再開



ペチンッ、と、軽い音が辺りに派手に響いた。
20代前半あたりの若い女が、向かい合っている同年代の男の頬を、手のひらでビンタした音であった。
「バカ若っ! あたしをなんだと思ってるの!?」
「……」
周りにいた他人らが、こんなところで喧嘩か、とちらちら視線を注ぐ。
男は何も言わずに、ただ俯いていた。
「…もう……もう知らない!!」
女は大きな声でそう言うと、男の胸を突き飛ばすように思いっきり押してから、ヒールを地に突き刺すようにして去って行った。少しだけ後ろによろけただけで、特に影響はなかったが。
遠ざかる彼女の足音を聞きながら、男は叩かれた左の頬に手をやった。
あれは本気の攻撃だった。それが頬にとなれば、さすがにヒリヒリと痛む。
(……ったく。これから、どうするか)
男は小さく溜め息を吐くと腕時計に目をやった。
まだ昼の2時である。
せっかく街に出てきたんだ、適当に店に入るか――彼がそう思った時、背後から、おーい、と呼び掛ける声が聞こえた。
「おーい、おい、日吉。久しぶりやな」
日吉と呼ばれた男は、後ろを振り返って微かに目を見開いた。
紺色の髪に、丸い眼鏡。余裕が透けて見える微笑。
「……おしたり、さん」
おしたり――忍足侑士。彼の中学、高校時代のテニス部の先輩だった。
そして、約三年間恋人関係にあった男でもある。
日吉の、初めての恋人だった。

「見てたでさっきの……なんや、ふられたんか?」
「ええ、まあ…」
「日吉が悪かったん?」
にやにやと笑いながら訊いてくる忍足に、少しむっとしながら、日吉は呆れたように言った。
「さあ……あいつの考えてることは分からない」
「女の子は気難しいんやで?」
「……そーですか」
忍足の言葉に、適当に頷く。
彼女と別れたというのに、何ら気にしていない様子の日吉に、忍足は苦笑した。
「相変わらずやな、日吉は……せや、この後時間ある?」
「はい…暇ですけど」
「じゃあ店でも寄っていかへん? 目的もなくふらついとったんや」
忍足の誘いに、日吉はすぐには答えなかった。
自分だけが勝手に思っているだけかもしれないが、やはり元々恋人関係にあったのだ。しかも、同性同士の。更に、ふったのは日吉の方からであった。
あれから三年間あまりが経ったが、気まずさを感じないといえば嘘になってしまう。それが気掛かりだった。
「……? 日吉?」
黙る日吉の顔を、不思議そうな顔で覗き込む。
どうやら、忍足の方は気にしていないらしい。
日吉は忍足の顔を見つめ返すと、いいですよ、と返事をした。



すぐ近くにファミレスがあったため、二人はそこへ入ることにした。
昼時を過ぎている所為か人は少ない。
扉を抜け、店員に案内され喫煙席へと通される。
定員四人のテーブル席に向き合うようにして座ると、忍足は早速メニューを広げ始めた。
「久しぶりや、こういうとこで食べるの」
ぱらぱらメニューをめくりながら、忍足は言った。
「そうなんですか」
日吉もそのメニューに視線を落としながら言った。
「日吉はよく来るん?」
「…いえ、あまり利用しませんね。俺も久しぶりです」
「へえ……俺はとりあえずコーヒーだけでええわ。昼食べたばっかやし。日吉は?」
「俺はまだ食べてないんで……この日替わりセットを」
「え、まだ食べとらんの?」
「…………二時間くらい口論してて」
日吉は低く吐き捨てるように言った。
昼食を食べようと誘われて来たレストランで、彼女がいきなり怒り始めたという。
幸い声は抑えていた為、店員に追い出されることはなかった。
しかし、だんだんと怒りが増していったのか、彼女は怒鳴り始めた。

――ばか、ばか、若のばか! あたしのこともう嫌いなの!?
――違います。落ち着いて下さい……

宥める日吉の冷静な態度が余計に癇に障ったのか、彼女は更に激しく日吉を罵倒し始めた。
ああ、これはまずい。そんなことを思い始めた時、案の定、レストランの店員に追い出されてしまった。
喚く彼女の腕を引いて、足早に店から去る。
しばらく歩き、日吉が立ち止まると、彼女は腕を日吉から振り解いた。
「若……」
彼女は小さな声で言った。
そして、右手を振り上げ――日吉の左の頬を勢いよくビンタし、ああなったのだ。

日吉がそのことを忍足に話すと、大変やったなーと、笑われた。
「他人事だと思って……本当に大変でしたからね。それに腹も減った……」
「ははっ、後でゆっくり聞かせてもらうで? …ああ、店員さん、注文いいですか?」
日吉は、何だか妙によく笑う忍足に、苛つくのと同時に不思議だと思った。



注文を済ませ、忍足のコーヒーが先に運ばれてくると、彼はそれを一口飲み、日吉に訊いた。
「なんでふられたん?」
「…あまり、心当たりがないんですが、俺の態度が冷たいとかで…浮気してるとか、もう私のこと愛してないの、とか疑って……俺は弁解したんですけど上手くいかなくて、どんどん関係は悪くなっていって、今日飯に誘われた時、やっと機嫌を直したかと思ったんですが、やっぱりふられました」
「へえ……大変やなぁ。日吉は彼女のこと、最後まで愛してたんか?」
忍足の言葉に、日吉は少し考えた。
最後まで愛していたか――そもそも、最初から愛していたのだろうか。
少なくとも嫌いではなかった。好いていたのも嘘ではない。
告白をされて、付き合うのを了承して、何回もデートをしたし、身体を重ねたことも一度だけある。
「愛と言うと難しいですけど、多分好きでした。でも、ふられた時は別段悲しかったり驚いたりはしませんでした」
日吉は正直に話した。
失恋の傷心をまったく感じられない言い方だった。基本的に淡白な彼らしいといえば、そうかもしれない。
「……」
それを聞いて忍足は、何かを考え込むような顔をして、黙っていた。
「…忍足さん?」
さっきまで饒舌だったのに、と日吉は思い声をかけると、忍足は真っ直ぐに日吉の目を見つめてきた。
鋭い視線だった。
「日吉……普通は、ふられたんやったらな、悲しいと思うし、驚きもすると思うで」
それは呆れながら言うというより、責め立てるような言い方であった。忍足は続ける。
「つまり日吉は、それくらいにしか彼女のことを考えてなかったんや。彼女は本気やったみたいやけど」
忍足の雰囲気が冷たい。彼女への対応が、彼の気に障ったとでも言うのだろうか。
日吉は、どうして彼女のことで忍足さんが怒るんだと疑問に思いながら、一理あるかと納得もした。
「そう…なんですかね。……悪いことをしました」
一応、反省の言葉を発する。
忍足はコーヒーをもう一度口にすると、日吉と再び視線を合わせた。
何もものを言わない二人。沈黙が重たい。
「……俺は」
忍足は口を開いた。
「俺はふられて、悲しんだし驚いた」
「……」
忍足の発言に、日吉の脳内から言葉が消え去った。


三年前を、回視する。しばらく眠らせていた記憶だ。
――もう、あなたとは付き合えません。
日吉はそう言って忍足と別れた。
原因は何にあるだろう。
言うなれば、同性同士で恋に落ちたこと。
付き合うきっかけもそれであり、また、別れる原因もそれであった。
同性であるが故に惹かれ、同性であるが故に不安定な関係。
だが確かに幸せだった。
ずっと一緒にいられればいい。そう互いに思っていた。
しかし、次第に見え始めてきた現実と未来に、それは無理なのだと悟る。
(捨てられる……のか?)
日吉の中に、そんな疑惑が生まれてしまった。
忍足はよく女子から告白をされたり、遊びに誘われたりしていた。
それは日吉も同等だったが、やはり頻度や回数は忍足の方が上だった。
未来を見据えるのならば、同性で付き合うよりも異性で付き合った方が言うまでもなく現実的である。
(だったら、こっちからあなたを開放してあげましょう)
嫉妬や焦りが心の隅に積もり、衝動的に別れを告げた。
これが三年前の事実だ。



(俺が、逃げたから)
軽い被害妄想と、まだ弱かった心が別れを呼んだのだと、日吉はそう分析する。
一方的に別れを告げて、酷いことをしたものだと今更だが思った。
「……そうでしたね。その件については…後悔してます」
「えらい他人事やな」
忍足の言葉も表情も視線も、日吉を冷たく突き刺す刃物のようだった。
まさか恋愛に関して、一日に二度も問題になるとは思わなかった。日吉はそう気づいたが、そんなことに苦笑いしている暇はない。
「すみません……でも、あなたのこと、好きでした」
言い訳にも似た、遅い告白をつぶやくように言った。
忍足は答えない。
(責められている……)
日吉は焦っていた。忍足の怒ったところなど、今までに見たことがなかったからだ。
しかも、先ほどの彼女のように激しく自分の心境をぶつけてくるのではなく、静かに燃える青い炎のような怒りが、じんわりと伝わってくるような、そんな怒り方だから、余計にどうしたらいいのか分からない。
「…忍足さん、」
「日吉……俺は、頼りない男やったか」
「え?」
「俺がお前を不安にさせたから、別れようと思ったんか」
「……」
「…俺は、ずっと、お前が好きや」
日吉は思わず息を飲んだ。
そして、また気づく。
(……ああ、まさか、俺は彼女と同じだったのか)
「忍足さん……」
「わかってる…日吉はもう俺のこと好きやない。こんなことも、言うつもりやなかった。すまんな……忘れてくれ」
忍足のその言葉に、日吉は首を横に振った。
「いえ…違います。俺は……、俺も、忍足さんのことが好きです。ずっと」
「……」
「……忍足さんに別れを告げたのは、俺が逃げたからです。…俺は、忍足さんに好かれたまま終わりたかった。勝手に捨てられるとか思って、勝手に不安になって、バカだったんです」
「…せやったんか……?」
信じられない、といった表情で忍足は日吉を見る。
日吉は遠慮がちに頷いた。
「だから、その……すみませんでした」
「は…何謝っとんねん。まあ、そういうことなら安心したわ」
忍足は苦笑した。
そして、残りのコーヒーを飲んだ。少しぬるくなっている。
「俺は……まだ日吉のことが好きや」
「え……?」
「まあ…彼女と別れたばっかりでこんなこと言うんも気が引けるけど……考えといて欲しい」
忍足は微笑を浮かべると、日吉の頭をぽんぽんと軽く叩くように撫でた。
「今度は、不安になんかさせへん」
――まっすぐな恋愛を、お互いにしよう。
「…はい」
日吉は頷くと、微笑を返した。


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