むくりと起き上がった身体は酷く重たくて、思考はまともに動きやしなかった。そんな鈍い頭で普段の半分も開かない瞳が映し出したのは、綺麗に整頓され塵一つ落ちていない、自分の部屋とは錯覚さえも起こさないような、そんな部屋。

「あー……やっちゃったな」

 昨日は悟と硝子と飲みに行く約束をしてて、その道中遭遇した七海を引きずるようにして四人で飲み行ったんだと朧げに思い出した頭を一つ掻く。浅草にある私と硝子御用達の居酒屋で、こじんまりとしてるけど酒もつまみもハズレのない優良店。

 まぁ酔い潰れるのはいつものことなんだけれど、翌朝は決まって安心安定、足の踏み場くらいしかない昨日着ていた服が散乱する自室にいる。のだが、今日に限って言えばそれは叶わなかったらしい。一糸纏わぬ自分の姿に羞恥なんて抱く歳ではないし、この状況でただ一つ屋根の下すやすや寝ました。なんてオチがないことも、何より自分の身体にある二日酔いとも違う違和感が伝えている。

 問題は昨晩のメンバー、つまり、一夜のお相手が五条か七海か、と言う点に尽きる。出来れば帰り道に出会ったどこぞの誰かも分からない男であって欲しいのだけれど、私の嗅覚が布団や部屋に染み渡った匂いに覚えがあることを告げてしまっているのだ。

 幸い相手はシャワーを浴びているらしく、こもった水音が左耳の鼓膜に掠って聞こえていた。出来れば昨日の出来事も綺麗さっぱり流して欲しいところなのだけれど、というか選択肢なんてある? と、ふと冴えてきた思考が思い至る。悟だったらするか、ということよりも、七海がするかという点に焦点を置けば話は早い。

 まず、ない。私の脳はすぐさまその答えを導き出した。となれば相手は悟か。学生時代から勉学を共にし、ついにアラサーへと足を踏み入れた昨今に至るまで、彼から私に対するそんな甘酸っぱい感情を垣間見たことはない。これは勝ち確に近い結論だ。いやもう欲に負けているので不幸中の幸いというべきか。アイツならまだ笑ってまぁこんなこともあるかとやり過ごせる。問題は私にない記憶を酒を飲まない悟はバッチリ覚えているという点だが、もうここは及第点だ。目を瞑ろう。

 とりあえず悟が風呂から出てくる前に服を着てしまおうと思い大きなベッドから抜け出す作業に移った。テレビの前にあるソファーに纏められたそれに、意外とマメなんだなと感心し下着を装着した刹那、いつの間にか止まっていたシャワー音を追い越して、カチャ、と甲高い扉が開く音がした。

「は?」

 スっと洗面所から出てきた影に、思わずそんな声が漏れてしまった。思っていた人物より少しだけ低い身長と、だけど緩めのTシャツでも分かる二回りくらい分厚い胸板、そして、頭からかぶったタオルから見える、金髪。そこから覗く鋭い眼が私の存在に気付き捉えたことに、心臓が萎縮したのが分かった。

「起きましたか」
「あ、はい」
「なぜ敬語なんです」

 そんなもの使えたんですね。なんて言う失礼な七海にいつもの先輩風は吹かせられやしなかった。まさか、そんなバカな。私は未だに目の前の人物が現実であるという認識を受け入れられずにいる。え? だってまさか、あの七海が、だ。

 ぶっ飛んだやつが多い呪術師の中で、まぁそれなりに良識と常識を兼ね備え、破天荒なこともしないし軽薄さだってありはしない男が……ワンナイト。しかも相手は他でもない私自身だ。ああ、そうか。分かった。きっと私が駄々を捏ねるとか、姑息な手を使って七海の家へと押し掛けて、そのまま、無理くり情事に持ち込んだんだ。

「いやーごめんね七海、昨晩の私が襲っちゃったようで」
「いえ、襲ったのは私なので安心して下さい」
「だよねー本当悪かったと……は?」

 あはは、と空笑いをこぼした私の顔がふたたび真顔に転じてしまった。今なんて? 安心してください? とは? 悟の無量空処を喰らってしまったが如く情報が完結しない私に歩み寄った七海は「いつまでそんな格好してるんですか」と、とりあえず私の服の横にあった七海が着ていた、もしくは着る予定の青いシャツを徐ろに私の肩に掛けた。「お風呂は?」と聞く七海に呆然としながら譫言で「はいる」とだけ告げるも、思考と同じく身体は動きはしない。

 ふわり、私を丸ごと包み込んだ香りは確かに七海のもので、それが薄まった部屋の匂いにだってもっと早く気付いてもよかったはずなのに、私の頭は意図してそれを否定していたのかとさえ思えてしまうほどだった。

「私が酔ったあなたに対して欲を制御出来なかった。ただそれだけですよ」
「左様ですか」
「ええ」

 いや待てい! どう言うこと そう思うのに、見上げた瞳は私を見下ろす七海をただ見つめることしか出来なくて、ああ、七海をこんな至近距離でマジマジと見たの初めてだなって、サングラス越しでは気付けない水の滴る金色の髪の間から覗く青緑色の小さな瞳が綺麗だなって、私は昨日、彼に、

「…」

 そこで、ないとばっかり思っていた記憶が、見据えた七海の姿と重なる。朝の光に包めれている現実と被るように薄暗い背景の中、こんな澄ました顔の男が顔を歪ませ、汗を滴らせ、私の頬を撫で、耳元に唇を寄せ、そして──

 ──『好きだ』

 鼓膜に張り付いていた声が、ついにこぼれ落ちて脳にまで届いた。切羽詰まったような掠れ声で、まるで懇願するかのような、愛の言葉。

「っ、」

 カーッと突如逸り出した心臓が、容赦なく身体の内側から全身へと熱を発生させ、顔が歪んだ。それを隠すように口元を抑えるも、まるで耳に心臓が移動でもしてしまったかのように煩い心音に戸惑いが隠せない。

「思い出しましたか」

 降り掛かる声音はどこまでも優しい、ように聞こえてしまう。だけど、いつもと同じだ。揶揄い甲斐のある可愛い後輩は昨日までと少しも変わりはしない。七海の大きな手が口元を抑えた私の腕を掴み、そっとそれを力なんて呼べない加減で引き剥がす。気付かなかった。私はもうずっと、七海にこんな、特別扱いをされていたんだ。

 輪郭をすっぽり包んだ掌と、顎の下に入り込んだ指が私の落ちた視線をゆっくりと掬い上げた。それはまるで、厳重に手袋をして触れなければならないモノかの如く優しく撫でるような仕草で、そんな風に私の身体を這った温度と、今目の前で顔を歪める七海が、昨晩の彼とリンクする。

 吐息も、あられもない水音も、肌がぶつかり合う音も、全部、全部がより鮮明に、艶めかしくその瞳に映る。……それに、蘇ったのは何もそんな扇情的な光景だけじゃなかった。私は、彼に、七海に抱かれながら──

「……勘弁してください。今風呂から上がったばかりなんですから」

 そう悪態吐く七海の端正な顔が傾きながら降り注ぐ。引き寄せられた腰はまるでこれからワルツでも踊るかのようで、輪郭に添えられていた手は流れるように髪を梳き耳へと掛けた。そのまま後頭部へと向かったそれは、まるで産まれたばかりの赤子の首を支えるようで。

「まぁ、後であなたと入るのも悪くないですね」
「七海、なんで」
「肝心なところは覚えてないのか、言わせたがりか。まぁ、どちらでもいいです」

 辛うじて出た言葉に意味なんてなかった。グッと耐えきれないといった様子で力のこもった両腕と、私の情けなく開いた唇を這う視線に熱が一層高まっていく。

「好きですよ。あなたが、ずっと前から」

 だから、このまま。そう呟く七海の唇が私のそこと重なる。昨日も感じた、全てを包み込まれる心地良さに胸が疼く。そう──私は、この私の唇を容易く齧りとってしまいそうな大きな口に、丸ごと食べられてしまいたいと、そう、思ったんだ。

「返事を聞いても?」
「……聞くまでもないでしょ。ってか順番しっちゃかめっちゃかなんだけど」

 せめてもの悪あがきでそんな悪態を吐いてみる。七海らしくない、なんて言葉にも、冷静沈着な七海は「確かにそうですね」なんて自己分析する始末だ。全く困った後輩だ。いや、もう今は。

「ですが」

 七海が続けざまに言葉を紡ぐ。

「それだけ私は、あなたが欲しくて仕方なかったんですよ」

 コツン、と額が触れ合い、私の眼前では金色の糸が揺れる。ずるい。そんな言われ方をしたら、こっちは何も言えないじゃないか。

「……う、七海がこんな男だったとは」
「どういう印象を抱いていたのか知ろうとも思いませんが、もう始めていいですか」
「だ、だめ!」
「は?」

 するっと、羽織った七海のシャツ越しで動き出した手に、咄嗟に七海の胸板を押す……え? ちょ、微塵も動かないんだけど? これ本当に胸板? 壁じゃない? コンクリの壁だよね? ……否、七海だわ。しかもなんか、不機嫌な。

「今更無理です。諦めてください」
「う、わ! やっぱ全然優しくない!」
「そんなこと誰が言ったんです。勘違い甚だしいので考えを改めることをお勧めしますよ」

「失礼、」なんて言いながら七海に容易く抱えられ、目指すは背後のベッド。咄嗟に腕を回し近付いた彼の首元からはより深く七海の香りが感じられて、それが肺に満ち溢れたせいで息がしづらい。あーあ、やられた。完敗だ。むかつく、七海のくせに。頬に集合した熱を誤魔化すように、諦めを引き連れ七海の肩に項垂れた。ギュッと力を込めた手は、自分の心臓さえ掴んでしまったような気がして、

「……すき」
「!」

 ピタリ、七海の足が止まった。ん? と顔を上げれば、眼前には真っ赤な耳が一つ。あー、なるほど。どうやら七海くんは私が思ってる以上に私のことが好きらしい。涼しい顔するから分かりづらいけれど、そうと知ればここまで散々乱された情緒の、仕返しといこうか?

「好きだよ七海?」
「聞こえてます」
「なーなみ、好きだよ」
「遊び始めましたね……全く、」

 ふふ、と笑みをもらす私と、困った人だ、と溜め息を零す七海がベッドへと舞い戻る。しっかりと七海の首に腕を回したまま、覆い被さるようについた七海の腕の重みでスプリングが耳元で軋んだ。少し呆れたような声音とは裏腹に、顔に掛かった髪を避ける手は、やっぱり花に触れるかのように丁寧だった。この時間が永遠に続けばいいと思うほどに、それは静かに、でも暖かく身体に溶け込んでいく。

「でももう私で遊ぶのは」
「建人、」

 まだまだ水気を帯びた金色のカーテンが、窓から差し込む朝日によってキラキラと輝く。その光に反射して七海の視界すら光っているようで、見開かれた瞳がぱちりと一つ瞬いた。と思えば、分かりやすいほどその白い肌が赤く色付いていくから、私は思わず声に出して笑ってしまった。

「建人、好きだよ」
「……敵いませんね、あなたには」

 そんな七海に「でしょ」と笑えば、こちらがくすぐったさに、肩を揺らしてしまうほど優しい唇が、頬で音を立てた。







その手は容易く愛を囁く。