01 おかえり
その日は突然訪れた。
「おい、大丈夫か?」
「うん・・」
朝、今日もいつもと変わらない日々が始まるはずだった。
「熱は、ないみたいだな」
父、史彦は体温計を片手に、目の前で息を切らし額には汗を滲ませたナマエを悩ましげに見つめた。
「頭痛がするのか?」
父の言葉にナマエは力なく頷いた。
「取り敢えず遠見先生の所へ行こう」
立てるか?と史彦はナマエの腕を取り、ナマエはそれを支えに立ち上がる。
「俺も行くよ」
すぐ側で見つめていた一騎が心配そうに言う。だがナマエはそんな一騎の言葉に、弱々しく首を横に振った。
「大丈夫だよ。お父さんもいるし、それに一騎は授業あるでしょ」
「そんなの!」
「一騎」
力なく言うナマエに言おうとした一騎の言葉は、史彦によって遮られた。
「いいからお前は学校へ行きなさい。父さんがちゃんと連れて行くから」
「っ・・、」
史彦にそう言われ、一騎は乱暴にカバンを取り駆け出してしまった。
史彦はそんな一騎に小さいため息をついてナマエを支え直す。
「さあ、遠見先生の所へ行こう」
「うん・・」
まだ返事は出来る。歩行も辛うじてだが出来る。
史彦は冷静にナマエの状況を確認していた。
(まさか、またか・・?)
最悪のケースが脳裏を過る。
そう、今まで病気1つせずすくすくと育った娘がこうして風邪ではなく頭痛がすると訴えた事が過去に1度だけあった。
杞憂ならいい、杞憂であってくれと史彦は心で叫んだ。
そして島で唯一の病院、遠見医院に辿り着きナマエは病室に横になる。
「遠見先生、ナマエは・・」
診察室にて、ただの頭痛が起こったにして重い空気が漂う。
史彦の言いたい事が伝わったのか、遠見医院の医者、遠見千鶴は視線を落とす。
「現状では何とも言えません。アルヴィスの施設でならもう少し調べようもあるのですが」
「そう、ですか」
すみません、と呟く千鶴に、史彦はいえ、と短く言葉を返す。
「お父さん、」
「ナマエ!」
ふと診察室の扉が開き、ナマエが顔を出す。
「もう、大丈夫なのか?」
駆け寄る史彦に、ナマエは笑って答える。
「うん、点滴打ってもらったからもう大丈夫!って、たかだか頭痛で心配し過ぎだよ」
くすくすと笑うナマエは、確かに無理をしている様ではなさそうだった。
「おまえは大事な娘だからな」
「ありがとう、お父さん。遠見先生もありがとうございました。」
史彦の背後に立った千鶴にも頭を下げる。そんなナマエに千鶴は無理しちゃダメよ、とだけ告げた。
「父さんは少し寄るところがあるんだが、帰れるか?」
「うん、大丈夫」
そして再び千鶴に頭を下げ、ナマエは外へ出た。朝に比べて大分良くなった。片隅に鈍い痛みはあるが、さして寝込む程のものではない。
それよりもナマエには気掛かりがあった。一騎だ。
自分を心配してくれていた兄が、あんな風に家を飛び出してしまった兄が、気が気じゃない。
「もう、世話が焼けるんだから」
そう呟いて、自宅への道とは違う方角へとナマエは歩いて行った。
「あれ?」
一騎の元へと向かう途中、良く見知った、でも少し懐かしい後ろ姿を見つけた。
「ああーー!」
「その声は・・、ってうわあ!」
ドシン、と鈍い音を響かせて、彼は自らの上に股がる女をため息混じりに呼んだ。
「ナマエ・・」
頭を抱える彼を余所に、笑顔を見せているナマエに彼は眩しさを感じた。
それがその背後の太陽のせいか、はたまたナマエから発せられる何かによるものなのか、彼には分からなかった。
「おかえり、総士!」
総士と呼ばれた彼は、ああ、とだけ呟き上半身を起こした。
「相変わらずだな、きみは」
「ありがと」
いや、褒めてないんだが、なんて言葉は、きっとナマエには聞こえなかったんだろう。
だが、自分の帰りを素直に喜んでいるナマエに、総士は初めて口元を緩めた。
「ただいま」
そんな総士の言葉にナマエはふふ、と声を漏らす。そして思い出しかの様に総士に問い掛けた。
「もう一騎には会った?」
ナマエの問いに総士は緩めた表情を硬くした。そっと光の無い右眼に触れる。幼い時に出来た傷。
一騎が、付けた傷。
「いや、」
そんな総士を見て、ナマエは心の中でため息をつく。
(全く、この2人は・・)
幼い頃に起きたあの事件は、あれ程仲の良かった2人を引き裂いた。
でもきっとどこかで繋がっていると、一騎と総士、そしてナマエは思っていた。
いや、確信していた。それが過信とも知らずに。
「一騎も喜ぶよ」
「・・そうだと、いいんだがな」
そう言って俯く総士。そんな事言わないで、そう言おうとしたナマエの言葉は、総士に聞こえる事はなかった。
「ナマエ!?」
「・・っ」
突然ナマエが崩れる様に倒れ込んだ。咄嗟に総士は手を伸ばし肩を支える。
「イ、タイ・・っ!」
「!」
ナマエが頭を抱える姿を見て、総士も史彦同様、最悪の事態を脳裏に過ぎらせた。
まだ確信では無かった事が確信へ、そして彼女の核心へと近づいていく。
「ナマエ、大丈夫か」
「ん・・っ、へいき」
総士の目にはとてもそうとは思えなかった。いつも笑う彼女の笑顔が痛みに歪み、冷や汗が首筋を伝う。
「遠見先生の所へ行こう」
「うん・・・、っああ!!」
「ナマエ!?」
突然悲鳴にも似た声を上げるナマエに、総士は困惑する。こんな彼女をあの時以来見た事がない。
そして遂に来る。
神にも似た、悪魔の囁き声が。
ーーーあなたは、そこにいますか
こうして全ては崩れ去り、始まった。
僕たちの、絶望の旅が。
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