ぽかり、と目を開いたとき、飛び込んできたのは満天の星空。夢みたいな光景だった。夢のような、現実味の無い光景だった。
 今まで生きてきた中で、こんな降るような無数の星を見たことはなかった。瞬きすら忘れて見とれた。そこがどこで、どうして自分は見知らぬ夜の原っぱに横たわっていて、星を眺めていたのか。その時ばかりは些細なことだった。
 焼き付けるように、灼き浸けるように。目を開け続けられなくなるまで、目が渇き涙を流すまで、名前も知らない星の数々を見続けた。
 目を閉じるとじぃんと痛みが響いた。痛みは、生きている証だと誰かが言っていた。

 予感がしていた。
 次に目を開けたら、この瞳に映る世界は、変わっているだろうと―――













 ――白煙が、陥落を知らせていた。

 襲撃を受けていることは一目瞭然であり、囲っていた一角が突破されてしまったことを意味していた。白煙の位置は、西――その先には、小さくも人が暮らす集落がある。
 探索部隊の一人は、歯噛みした。自身にはアクマを壊す力は無く、できるのは精々足止め程度。それも時間が経てば突破されてしまう、一時的なものでしかない。
 今でさえ、木の陰に身を潜めていることしかできない己の無力さが不甲斐なくてならない。
 けれどどうしようもない、逃げようも無い、現実でしかなかった。

 アクマの襲撃に遭遇するのもこれが初めてではなかったが、任務を終える度仲間は確実に減っていく。仮に今回生き長らえたとして、次の任務も生き残れる保証はどこにもなかった。
 それが探索部隊の役目であり宿命だと、頭では理解していても、隊長や先輩のように納得し、割り切れる程の場数は踏んでいなかった。

 遠くに爆音が轟く。
 また一つ、北西のゴーレムとの通信が途絶えた。

(ああ……まだ、まだ駄目だ。どうか、もう1日でいい。保ってくれ。そうすれば……)

 イノセンスの所在を確認し、エクソシストの派遣を要請したのは半日前。到着するにしても、あと丸1日はかかる…それまでは静かに身を潜め、やり過ごすはずだったのだが、アクマに気付かれたのが思った以上に早かった。そして、現れたアクマも1体や2体では済まなかった。

 幸いにも、まだ目に入る範囲にアクマは現れていない。けれど、それも時間の問題だった。
 結界装置など気休めでしかないことは、わかっている。それでも、今の自分たちには他に縋るものなどない。身を守る手段が他にない。

 そして、例え結界装置で身を守ったところで、1日保つとは到底思えない……覚悟を、決めなくてはならなかった。
 この場に居る誰もが、同じことを考えているに違いなかった。

(…ここで、終わるしか……)

 溜め息を零すことすら諦めてしまった、絶望感が周囲を取り巻いていた。
 そんな中、身を潜めてなくてはならない状況だというのに、どたどたと駆けてくる足音が耳に届いた。

「…え、エクソシストご到着!至急報告を!」

 敗戦濃厚だった空気が、ざわついた。
 唯一である救いの手が来たことを喜ぶ反面、驚きを隠せなかった。――到着予定時間より、あまりにも早い。

 幾つもの視線の先から、黒い団服が歩いてくる。そのシルエットの小ささに、目を見張る。
 戦場には場違いとしか思えない……小柄な、少女だった。
 状況を伝えるため、隊長が少女に駆け寄る。

「先に入った探索部隊からは連絡が途絶えております、急襲があったものと……」
「数は?」
「確認されているのは20体強、ですが通信が途絶えたゴーレムの位置からして、増えている可能性が高いです」
「わかった。残りの探索部隊に引き上げ指示は出しているよね?」
「はい、指定区域からは既に抜けています」
「え、隊長!?」

 驚きを表したのは自分だけで、他の者は冷静だった。
 そこで漸く、動くなという指示を受けていたのがこの区域だけであり、新人だからと知らされていなかった事実があることを思い知った。
 西も北西も、他も全て……結界装置を置いて、退却しているという。

 エクソシストは歩みを止めることなく頷くと、はるか岸下にある廃墟を見下ろす。

「此処はもういい。急いで撤退しなさい、出来るだけ遠くに」
「はっ」
「……て、撤退!?まだイノセンスがあそこにあるんですよ!?……仲間の死を、無駄にする気ですか!」
「新入り!」

 エクソシストはそこで初めて、視線を此方に向けた。
 容姿に不釣合いな毅然とした態度が、今度は年相応にも見えるキョトンとした表情に変わる。

 すると、見慣れない形状の服(和装という形式を彼は見たことがなかった)の袖に手を突っ込み、小さな布を取り出した。
 広げて見せるその中に光るのは、紛れもない、襲撃の中心にあるはずの物体。

「それ…は…っ」
「後はアクマを壊すだけだから私一人でいい。近隣被害の心配も要らない、逃げ出す前に全て終わらせる」
「一人、で…20体以上居るんだぞ!?分かって、」
「おい、口を慎め!誰に向かって…」

 エクソシストに、年齢は関係ないのは理解しているつもりだ。知っている中にも年若い少年少女は数名居る、しかし目の前の少女の容姿は、寡聞にして知らない。
 きっとエクソシストに成ったばかりで、実戦経験は少ないのだろう。こうしている間にも、アクマの数は増えているかもしれないのだ。そんな戦場を幼い女の子一人に任せて、撤退などできるはずがない。

 今度こそ本当に驚いたような顔をした少女は、ふ、と相好を崩し、掌で弄んでいた布を袖にしまう。

「君、探索部隊になったばかり?」
「そう…です。まだ2ヶ月で…」
「あぁ、なら尚更、遠くに逃げなよ。命を粗末にしちゃいけないしね」

 一回り近く年下であろう少女が何を言うのか。言い募ろうとすれば、ふと手元に目が留まる。

 何気ない仕草で気付かなかったが、いつの間にか少女の右手には扇があった。―――扇。

 バラリと優雅に開かれる、血のような鮮やかな深紅に、白銀の装飾……骸骨にも似た留め具が目を惹いた。
 不気味な様相でありながら、少女にしっくり馴染む異様さに見とれるのも束の間。

 ――直後、正面から叩きつけられるような突風に煽られ、地面に背中を強打した。熱気が肌や髪を煽る。
 痛みに顔を歪めながら目を開いたのと、強く腕を引かれたのはほぼ同時だった。


 空に無数の、真っ黒に歪なシルエットが浮いていた。
 現実味の無い……ともすれば、幻想的にすら見えてしまいそうな。

 鮮やかに燃え盛る炎すらその背に負いながら、少女は嗤う。
 獰猛に、凄絶に。


「死にたくなければ、私から離れろと言っているんだよ」


 仲間の叫ぶ声に掻き消されもしない、凛と通る声音。
 いつしか手にした扇は……闇夜に染まる漆黒に様変わりしていた。
 爛々と光る瞳が、強烈に、熱に焼かれる瞼に灼きついた。


 隊長に引き摺られながらまろぶように逃げ出し、アクマの銃弾も届かない所まで駆けた。
 一心不乱に駆け続けていたが、最低限の平静さを取り戻し、振り返った時……戦場には既に静寂が訪れていた。


 残されたのは、幾つもの残り火と……原型を留めない、アクマの残骸だけだった。











 この時点ではまだ、少女はエクソシストとしては全くの無名であり、存在も一部の者にしか知られていなかった。
 元帥に師事していた2年もの間、一度も本部に立ち寄らなかったことも含め、あくまで名簿に名前が載っている程度の認識だった。

 ――そして、半年後。
 一人前のエクソシストとして各地を飛び回るようになると、その名は瞬く間に誰もが知るものとなる。不思議なことに、知れ渡るのは彼女自身の名前ではなく、彼女が持つイノセンスの名前ではあったけれど。
 いつしかそれは彼女の名前になり、生涯、冠する称号となる。


 只の記号としてならばいざ知らず、意味を知る者なら、自ら口にしようとはしなかった。
 懼れを抱くのは教団屈指の力を有したイノセンスに敬意を表して、ではない。
 
 イノセンスに与えられた名で有りながら、本体を顕すものでは既にないことが――使い手の戦いを見れば、一目瞭然だった。


 何千という屍を、アクマの骸をその道に敷く。
 番人より授かった『死を従える者』という預言をそのまま体現していくエクソシスト。その様を。


 いつしか誰もが畏敬をもって――不吉と死の象徴――『屍(スカル)』と、呼ぶようになった。














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