揺らぎ



貴方が結婚したのだと電話で聞いた時、俺の中で何かがすーっと冷めていくような、そんな感覚がしました。
しかし、それは貴方に焦がれる激しい恋情ではなく、きっと希望だとか夢だとか、そういうものが心から失せていったのでしょう。
貴方が由緒正き女性と結婚することは、ずっと前から勘付いていました。
俺は貴方といつまでも一緒にいられないということも、覚悟していました。
その上で貴方と付き合っていました。
それなのに、やはり、人間の精神力というものは脆弱で、突き付けられた事実に、俺は酷く動揺したのです。
跡部さんからの報告の電話だというのに、俺は直ぐに通話を切って、洗面所に駆け込みました。
そこで数回咳き込んだ後、体内に吸収される筈だった朝食を戻しました。
その日はよく晴れた日曜日で、電話が来たのが朝の八時頃だったと記憶しています。
俺は何だか、何もする気になれなくて、ベッドに向かうことすら出来なくて、洗面所の床に座り込むと、そのままぐったりと眠りについてしまいました。

次の日。どれだけ眠っていたのでしょうか、あれから日が昇って、沈み、また太陽の光が出始めていました。
時計を見ると、朝の四時。
月曜日でしたので、俺は仕事に行かなくてならなかったのですが、立ち上がるだけで凄まじい倦怠感に襲われてしまいました。
もう一度寝たら治るだろうかと思い、目を閉じて三時間ほど過ごしましたが、結局眠りにはつけず、また、心身共回復することはありませんでした。
だから、俺は何とか電話を手に取ると、今日は休ませて頂きますと、止む無く会社に連絡を入れました。
もちろん理由を訊かれたのですが、俺は、何と答えていいか分からなくて、風邪なんですと嘘を吐きました。
――俺は一体、何をしているんだろうと、窓から見える空にそう思いました。
跡部さんの結婚は、俺にはどうすることもできない、不変の事実なのです。
いくら落ち込んでいても、不貞腐れていても、何も変わりはしないのです。
割り切って、立ち直らなくてはならない。
その筈なのに、俺は、世界の終末のような絶望感を感じて、ただ、虚しい思いをしていました。

昨朝から何も口にしていない(正確には、吐き出してから何も、でしょうか)のに、不思議と空腹を感じることはなく、俺はぼんやりと、再び空を眺めました。
きらきらとした快晴です。しかし、目障りでもありました。
「……?」
数分後、俺の携帯電話から着信音が鳴りました。これは、音声着信の音です。
会社から? と思い画面を見てみると、なんと、跡部さんからの電話でした。
思わず息を飲んで、画面を見つめました。間違いなく、そこには跡部さんと表示されています。
ああ、電話に出るにはどうしたらいいんでしたっけ……俺は一瞬、通話ボタンの存在を忘れそうになりました。
そして、微かに震える指先でボタンを押しました。
「…っ! 日吉……やっと出たな」
スピーカー越しに、跡部さんの声が聞こえてきました。
「昨日の朝…お前が急に電話を切ってから、もう何回も電話したんだが、今まで何を……いや、今はそれよりも、言わなくちゃいけねえことがあるな」
ああ、やめてください。
一瞬、強烈な拒絶反応が現れました。
その続きをもう一度聞いてしまったら、生きていけないかもしれないという、それ程までの不安や恐怖、嫌悪感と孤独感があったのです。
「……婚約が決まった」
「……」
「勿論、親が決めた事だ。笑えるだろ? 今時、恋愛結婚じゃねえなんてな。…だが、俺にはどうしようもできなかった」
――俺にはどうしようもできない。
その言葉を跡部さんからも聞くとなると、いよいよ俺も諦めなければなりません。
俺は深呼吸をした後に、ゆっくりと、言葉を吐き出しました。
「……御幸せに」
たったの、これだけの言葉を。
「日吉…俺は」
「いいじゃないですか。御両親が都合で決めたとしても、由緒正しい女性と結婚するなんて、幸せな事です」
「……俺は、お前のことが好きなんだ」
「ぜひ、俺のことなんて忘れてください」
「…日吉……」
ぽんぽんと出てくる言葉は、嘘ばかりでした。
大体、貴方の結婚の話で衝撃を受け、仕事まで休むような人間が、すぐに忘れてくださいなんて、そんな可愛いことが言える筈がないのです。
しかし、俺は嘘しか吐けませんでした。
「……今、どこにいる? 会社か?」
「…いえ……自宅です」
「…? そう、か……今から出られるか?」
「えあ、はい…大丈夫です」
「じゃあ、そうだな……駅前で待っててくれ」
「……はい」
意外でした。
跡部さんは俺と会うつもりらしいです。
正直、跡部さんと会うのは嫌ではありません。
ですが、どんな表情で会えばいいのか、分かりません。
今のままではきっと、酷く情けない、未練がましい顔だと思います。
……そんな表情は、見せたくありませんでした。
俺は立ち上がると、寝間着から適当な私服へ着替えました。
そして、洗面所へ行くと、鏡の前で微笑をつくって見ました。
「……」
なんて醜い表情でしょうか。
鏡に写るその顔が、己のものであるというのが、信じられませんでした。
俺は笑えない体質だったでしょうか。
いや、俺だって人並みに笑うことができる人間です。
あの時も、貴方の隣で笑っていました。

俺は財布と携帯電話、鍵だけを持つと、玄関のドアを開けました。
眩しい太陽が、目を眩ませます。



駅前に着くと、そこにはしっかり、跡部さんがいました。
「二人きりで話がしたい」
跡部さんは俺と会うなりそう言うと、俺の手を引いて街を進んで行きました。
やがて辿り着いたのは、少し高級そうなホテルでした。もちろん、観光客が利用するようなホテルです。
跡部さんはロビーで俺を待たせて、フロントへ行きました。
そして、従業員と何やら話をした後に、キーを持って戻って来ました。
961号室、だそうです。
わざわざこうまでしないといけない程、秘密の話をするのでしょうか。
俺は黙って、跡部さんの後をついていきました。

客室はそこそこ広く、綺麗でした。
跡部さんは着ていたコートを脱ぐと、ベッドの上に乱雑に置きました。
俺はそのままベッドに腰掛けると、跡部さんの方を見ました。
「…日吉、俺は最低か」
「え?」
「最低だよな? 嫌いだよな? ……そうだって、言ってくれ」
跡部さんの発言の意図が、見えませんでした。とても悲しそうな顔をして、跡部さんはそう言うのです。
どうして嫌いだと、言われたいのでしょう。
俺は“好き”だと言われたほうが、何倍も嬉しいというのに。
「…っ、そうでもされねえと……諦められない」
「諦める……俺との関係を、ですか」
「そうだ…俺は、お前のことが好きなんだ、本当に。…ずっと付き合っていたい。……だが、お前の言うとおり、それは不可能になり、いっそ奇麗に忘れてしまった方がいいのかもしれない」
「…ええ、そうです。俺との関係は断ち切るべきなんです」
俺はまた、嘘を吐きました。
俺は、跡部さんを愛している。「それでも…っ……俺は、自分から日吉を突き放すことなんて、できねえ…」
「……そう、なんですか」
跡部さんは今にも泣き出しそうな顔で、下を向いてしまいました。
俺を突き放せないだなんて、貴方のくせに甘いですね。
でも――それは俺だって、同じです。
俺だって、跡部さんを離すなんてこと、したくはないです。
ずっと一緒にいたいと、付き合いたいと、強く強く希っています。
ですが、俺が平気な顔をして一言“嫌い”だと、後もう一つ嘘を重ねれば、跡部さんが解放される。
跡部さんは俺と完全に別れて、歩むべき新しい道を行ける。
それは、喜ばしいことではないのでしょうか。

俺は言葉を発すべく、息を静かに吸い込みました。
跡部さんは、尚も下を向いたままでした。
「……好きです、跡部さん…」
「…日吉……っ」
目を見開いて、跡部さんが俺の方を向きました。
――俺は今、なんと言ったでしょうか?
正反対のことを、言ってしまった――いや、正直な言葉を、言ってしまったのです。
可笑しい。跡部さんの背中を押すために、嘘を吐く筈だったのに。
俺は最後の最後で、嘘を吐き通せなかったのです。
俺は跡部さんの体を、衝動的に黙って抱きしめました。
「…お前も、俺と同じ気持ちだったんだな」
跡部さんはそう言って苦笑しました。
少しした後、今度は跡部さんが俺を抱きしめました。
その時にちらりと、跡部さんの薬指に、銀色の指輪が見えました。
その一瞬の出来事で、俺はとうとう先程の失態の重さを、思い知るのでした。
跡部さんにはもう、俺以上の人がいる。
それは跡部さんがどう思っていようと、絶対の事実であるんですね。
「……ごめんなさい」
「なんで謝って――」
「ごめん……なさい……っ…ごめんなさい……っ!」
視界がぼやけ、目から涙が溢れ、遂に零れ落ちました。
俺は跡部さんの腕の中で、とうとう泣きだしてしまいました。
「っ…俺は……俺は跡部さんと別れたいです…さっきは変なことを言って、ごめんなさい……俺は…跡部さんのことが嫌いです…! ですから、婚約者の方と、幸せになってくださいね」
まだ、涙が視界を曇らせる。
少し前まで楽に吐けた嘘が、今では涙を伴ってしまうことが、悔しかったです。
俺は乱暴に両目を擦ると、跡部さんから離れて、客室から飛び出しました。これで跡部さんは、諦めがついたのでしょうか。
きっとそうだと、願いたいです。
ですが、俺はきっと、この恋を引きずりながら生きてゆきます。
ただ幸せを願いながら。
――ああ、でも、そんな聖人のようなことが、俺にできるのでしょうか?


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