なりたい自分になろうとした。指導係の範囲を超えて君に近付いたのは、私の自己満足だったんだよ」

 だから、ごめんね。それはまるであの最後の日ですら自分のせいだとでも言いたげだ。そんなこと、あるはずないのに。後部座席に寝転ばせ支えた彼女の笑った口角から、血が滴りそれを指で拭う。彼女はきっと、私を導こうとしていた。だから孤独に突き進もうとする私の行動を否定はせず、幸せになる方法はひとつじゃないと言った。自分が、そう信じたかったんだ。

 彼女の年代ならばあの頃最強と謳われた五条さんと夏油さんという特級術師と、稀な反転術式を使う天才である家入さんと同学年。異質な中にたった一人混じった彼女の焦りや劣等感を抱く気持ちは分からなくもない。私は、彼女の何を見ていたんだ。何を根拠に彼女なら大丈夫だと勝手に安心していたんだ。私が見ていたものは彼女の努力と、悲痛なまでに弱い部分の、裏返しだったと言うのに。

(そういうことか)

 彼女が被った狼の皮は、どれも彼女が羨望の眼差しで見ていたモノの欠片だ。だけど私は、見ていたじゃないか。聞いていたじゃないか。“彼女自身”の声を。なのに、なのに私は。──今更こんなことに気付いてしまえば、もう取り返しはつかない。一種の呪いだ。そう言えば誰かが言っていた。“愛ほど重い呪いはない”のだと。その通りだ。出なければこんなにも、数年前の感情に心が苦しむはずなんてない。

「実はね、七海くんが蠅頭を祓った日、店の近くにいたの」
「見ていたんですか」
「うん、あの子が必死に七海くんにお礼言ってるのに、振り返りもしなかったとこ」

 そう彼女は少し揶揄うように笑った。だが彼女の顔色は透き通ってしまいそうなほどに青白くなっていた。あと少し、あと少しで高専に着く。幸い血は止まったが、出血量が多い。このままでは。つい彼女の肩を抱く手に力が入ってしまった。だがそれを気にも止めず、彼女は話を続けた。

「そこで思ったの。私はこのままでいいのかなって」
「…」
「まぁそれも今日まで引きずっちゃったんだけど」
「だからあんな場所にいたんですか」
「そう、悲鳴聞こえてさ。行かなきゃって。逃げたくせにそんな正義感出して、こんな怪我して、笑っちゃうよね」
「……全然笑えませんよ」

 大量の血を出したからか、はたまた呪霊との戦いによる恐怖の名残からか、震える彼女の手をぎゅっと握り締めた。こんなにか細く弱々しい手で、彼女は私を救ってくれた。彼女は自己満足だというけれど、彼女が灰原の言葉に向き合わせてくれたんだと、今なら分かる。でもそんなあなたに私は何も返していない。そればかりか最低な言葉で傷付けて、私の感情で振り回してしまった。私はあの時どうすればよかったのだろうか。未だ抱き続けるこの想いを、あの時伝えていれば──

「手厳しいなぁ。相変わら、ず」
「!」

 す、と彼女の瞼が閉ざされ、心臓が無言の悲鳴を上げた。引き攣る喉をこじ開け彼女の名前を呼んで、呼んで、呼んで。ただ消えないでくれと叫んだ。今更願ったって、縋ったって遅いのかも知れない。だけど、そう祈らずにはいられなかった。

 夢なら醒めて欲しい。そんな現実逃避に意味がないことくらい分かっている。だけど、一筋、彼女の目尻から透明な雫が滴る。指先にふれたその温度が夢じゃないことを告げていて、噛み締めた奥歯が嫌な音を立てた。あの遠目で見た時の彼女も、こうして音も立てずに涙をこぼしたのだろうか。一人、気丈な素振りをして。

「クソ…ッ……!」

 あの時この涙を拭えなかったことを謝らせて欲しい。それ以外はあなたに何を伝えられずともよかった。例えあなたからの着信がもう二度となくて、私はそれでも月が出る夜に携帯が震えるのをただ待ち続ける毎日だって、「月が綺麗だよ」って言って笑うあなたを、もうこの目で見られなくたって構わなかった。だけど今は──

「死なないでくれ……っ」

 ── あなたの歩いていく道にある穏やかな幸せのその横に、どうか……いさせて欲しい。そう、彼女の肩を抱き締め、額を押し付けて願った。



「おーい七海、一般人高専に連れ込む、」

 医務室のベッド、その横に置いてあった椅子に座った私の背にかけた声は、ベッドに腰掛けた彼女の顔を見て言い掛けた言葉を噤んだ。

「オマエ、」
「五条……覚えててくれたんだ」

 その眉を下げた彼女からは、証券会社で見ていた凛々しさも自信もありはしない。ただ、人間である彼女がいるだけだ。気まずさを隠せずにいる彼女がギュッと膝に掛かった布団を握るから、そこにそっと自分の手のひらを重ねれば彼女は一瞬驚いた顔をして、だけど照れ臭そうに笑った。

「当たり前だろ。四人しかいない同期忘れるほど僕の頭は悪くない」
「そうだよね、ごめん。あのね、五条」
「言っておくけど僕は優しくないよ。知ってると思うけど」
「え、」
「あと、ちゃんと“先生”つけろよ。示しがつかないからね」

 それだけ言って、五条さんは入ったばかりの部屋を後にしようと私たちに背を向けた。もう少し言い方があるでしょう、と思ったが、彼女が私の手を握り返すから、何も言わずに吸い込んだ息を言葉と共に飲み込んだ。

「……ありがとう、五条」
「せんせーい」
「ふふ、分かった。五条先生」
「偉大でイケメン最強な五条先生からもう一つ、医務室ですけべなことは」
「もう用は済んだのでさっさと消えてください」

 はいはい、と五条さんが背を向けたまま右手を振る。扉を引くその姿を彼女と眺め、ちらり、彼がほんの少し振り返った。また碌でもないことを言うのか、と溜め息を吐きそうになったが、聞こえた「おかえり」に、彼女がぐっと、何かを飲み込んだのが分かった。

 パタン、と静かな音を立て閉まった扉に、部屋の中が静寂に包まれ私たちは視線を元に戻した。とうに日は暮れ、音という音はありはしない。ただ、不意に繋いだ手の温もりだけが、離せずにそこにあった。

「本当にこれでよかったんですか」
「うん、また一から勉強するよ。今度は、逃げない」

 そう握り合った手に視線を落とす彼女の言葉に迷いはない。正直、反対だった。彼女には暖かな場所で、命の心配をすることのない当たり前の世界で生きて欲しい。だが、その強い瞳に何も言えなかった。彼女の意思は彼女のモノだ。その中で私に出来る事、それは。

「……七海くん、」
「知ってますか」

 絞り出すように私の名を呼ぶ彼女の声を遮って、そう言った。彼女は真っ直ぐに私を見つめ、次の言葉を待っていた。私は、この手を掴むにたる男になれたのだろうか。やはり、正しさも正解も分かりはしない。だけど、

「今日は満月なんです」

 瞬きも忘れ、私たちの視線が絡み合う。──眩しいな。そう思った。月明かりだけが差し込む部屋で、それでも尚彼女は輝いて見えた。それは今も、あの日も、私が彼女を──

「月が、綺麗ですね」

 囁く愛に彼女の大きな瞳にうっすらと膜が張り、噛み締めるように俯く。だから今度こそ、手を伸ばし頬をそっと撫でた。ゆっくりと顔を上げたその目から一筋の涙が溢れ、私の手の平を濡らす。掛けていた椅子から腰を上げれば、カタンと僅かな音が響いた。私の手に擦り寄るように目を閉じ、くすぐったそうに笑った声は私が愛したそれで。

「ほんと……綺麗だね」

 互いだけを瞳に移し、そう言い合った。重ねた額に募った愛おしさをつれ、私たちは、眩い世界で影をひとつにした。




月を砕いて見つけた君を