癖というものはふとした瞬間に顔を出すものだ。自分の無意識下で、気を抜いてしまった時ほど驚くほど自然に、それは現れる。

「ねえ、傑」

 そう言って隣を見れば脳が錯覚していた黒髪はなくて、世界にはあまりにも異質な美しい白髪と、少しずれたラウンド型のサングラスから見えた真っ白な砂を下地とした浅瀬の、陽の光をたっぷり浴びて光る海のような淡いブルーの瞳が見開かれていた。口に含むはずだったいかにも甘ったるいであろうノンアルコールの入ったグラスは、悟の大きな手に軽く握られたまま次の動作を忘れてしまったみたいに僅かに開いた口元同様ピタリと動きを止めていた。

 しまった。そう思った時、それはもうごまかしなんて出来ないことを脳が悟った。あまりにもはっきりと告げてしまったもうここにはいない呪術界の大罪人の名前に、きっと私は目の前の彼と同じ顔をしていた、と思う。

「ごめん、飲み過ぎたみたい。先帰る」

 ほんの一分前まで和やかに楽しく、なんでもない今の話をしていた私たち同級生三人の飲み会は、私の失態を皮切りに最悪のものとなってしまった。前の席に座りその名前を私の口から聞いても顔色ひとつ変えず酒を飲み続ける硝子と二人だけだったら「私は犯罪者じゃねーよ」なんて流してくれたかもしれない。「あんたの隣はずっと傑だったもんね」って理解してくれたかもしれない。だけど、きっと私は決して口にしてはいけない名前を、最も耳にさせてはいけない人物に放ってしまった。

 ガタン、とあまりにも曲線のない木製の椅子が立ち上がった勢いに床を擦る。足元のカゴに入っていた鞄を徐ろに握っては、硝子に「ごめん、立て替えといて」と今一度謝罪を繰り返して逃げるように店を出た。悟の顔は、あからさまに逸らしてからは、見れるわけもなかった。



 ◇



「最低、」

 足早に店から、いや、悟から遠ざかりポツリと頬に感じた雫に星空と月を覆った分厚い雲を見上げ足を止めた。そう言って睨み付けたのは、きっと軽率な私自身だった。

 瞬きの間に本降りになった雨足に、仕方なくすでに灯りをなくしたブティックの軒下に逃げ込む。終電すらなくなった時間に歩くのは足元のおぼつかない酔っ払いか、社畜代表の会社員くらいだ。だけどそんな人たちですら降水確率10%の雨に駆け足で通り過ぎていく。そんな僅かな喧騒すら鬱陶しくなって世界から背を向けて……後悔した。そこには華やかなショーケースに映る、なんとも惨めな自分がいた。

「ばか傑」

 責任転嫁をして外気で冷えたガラスに触れた掌から、私の全部がこのまま凍って仕舞えばいいと思った。高専で共に呪術師を目指した傑。席が隣りだった傑。私のこの報われぬ想いをパイプとなって消化してくれていた、傑。

 彼に話せば叶いようのない、だけど消し去ることも出来ない好意も必要以上に溜め込まず、悲観的にならずに済んでいた。諦めろとも、言っちゃえばいいのに、とも言わないで、ただただ「そうだね」って聞いてくれた。それだけで良かった。後先なんて考えないで、恋する乙女を堪能出来ていた、のに。

「そんなにあいつがいいわけ」

 背中に掛けられた声にいつもの軽さは皆無だった。ガラス越し、私の頭を飛び抜けて白と黒のコントラストを織り交ぜた影が映り込む。さすがにあんな出方をしてしまった手前言い訳をしなければと思ってはいたのだけれど、まさかその機会がこんなに早く訪れるとは思いもしなかった。

 二人で最強だった悟と傑。だけどその称号は最早彼の代名詞となっている。それを悟が望んだのか、はたまた背負ったのかは私には分からない。だけど、傑がいなくなった日の悟を、今のこの、亡霊みたいな彼を思えば、やはりあの名前は二度と口にするべきではなかったんだと後悔が過ぎる。それなのに言い訳を告げるはずの元凶である口は固く閉ざされ、酷く役立たずだった。

「俺じゃなくて傑だったら良かったか?」

 傑が消えたあとから自分を律するかのように変わった一人称が元に戻っている事と、これみよがしに当て付けられる呪力にざわりと身体が震えた。ピリピリと肌に感じる悟の怒りと、消失と、もどかしさは私の肺に入り込み酸素が入り込むスペースを埋め尽くしてしまったかのように上手く息が出来ない。

(そんな訳、ないに決まってるでしょバカ悟)

 悟の言葉に心で悪態吐く。本心はきっとそうだ。だって、攻撃的な気配に痛む胸はもうずっと、この五条悟という男が好きなんだって叫んでるんだから。だけど、恐らく傑の名前を出したことによって勘違いしたであろう悟に、ガラス越しに口を開く。

「そうだね」

 チッ、と無遠慮な舌打ちが雨音を掻い潜り私の耳へと刺さる。無理矢理張った虚勢と強がりは、季節柄冷たくなり始めた街の気温みたいに尖ってしまった。

 もういっそ嫌われてしまった方が楽かもしれない。それで多分悟の頭の中にある最悪のシナリオ通り傑の後を追うように呪術師を辞めて、見透かす六眼の届かない場所へと行ってしまおうか。そうすればきっと、呪術界を背負う御三家のひとつを背負う最高の血筋を持つ彼が、見合った人物と結婚して、子供を作って、幸せそうに老いていく姿を見なくて済む。うん、有りだな。

 なんて、そんな出来もしない理想を掲げ、いつだって理想は理想のままなのだという現実にそりゃ凍ってしまいたくもなると自分に同情さえした。……結局告げられないのは、それが終わりだと思っているからだ。終わらせたく、ないからだ。

「なーんて、悟でも嬉しい、よ」
「……でもってなんだよ」

 首だけを動かして振り返り、その予想よりも近くあった黒に視界が覆い尽くされたことに全てを冗談ですませようと貼り付けた笑みが崩れた。不機嫌な声と、ポタリとひとしずく、彼の重力に反発していない髪から落ちた雨が見上げた私の頬を濡らした。先程までの殺気ない。だけどそのあまりの近さ思わず呑みこんだ息は、外気の湿度に反してやたらと乾いていた。

「悟、」

 同じ種族とは思えない程高い位置にある腰を折って、その端正な顔がほんの数センチの距離で真意を図るかのように私を覗き込んでいる。

「……ムカつく」
「は?」
「おセンチになってんじゃねーよ。移っただろ」
「私のせい!?」

 スッと背中を伸ばし濡れた頭をガシガシと掻く悟はそれまでの空気を入れ換えますと宣言するかのように鬱陶しそうにそう吐き捨てるから、静まり返った街に私の張り上げた声が無駄に響いてしまった。

「自覚なし? やっばー、医者行った方がいんじゃない?」

 こいつ……! と先程までのシリアスも忘れて煮えくり返りそうになったハラワタの勢いそのままに拳を振りかざそうとして、やめた。途端に馬鹿臭くなってしまった。「お、やるか?」なんていう悟に「やらないわよ」と呆れた溜め息を返して笑った。

 やっぱり、傍にいたい。いつか終わりが来る事だと分かっていたって、傑に「あいつは人の気も知らないで」って愚痴れなくなってしまったって、今はまだ。

「で、オマエはいつまで引き摺るつもり?」
「引き摺るって、何を」
「あーやっぱいい、どーでもいいんだった」
「は?」

 勝手に質問して、私がその問いを理解する前に自己完結をする悟は訳が分からない。いや、この自由奔放唯我独尊男を理解するなんて、未来永劫出来る気はしないのだけれど。

「オマエが誰を見ててもこっちに向かせるだけだから」
「……え?」
「分かんない? オマエの気持ちなんて聞いてないって言ってんの」
「待ってなんの話し、」
「ホント頭わる。バカなの?」
「あんたねえ……!」

 ついに振りかぶった拳に思わず呪力を込めてしまったのは不可抗力だ。どうせほぼ無下限を出ずっぱりにしている悟には、私の抗議なんて払うまでもなく当たりはしない。はずなのに、

「!」

 パシッと軽快な音を立てて私の腕が掴まれる。身長に見合った大きな手のひらの温度にひとつ、鼓動が跳ねた。

「これ本気? よっわ」
「うるっさい!」
「まぁいいや。どうせ俺が護るし」

 光栄だろ、なんて言う悟の表情はいつもと変わらない。会話のキャッチボールが出来ないのだっていつもの事だ。その本質はあるようでない。いや、本人的にはあるのかもしれないけれど。でもこちら側が気付けることは稀だ。だから、これも深く考えないに越したことはない。きっと、その方がいい。

「はぁ、まだわかんない? ニブちんキャラがモテるの時代は五億年前に終わってんだけど」

 そんな時代がいつあったのか、いやそんなことはどうでもいい。そもそもそんな時代に"ニブちん"なんて言葉も"モテる"なんて単語もありはしなかったであろうことを察するに、考えてしまうだけむだなのだ。

 ぐっ、と掴まれた腕に沸き立つ腹立たしさを込めて引こうとも、微塵も動かない私の腕は僅かに肌を軋ませるだけで……というの建前だった。さっきから私の心臓の音が煩くて仕方ない。顔に悟への想いが出てしまわないか不安で、苛立ちでコーティングするしかまたしても言ってはいけない言葉を噤む術がなかった。

「離、せ!」
「いやだね」
「我が儘か!」
「そう、俺ワガママなんだよねぇ。だからオマエがずるずるズルズル馬鹿の一つ覚えみたいに傑を好きでも関係ない」

 ピタリ、と、私の動きが止まった。は? 今なんて。言葉が出ず瞠目した瞳を悟に向ければ、その整った顔が歪んで「知らないとでも思ったのかよ」と悪態吐く。私が? 傑を好き? どこをどう間違えればそうなるのか、訳が分からない。

 そう、訳が分からない事だらけだ。関係ないと言いつつも、どうして悟が、こんなに泣きそうな顔をしているのかさえも。

「……いい加減気付けよ」

 懇願するような、掠れるような声が近付いてくる。すっ、と輪郭の内側に近い部分を悟の指が撫でて、顎の先端にある窪みに到達すると上へと僅かに力が込もって、視界が目映い色に染まる。

「悟、」
「黙って」

 細めた視線が、無理矢理差し出された私の唇に落ちてくる。視線だけじゃない、髪と同色の睫毛も、筋の通った鼻も、薄く色付いた唇もがゆっくりと降り注ぐ。いつの間にか顔を出した月に照らされた白髪が、その光を吸い込んだかのように濡れた髪に反射して瞬いていた。

「……傑、じゃない」

 唇が触れ合う寸前、いや、"す"の字を言葉にした時少し触れたかも。そんな距離で、私の否定に今度は悟の動きが止まって、海を閉じ込めたような瞳が開かれる。きらきら、キラキラ、黒が太陽を吸い込むように、白は月光を吸い込むのかもしれないと、星空を眼前に突き立てられたかのような眩しさにそんな事を思った。誰よこんな眩しい男を、亡霊なんて例えたのは。

「私が好きなのは、悟だよ」

 言わないと、言えないと、このままでいいと、このままがいいと嘆いていたのに、こんな光を見てしまえばやっぱり言わずにはいられなかった。自嘲を含ませそう笑った私はきっと、上手く笑えてはいなかったと思う。だけど、言ってしまった言葉に、やたらと胸は本物の星空のように雲が晴れた、気がした。

「なん、だよそれ……」
「ごめん」
「何に謝ってんの」
「……まぁ、色々、」

 悟に顎を固定されているから、仕方なく目を伏せる。懺悔と込み上げる熱と痛みを噛み締めるように閉じたまぶたのその先で、悟が一際大きく溜め息を吐いた。

「オマエがなにを思って言わなかったのか知りたくもないし傑と間違えられたのは許さないけど、俺を誰だと思ってるわけ?」

 やっぱり質問の意図が分からなくて、ゆっくりと目を開いた。そこには、有り余る自信を垂れ流した、"五条悟"がいた。

「オマエはそのまま、俺だけ見てればいいよ」

 そう、笑った。ぱちりと瞬きをしても、綺麗すぎるその造形がそこにある辺り、夢でも幻覚でもないらしい。ああ、やっぱり私はとんでもない人を好きになっちゃったらしい。

 許された想いにひとつ零れた涙は、触れ合った唇の熱に溶けて消えた。
 
 
 
 

モノローグに終止符を。












五条サイド
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「ねえ傑」

 そう言って隣の女が俺を見たのだから、驚かないという方が無理な話だ。そして言った本人すらも驚いているんだから名前を間違えられたこっちは訳がわからない。……いや、それがどこぞの知らねー誰かさんだったのならまだいい。よくないけど、潰せばいいだけだし、対処の仕方はいくらだってある。だけど、よりにもよって出たその名前は俺の動きを止めるには十分な威力を持っていた。

「ごめん飲み過ぎた、先帰る」

 そう足早に店を出たあいつの背中を呆然と見つめ、動けない。なんだよ、くそ。つい心に悪態が漏れて、実際に舌打ちが出た。グビ、っと宙で止まっていたノンアルコールを煽るように飲み込んで、酒が入っていないことを少し残念に思った。いっそのこと酔っ払って、世界でも壊しやろうか。何年待っても手に入りそうにない女の影にふとそんなことを思ってしまうくらいには、あいつの言葉は俺にダメージを与えていた。

「硝子オマエなんか聞いてないわけ」
「知りたいなら自分で聞けばいいだろ」
「聞けないのわかって言ってる辺りホントいい性格してるよね」

 ぶす、とする俺とは裏腹に、硝子は何事もなかったかのように酒を飲み続けている。馬鹿だなあいつ。立て替えといてなんて言って。絶対にこの性悪女に過剰請求されるに決まっているだろうに。そんなこと、高専時代を一緒に過ごしたあいつにだって分かるはずなのに、それすら分からなくなるくらい動揺したんだと思考が勝手に行きついて顔を顰めた。

「オマエらのレンアイジジョウなんて興味ないからな。まぁでも」
「あ?」

 意味深に止まった言葉と、一瞬流された視線がゆっくりと俺に戻ってくる。嫌な予感は、この時にはすでに感じていた。



 ◆



「そんなにあいつがいいのかよ」

 硝子に言われた言葉にそのまま駆け出しあいつを追い掛けた。飛び出した直後にウザったいほどの量の雨が降ってきて、普段よく見えすぎる目と言えど視界が悪い。だけど、最新トレンドアイテムを着飾ったマネキンのショーケースに手を当てたあいつを見付けそう声を掛けた。なのに、そいつはガラス越しに俺の姿を一瞬確認しただけで振り返りもしなければ言葉を発することもしない。

『まぁでも、二人目の犯罪者になっちゃうかもな』

 硝子の言葉が反芻する。ふざけんな。そんなこと絶対許さない。誰が何をしようにも興味もへったくれもありはしない。だけど、オマエは、オマエだけはダメだ。高専時代、何かと傑と話し込んで、俺が近づくと話題を変えてたこと、俺が知らないとでも思ってたのか? 安心し切った顔して傑の横で怒ったり、しょげたり、花が咲いたみたいに笑ったり、そんなオマエを遠目から見させられてただけでも苦痛で仕方なかった。
だけど、傑が消えた時、こいつは確かに驚いていた。嘆いてた。でもそれは俺と大差ない範囲でこっちが拍子抜けするくらいだった。だから、心のどこかで安心してた。こいつが傑の名前を口にして、さっき硝子に、そう言われるまでは。

「俺じゃなくて傑がよかったか?」

 イライラする。こんなことは久方ぶりだ。感情が揺れてうまく抑え込めない。いや、俺はきっとわざとやっていた。行かせない。そう思う俺のエゴが力でこいつを支配しようとさえしているみたいだった。同時に、否定して欲しかった。そんな訳ないって。なのに、

「そうだね」

 ようやく開いた口から出たのは肯定で、腹の底から舌打ちが漏れた。なんで、なんであいつじゃなきゃダメなんだよ。どうして、俺じゃ。そう握った手のひらが雨に濡れて滑る。そのままゆっくりと解けば、肩の力も、当て付けるように放っていた力も雨に流れて溶けていった。なんだよこれ。馬鹿くせえ。高専時代の俺も、今の俺も、なんて青臭くて初々しいんだ。柄じゃないでしょ、ただ、見てるだけなんて。こいつを繋ぎ止めるものが見つけられないなら作ってしまえばいい。こいつがなんと言おうとも、いまだに傑への想いを抱えていようとも。

 だから、俺だけを見ろよ。俺はずっと、オマエだけを見てるんだから。



 ──なんて、思ったのに、

「……傑、じゃない」

 こいつはそう、ずっと俺が嫌という程突き付けられていたモノを否定した。

「私が好きなのは、悟だよ」

 剰え俺があと一歩言えずに遠回しな言葉を並べ回避していた歯の浮くような台詞を言ってのけるもんだから、噛み付いてやろうと思った衝動も止まってしまった。

 なんだよそれ。気付けばそう呟いていた。しまいには謝罪なんてするもんだから呆れてしまった。眼前で閉ざされたまぶたが色んなもんに抗うように小刻みに震えて、縁には滲み出た涙がじんわりと浮かんでいた、

 ばっかじゃねえの。何勝手に抱え込んでんの。そんなもんを、ずっと、ずっと傑に言ってたのか? ならなんだよ。俺は、おまえが傑に俺の話をしているオマエを見てたってことかよ。あの笑った顔も、不貞腐れたような顔も、泣きそうな顔も、全部、全部、その視線の先には俺がいたのかよ。……ホント、嫌になるくらいバカじゃん俺たち。

 こいつがいま目を閉じていてよかった。じゃなきゃ、溜め息で誤魔化した熱い頬が、こいつの目に晒されてしまうとこだった。まぁでもやっぱり、ようやく隣に座って浮き足立った俺を傑の名前で呼んだことは一生根に持ってやるし、こいつが俺に言わなかった事も、その程度の問題を俺がどうにか出来ないと思ってたことも癪に障るから許してやんない。それでも──
 
 ひとつ、こいつにバレないように深呼吸をして顎に添えたままの指で軽く唇の下をなぞる。ぞわりと背筋が粟立って、積み上げた感情が今にも爆発しそうだった。爆発させてもよかった。だって俺、それだけ我慢したし? やっぱムカつくし。

 ──それでも、こいつが泣いちゃうくらい俺のこと好きなことに免じてしまうのだろうけど。あーやだやだ、これが惚れた弱みってやつ? ホントくだらない。……だけど、最高だな。

「オマエはそのまま、俺だけ見てればいいよ」

 静かに零れた涙だって、もう俺のものなんだから。







モノローグに終止符を。