欲しかった、ものがあった。
当たり前に生活しているだけでは、与えられないもの。
目の前にあったとしても“手を出すことが赦されないもの”――その先を。
見てみたいと思った。手にできたらいいと思った。
どうしても諦め切れなかったから、努力を惜しまなかった。
努力していれば、求め続ければ、いつか報われると信じていた。
いつか、その先に辿り着けると信じていた。
――“身体”を喪う、その瞬間まで。
降るような星空に、ぽっかりと、黒い穴が。
月光に浮かび上がる歪なシルエットが、見下ろしていた。
(……―――?)
それが何かは心当たりがあったし、一瞥で解ったのは知識があったからだけれど……あくまで、認識は他人事だった。
アクマが、居る。
人の魂が内蔵された機械――悲劇を基に生まれる、千年伯爵の兵器。
会っては――在っては、ならないものだったのに。
逢うはずもなく、有るべきでないものに、遭ってしまっていたが、不思議と驚きはなかった。
まだ現実味がなかったからかもしれない。
夢の続きのような、微睡みの中に居るような感覚だった。
耳鳴りが止まず、嫌な気分だった。歯に何かが挟まったような、落ち着かない感じ。
襲ってこないのは、身じろぎ一つしないわたしを死んでいると思っているのかもしれなかった。
(……どうしよう、か、な……)
このまま死んだ振りをしていれば、どこかに行ってくれたりするんだろうか。
或いは、目を覚まそうと意識すれば…いつもの天井に戻ったり、しないかなぁ……
このまま動かずにいれば、
――動けないのだし 何も、起こらないかもしれない
――あの時から、止まっているしか 何を、する必要もなく
――どうせ、何もできはしないのだから 選択を、強いられることもなく。
寝過ぎた時のような鈍い思考力で、思案に暮れていると……陰が、体積を増した。
さすがにこれには、息を呑む。
(――2体居る、なんて……)
人生初のアクマ遭遇だというのに、なんて運の悪い。元々、群れているのだったっけ?
なんとなく読んでいただけだから、あまり詳細まで記憶していない。
ましてや、実際に遭遇することなど想定しているはずもないのだから、そう真剣に憶えようという意識もなかったのは事実だ。
ぎぎぎ、と、鈍い音が耳に届く。確か、アクマの主な攻撃手段は銃弾。
(……見極めれば、避けられる、か?)
投げ出された手足には、意識すると感覚があるように思えた。
半信半疑で力を込めれば、指先がぴくりと動いた。
そのことに打たれるような感銘を受けるが……放心している隙も与えられず、銃口がガチャン!と此方を向いた。
光が集まる銃口に、意識を集中し、力を込める。
(…今っ…!)
全身を使ってバネのように跳ね起き、横に跳んだ。
――が、“自分の体”は爆風に耐えきれず、予想以上に吹き飛ばされた。
「…かッ…はっ…!」
背中を地に打ち付け、息が詰まった。が、光が収束していくのを見留めて反射的に再度跳んだ。
閃光が弾け、周囲の地を抉る爆発が起きる。
「…っ!…くッ…」
着地の勢いを殺しきれずに転がるが、悠長に横になっている余裕はない。
受け身の取り方が身に染み着いていたことに心底感謝して、2体のアクマに向かい合う。
(やっぱり、体は動く……問題ない、動く!だったら……!)
戦える……けれど。
生身では、アクマを破壊することはできない。破壊できるのは、限られた者だけだ。
舌打ちした。せっかく“動かせる体”があるってのに……これでは『戦えない』。
無理矢理起き上がったことで、血が回り頭痛がする。眩暈もするが、止まっていれば狙われてしまう。
2体どちらも意識を向けながら、どうすればいいかを考える。
――逃げる、という選択肢は、何故か頭になかった。
攻撃をなんとか避けようとしても、流石にそう何度も続かない。
直撃こそ免れたものの、爆発に巻き込まれて足を取られ、地に這う。
頭から血が伝うのがわかった。
痛みが強まり、意識が遠退きかけたが――無意識に手近にあったものを掴むと、不思議と耳鳴りが止んだ。考える力が戻ってくる。
(…夢、なんだろうか)
本当に、不気味なほどに、痛みまでリアルな夢なのだが。
アクマを見上げた。いきなり攻撃される謂れは…などと考えて、やめた。
アクマにとっては、その辺にいたというだけで、攻撃する理由になるのだ。
その辺にいたのが、『人間』だというだけで。
理不尽だが、そういうものだろうと納得もできる。
けれど、その先にあるのが『死』である限り、黙ってこの状況を享受することはできない。
仮に、夢でも良かった。
だって、夢にまで視ていたのだから――自分の体が動くことを、夢視ていた。
(……こんな、ところで……)
とっさに握り締めたもの。石は細長く、掴みやすかった。腕に力を加えて、上半身を起こす。
痛いから、なんだ。
手段がないから、なんだ。
絶望なんか、とっくに――とっくに、知ってる。
「…こんなところまで来て…死んで、やるかっつーの!」
単なる悪あがきだ。
幾ら尖っていても、石なんて何の役にも立たないと知りながら、それを投げつけた。狙いも不十分で、掠めただけで、地に落ちる。
しかし、予想外のことが起こる。
掠めたアクマの装甲が砕け、衝撃にゆらぎ、地面に落ちた。
地面に刺さった石は、淡い光を帯びているように視えた。
(砕けた!?…あれが、―まさか――!)
「…イノ、センス…!?」
イノセンスがどんなものか、詳しくは知らない。どんな形状をしていたかも憶えてない。
それでも、通常の銃火器も効かないアクマの装甲に、傷をつけたのは事実だ。
すると、傷ついていないもう一体が方向を変え、地面に刺さった石(にしか見えない)に近づいていく。
――イノセンスに反応してアクマが集まってきていたのだとしたら?
もし、本物に、あれがイノセンスなのだとすれば……
(奪われてしまう、わけにはいかない!)
とっさに駆け出し、滑り込むようにして間一髪石を拾う。
アクマの巨体が接触して、体は軽く吹っ飛んだ。今までで一番強い衝撃に、転がってされるがままだった。
それでも、握りこんだ石はしっかり手の中にある。
不思議としっくりくるような、痛みさえ忘れるような。薄く発光するそれは熱を帯びているようにさえ感じた。
ぐるり、とアクマがこちらに向き直る。
ああもうホント、現実だとは思えない。何がなんだかさっぱりわからない。わからない、のに。
悲鳴を上げる身体を、立ち上がらせる。
ぽたぽたと、生温かい血が地に染み込んでいった。頭痛がする。血が巡る音が耳に響く。
地に落ちていたアクマが、ゆっくりと再び浮かび上がった。
2体のアクマが、目の前に迫ってくる。光が、視界を埋め尽くす。
無謀だとわかっているのに、自分の体は、既に踏み切っていた。
「―― ぅあああああ ――っ !」
何をしようと思ったのかは、わからない。撃たれる前に、攻撃を加えようとしたのかもしれない。
駆け出して、無我夢中で、手にしていた尖った石――見ようによっては、荒削りの小刀のようにも見える――を、振り切った。
翳む視界の中で、青白い光が一閃するのを、視た気がした。
光の密度が増し――爆風に煽られ。
地面に転がった衝撃に、イノセンスもどこかに飛んでいってしまった。
身体も、もう起き上がる気力もない。
それでも、辺りは静寂に包まれたままだった。
「…はッ…はぁ…――『アクマ』を、倒した……?」
首を捻って、見ようとするが何も見えない。
アクマらしきものは、見当たらない。
――自分が、倒したのか。
ということは、本当に。あれはイノセンスで――自分は、その適合者だとでも?
(…なんだそれ……有り得ない……)
そもそも、全身を苛むこの痛みは尋常ではない。
夢であるなら、こんなにリアルに痛みを感じることがあるのだろうか。
大きく息をついて、なんとか寝返りをうつ。
仰向けになると、満天の空が変わらず瞬いている。
降り注ぐようなそれを見ていたら、光が徐々に滲んできた。
「いったぁ……ははっ、痛くて、たまんないよ……」
痛くてたまらないのに、笑いが止まらなかった。
声にならない嗚咽が、喉に詰まった。
目を閉じると、冷たい風が心地よく、傷を凪いだ。
欲しかった、ものがあった。
それを手にできるのなら、他の何を引き換えにしてでも。
呼吸を忘れる程。
死にそうな程。
――死にたくなる程。
願い、焦がれ、渇望したもの。
神にさえ、願ったものは。
苦難もなく、困難もなく。
唐突に、ともあれば無慈悲に。呆気なく、与えられてしまっていた。
そんなことは造作もないと言わんばかりに。さながら――どうでもいいことだと、言わんばかりに。
神の戯れだったとして。
掌上で踊る道化師だったとして。
されど、それでも、厭わなかった。容易く享受し、受け入れた。
有り得ない現実を――全てを、許した。
自ら手を伸ばしたのだ。素直に、嬉しかったから。その先に悦びを見出したから。
その為なら何を犠牲にしても構わないと決めた自分の心は、真実であったから。
スタート地点で、私は全てを手にしてしまっていた。
そう、だから。
これから先は、失うばかりなのだ。
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