「おはようございます。五条さん」

 早朝、日の昇りかけた時間帯一発目にむさ苦しい陰気な伊地知の顔を拝まなきゃいけないなんて悲劇でしかない。黒塗りのセダンの後部座席に乗り込み、おはようと返す声は自分でもいつもと違うことはよく理解していた。そしてそれは付き合いの長くなった運転席に座った男にも簡単に伝わってしまったようで、バックミラーに映った冴えない顔が苦笑する。
 
「残念でしたね。こんな日に仕事だなんて」

 彼の性格を表すようにゆっくりと静かに走り出した車の扉に腕を組んで身体を預け目隠し越しに見た空は、この季節独特の霞を帯びていた。だけど昼にもなればきっと、雲一つない蒼穹がこの街の上空に広がるだろう。祝辞に爽やかな色をつけるには、この上ない天気だった。
 
「五条さん、仲良かったですもんね。彼女と」

 何を勘違いしたのか、伊地知は僕の返事も聞かず見据えた視線に十年近く前の光景を浮かべているようだった。全く、当人である僕を差し置いて勝手に感傷に浸るの、やめて欲しいんだけど。
 
「元々行く気なんてなかったよ」
「え、そうなんですか」

 あんなに仲良かったのに、と伊地知はまた同じ言葉を繰り返す。そんな風に言われるほど俺たちは一緒にいたっけ。なんて、しらばっくれることにも慣れてしまった。アイツが高専を出た時、顔見知り共がこぞって僕に理由を訪ねに来たのだからそれも仕方ない。

 ──私、結婚する。そう言われたあの日からこんな日が来る事は覚悟してた。僕の元に突如届けられた見知らぬ名前とよく見知った名前の並んだ一通の手紙への返信は、欠席≠ノ丸を付けてポストへと押し込んだ。

 アイツは僕の知らない所で、知らない男とよろしくやってたって訳。そしてきっと俺の知らない幸せそうな顔で笑って、今日、式を上げる。
 
「いいの。僕が人気者で忙しいのはアイツも分かってるだろーし」
「まぁこの場合呪霊からの人気な気もしますけど」
「いやー照れちゃうよね。呪霊にまでモッテモテでさ」
「……そうですね」

 あ、こいつ面倒臭くなったな。最初の声音を掻き消すように声を弾ませたというのに、死んだ魚みたいな目になった伊地知に視線を窓の外に戻す。
 
「まぁなんでもいいよ」
「何がですか」
「アイツが幸せならさ」

 それが例え、僕の目の届かない、僕のいない世界だったとしても。アイツがそう、望んだのなら。
 
「なんか、五条さんらしくないですね」
「は?」
「何でもないですスミマセン!」

 思ったよりも低い僕の声に伊地知が早口で謝罪を捲し立てハンドルの直径よりも小さく肩を窄めるもんだからそれ以上追求するわけにもいかなくなってしまった。だけど、その思わず出てしまったかのような確信は、やたら僕の胸に違和感を与えるようにちくりと刺さった。なんだよ、それ。伊地知のくせに。僕が元同僚で、元同級生で、元仲良かった女の幸せを願ったらおかしいのかよ。お前僕のことなんだと思ってんの?
 
「帰りは迎え、いらないから」
「分かりました」

 目的地に到着して車が止まったところでそう言って後部座席の扉を開けた。簡潔的な伊地知の返事を背中で聞いて、潜るように外に出る。黒塗りの扉に手を掛けて、バタン、と締めた。さて、お仕事しますか、なんて誰かさんのおかげで起きた時よりも濃くなってしまった靄を見て見ぬふりをしてポケットに手を突っ込む。車がエンジン音をふかしたところで一人になる安堵のようなものにスッと肩から力が抜けた。というのに、走り出すはずだった車は背後で鈍い機械音を立てるから思わず振り返ってしまった。

「言い忘れるところでした」と僕のいる所から一番遠い運転席の伊地知が首を捻ってこちらに視線を向ける。なんだよ、とつい寄ってしまった眉間のシワは、目隠しが体良く隠してくれたらしい。
 
「お誕生日、おめでとうございます」

 ホント、悲劇だよ。今日という全てが。そう思わずにはいられなかった。



 



 視界には横浜にあるみなとみらいの象徴であるランドマークが見えた。最上階に行けばラスボスがいそうなその高層ビルは、予想よりも清々しすぎて逆に鬱陶しさが湧くような空に向かって真っ直ぐに伸びている。式場の掲載写真を見た時に街の下に流れる海がこんなに透き通ってるわけないだろ、と思ったが、こんなロケーションなら、なるほど、確かに綺麗と呼べる景色だった。

 風が逆立った髪を左右に揺らして鼻腔をくすぐるこの街独特の香りに目を細めれば、手にしたやたら大きめの花束が小さく音を立てた。川のように流れる海に併設され吹き抜けになった場所の上空で、幸せの滲むそこを見下ろす。今日の空を写したような色のバージンロードのその先に、緑と白い花のアーチが掛けられたアフターセレモニー会場だ。高台の大聖堂で愛を語って、永遠を誓った二人は後にここを訪れるだろう。恐らく、アイツも。

 しばらくすれば足元の建物から続々といるかも分からない神様への儀式を見守った人たちが出て来た。その中に僕と同じようにアイツに招待されたであろう見知った顔を何人か見つけて、僕の予想は間違いじゃなかったことを知る。僕の存在に気付いたのは、出て来るなり辺りを見廻した硝子だけだった。硝子は僕と目が合ったってのにニコリともせずほんの少し、何か言いたげに見つめただけですぐに視線を逸らし、空色の道を辿るように左右に並べられた椅子の一つに腰掛けた。なんだよ、こんなめでたい日なんだから笑えよ。相変わらず表情の中々動かないもう一人の同僚に口元を尖らせる。それかせめて、嘲笑うくらいして欲しかったっての。

 参列者の準備が整って、いかにもウエディングソングって感じのBGMが鳴り出す。息をするように心臓が一回り小さくなった気がするのは、この澄み渡った空気に当てられてしまったからだろう。

 椅子に座った連中が立ち上がり、設置されていたライスシャワーの入ったカゴを手にした。幸せいっぱいの新郎新婦の入場だ。ゆっくり、ゆっくりと建物から純白のドレスを引きずったアイツと思わしき人物が現れた。俺の知らない男の腕に、手を添えて。

 ……綺麗だった。眩しいくらい、本当にアイツなのかと疑ってしまうくらい。だけどちらりと見えたその顔は、確かに彼女だった。馬子にも衣装ってこのことを言うんだろうなって。そこに高専時代毎日僕とギャーギャー言ってた面影はなくて、ほんの少し小さくなった胸が痛んだ、気がした。

 みんなが思い思いの祝辞と手にした白い粒を空に、祝福されし二人に向かって放つ。だから僕も、持っていた真っ白な花束──トルケスタニカを空高く放って、印を結んだ。
 
「!」

 当てた術式に弾けた花が散り切りに舞い、まるで雪のようにアイツに降り注ぐ。辺りが騒つくその狭間で、勢いよく振り返ったアイツと、確かに視線が交わった。
 
「オマエが幸せなら、それでいいよ」

 ついに言えなかった言葉を飲み込んで伊地知にも言ったこの気持ちは嘘じゃない。あの日に感じた後悔はこの願いが上回ってくれたおかげで消えてくれた。綺麗だろ? こんな粋なサプライズ、僕にしか出来ないよ。だから、笑えよ。俺が、好きだった笑顔で。そして、
 
「バイバイ、」

 最後の日に言えなかった言葉を呟いて背を向けた。結局アイツの笑顔は見れなかったけど、僕はオマエをずっと見てるから、一人で泣きそうになったらこの事でも思い出せばいい。ずっと、ずっと願ってるから。オマエの幸せが、永遠に続きますように、って。




「……煙草、やめたんじゃなかった?」
「いいだろ、こんなめでたい日くらい」

 建物の屋根を伝って入り口に降り立てば、硝子が壁に寄りかかって有害物質を肺に吸い込んでいた。チリチリ、チリチリ先端が赤く燃えて、吐き出した煙が消えていく様に別の何かを映して僅かに顔を顰めそうになってしまった。っていうかそう思うならそういう顔しろよ。あと、ここ絶対禁煙だぞ。
 
「後で怒られても知らないからな」

 そう強張りそうになった表情が別の意味に見えるような言葉を吐いて足音を鳴らす。ほら僕、人気者で忙しいからさ。次の仕事に行かないと。流石にそこまでアイツに貴重な時間を割いてはやれないんだよね。これから明るい未来を過ごすアイツと、一人闇に向かっていく僕の道はきっともう交わらない。まぁ、人生、そんなもんだよな。欲しいものが全部手に入るなんて、所詮夢物語なんだ。
 
『なんか、五条さんらしくないですね』

 ピタリと、歩み始めていた足が止まった。バカ。なんで今、そんな言葉思い出すんだよ。今朝言われたばかりの言葉が反芻して地面に根が生えたように足が上がらない。そんな僕の背に硝子の呆れた溜息が聞こえた。

「お見合いらしいぞ」

 は? と思った言葉は驚きすぎて声にもならなかった。目隠しの下で見開かれた瞳を揺らすだけで何も言えない僕に向かって、硝子は言葉を続ける。まるで、不満でもあるみたいに。
 
「高専関係者の誰にも言わなかったみたいだけどな。さっき、相手側の親族が話してるのを聞いた」

 ふう、とまた空に向かって硝子が息を吐く。だから僕と視線が合っても無反応だったのかよ。いや、あの目は、この声は、きっと。
 
「よっぽどお前にはバレたくなかったんだろ」
「なんだよ、それ」
「お前ら似た者同士だよなホント」

 めんどくさ、って嘆く硝子の言ってる意味が分からなくて、壊れかけの人形のような動作で見た煌びやかな装飾を睨み付ける横顔から目が離せない。チリチリ、チリチリ、焦げ付いてる音が聞こえるのはやっぱり、硝子の煙草じゃなさそうだった。

 アイツが幸せになるならそれでいいって本気で思った。例えもうアイツが僕の隣を歩いてくれなくても、バカやって、悪態吐いて、そんなくだらなくてちっぽけな、愛おしいモノがこれ以上積み重なることは無くなったとしたって、アイツが笑ってられるなら……僕の幸せがなくなってしまったとしたって構わなかったのに。そう思えば願いに隠れた、消すことなんか出来なかった後悔が途端に頭を擡げた。
 
「唯我独尊代表五条悟はどうしたんだよ。それとも、お前はもう身も心も五条先生か?」

 ああくそ。なんだよ、どいつもこいつも。人を知った風に言いやがって。
 
「まぁ私は別に構わないけど。お前らがそれでいいなら、」
「っ、いいわけ、ねえだろ……!」

 気付けば走り出してた。目隠しを乱暴にずり下げて、綺麗なものしかない建物の中を、年季が入った呪いを抱え大理石の床に甲高い音を鳴らしていく。同時に、俺を見つめていたアイツの瞳を思い出す。キラキラと光るそこは見たこともないくらい綺麗に着飾ったせいだと思っていた。アイツを好きな俺の脳が見え過ぎる目に見せる、唯一の幻想だと思っていた。でもきっとあの光を硝子も気付いてた。だから先回りして、俺にあんな言葉を吐いて、焚き付けて、まるでバカな友人をどうにかしろって、出来るのは俺だけなんだって……ホッント、最高に面倒臭くて最悪の誕生日だ。

 どれもこれも俺と同じように性格の悪いアイツのせいだ。なんで何にも言わねえんだよ。俺は、救われる準備がある奴しか救えない。だけど、俺がこれからしようとしてることはその根底に反することだ。アイツが決めたことを捻じ曲げて、踏み潰して、知らねえよって、俺には関係ないって、そんな風にはもう言えないと思ってた。それが正しい。だって俺たちはもう、大人になってしまったんだから。でも──
 
「!」

 階段を駆け上がりさっきアイツがいたアトリウムの階にて、目の前から走って来ていた女は俺を見るなり、俺はその女を見るなり、見開いた瞳の衝撃を喰らっては同時に足を止めた。ソイツはアホみたいに長いドレスの裾をかき集めた雪玉みたいに抱えて、色気も減ったくれもありはしない。バサ、と雪玉がソイツの細っこい腕から細雪を降らせ、俺は前屈みになっていた背を伸ばした。

「オマエ、」
「っ、の! バカ悟!」
「なっ!? にすんだ、」
 ソイツは裾を下ろすなり手にしていたブーケを乱暴に俺へと投げ付けた。世界一品のないブーケトスを受け取ってしまった俺は、そう抗議の声を上げようとした……が、こんな扱いを受ける予定は微塵もなかったであろう綺麗に束ねられた花を見て、その声は不自然に途絶えてしまった。
 
「オマエ、ブーケにこの花はないでしょ……」

 勢いで何本か床に散らかってしまった真っ白なトルケスタニカ。俺が降らせた花と同じそれに思わずそんなどうでもいい言葉を頭を抱えて紡げば、ソイツは「うるさい」と捲し立てる。
 
「それを受け取った奴も道連れにするくらいいいでしょ!」
「うっわ、清々しいくらいサイテーだ」
「アンタに言われたくないわよ……っ!」

 確かに。煌びやかで華やかな、幸せしかないような場所に当て付けた──失恋の意味を持つ花を降らせた俺は、間違いなくサイテーだ。
 
「私が結婚するって言っても何も言わなかったくせに、こんな嫌がらせ普通する!?」
「オマエこそ人の誕生日に普通式なんて上げるか? 嫌がらせかよ」

 俺は上から、ソイツは下から、互いを睨み付ける。まるで、過ぎ去ってしまった青春時代の頃のように。
 
「……もういい、私、戻らないと」

 顔の横でふわりと巻かれた髪を揺らして、俺に背が向けられる。殴り掛かって来そうだった腕が力なく落ちて、俺の目には、キラリと銀色の光が映った。
 
「!、悟」

 だから、後ろからその手を掴んだ。眉間にはたっぷりの、シワを寄せて。僅かに振り返ったソイツの肩が俺の胸にぶつかる。きっとこれは、イケナイことなんだろうな。分かってる。だけど俺はもう、"これ"が欲しい。
 
「どうせ道連れにするなら、隣にいてよ」

 目いっぱい見開いた瞳が、またキラキラ、キラキラ輝く。さっきとは違う意味の、同じ光だ。指先に当たった外の空気のように冷たい輪っかを摘んで、滑るようにソイツの指をなぞる。それはカラン、と大理石にさっき聞いたウエディングソングなんかよりもよっぽどマシなメロディーを刻んで、そのBGMを聞きながら俺たちは、一つになった。
 
「……私、さっき永遠を誓ったばっかなんだけど」

 離した唇が可愛くない言葉を吐くから、移ったグロスでぬったりとした自分の唇で、俺は笑った。
 
「神様に中指立てに行けばいいんじゃない?」
「名案ね」
「だろ。それにさ、神様より強い奴知ってる?」
「は? ……っ、ちょっと悟!」

 なにそれ、とでも言いたげにソイツは顔を顰めるから、そのまま背中と膝の下に手を差し込んで、ひょいっと持ち上げる。うわ、なにこれ軽。こんな衣装着てるから余計、天使でも捕まえた気になっちゃったよ。それに、腕の中で咄嗟に俺の首に手を回した彼女の目が、星が輝くように瞬いて、遠目から見た時よりもずっと、綺麗だと思った、この世でそう思えるモノに初めて出会った気になるくらいには。まぁ、嫌がらせの代償で絶対言ってやらないけど。
 
「目の前にいるでしょ。永遠なら、俺に誓えばいい」

 呪い呪われた俺たちを、神様なんかが救ってくれるはずなんてない。だから、そんな幻想必要ないんだよ。オマエの願いも、誓いも、全部俺が掻っ攫ってあげるから。
 
「ばかね、相変わらず」
「オマエもだろ」

 知ってる、そう笑う彼女の額に自分の額を付けて、揺れる睫毛を見つめる。その背後で頭上のシャンデリアに当てられた見覚えしかない色が輝いていた。なんだよコイツ、どんだけ俺のこと好きなわけ? 自分の瞳と酷似した、陽の光を反射させた浅瀬の海みたいに艶めく瞼に唇を尖らせ緩みそうになる頬を誤魔化した。

「誕生日おめでとう」
「……それ、出来れば一番に言って欲しかったんだけど」

 不貞腐れた振り、いやこれに関して言えば本当に不服なんだけど。誰しも一番大切で愛する奴に最初に言って欲しいでしょ。くそ、帰ったら絶対伊地知に嫌がらせしよ。もう決めた。

「!」

 俺がそんな決意を頭の片隅で固めていると、首に回されていた腕が下され、俺の両頬を包んだ。快晴とはいえ十二月の寒空の下、肩から背中が大胆に開けたドレスにさぞその指先も冷たいのだろう、と思ったのに、整えられたそこは赤みを帯び熱を発している。コイツ、抜け出してくる時にだいぶ暴れたな。なんてことが垣間見得てしまって、追っ手がないことも納得してしまった。必死かよ。数分前の自分を棚に上げてそう思えば、伊地知への不満なんて一瞬で消え去ってしまった。

「来年は一番に言ってあげるよ」
「当たり前だろ」

 さらりと交わされた一年後の約束に、鼻の奥がつんとした痛みを発した。ああそっか、またコイツとのくだらないやり取りも、車内で流す流行りの曲も、好きだって感情も……積み上げていけるんだな。二人、一緒に。

 そんな物思いに耽っている俺に、ソイツは「泣いてるの?」と茶化すように顔を覗き込んでくるから、「泣くわけねーだろうが」って額に口付けた。言葉と行動の温度差にパチリと瞬いた瞳と頬に咲いたチークだなんて言い訳も出来ないくらい赤くなったそこに、俺の胸にも花が咲いたみたいだった。

「綺麗だよ」

 あ、言わないって思ったのに、言っちゃったじゃん。でも仕方ないよな。飾りっけのないいつものコイツが好きだし、他の男との式の為に着飾った胸くそ悪さは拭えなくとも、コイツはもう、俺の腕の中にいるんだから。

 だから、額をぐっと押し付けて、顔の上がった彼女の少しグロスの剥がれた唇にまた、自分のそれを重ねた。ふわり、どちらかともなくトルケスタニカの香りが漂ったけど、俺たちが失った恋なんてもうこの世界には存在しないから、どうでもいい。その方が、俺らしいし、なんてね。





その残り香を置き去りに、僕らは今日から愛を知る。