最近、彼氏の様子がおかしい。おかしいといっても、それは私だけが感じていることであって、私以外の人には共感が得られないと思う。
発言がおかしいとか、行動が不審とか、そういうことはない。ただ、なんとなくおかしいのだ。具体的に「何が」というのは指摘できないのだけれど、何度でも言おう。彼がおかしいことは間違いないのだ。
「まさくん、何かあった?」
「なぜそう思う」
「なんか最近ちょっとそわそわしてるような気がして……私の気のせいかもしれないんだけど」
彼のランク戦が終わり快勝をおさめた後の帰り道。表情にこそ出ていないが、彼はいつもより比較的機嫌が良さそうだったから、私は直接本人に訊いてみた。今なら答えてくれそうだと期待して。
彼は名前を呼ばれてこちらにきちんと視線を向けてくれていたから、私の発言を聞いてぴくりと眉を動かしたことにも気付くことができた。この反応は、きっと図星だ。
私の質問にすぐ答えることはなく言葉を選んでいる様子の彼は、自然な流れで目を逸らす。彼が言い淀むのは珍しい。こういうところもやっぱり「おかしい」と思う。
もしかして、別れたい、とか? あまりにも言いにくそうにしている彼を見て、嫌な考えが頭を過った。有り得る。だって彼は大学でもボーダーでも密かに人気があるのだ。私より魅力的な女性にアプローチされたら目移りするのは当然である。
「わ、私、大丈夫だよ」
「何がだ」
「その、それなりに、覚悟はしてるから」
覚悟はしてる。そんなの勿論嘘だ。彼にフラれる覚悟なんてできていない。できるわけがない。そもそも、覚悟しようとも思わない。だって別れるつもりは毛頭ないから。
と言っても、彼の気持ちが離れているのに引き留めるのは無理だろう。となると、私は今の間にできるだけ自分が傷付かないように心の準備を整えておかなければならないのか。でも、そんなのどうやって?
恐らく私の声のトーンの沈み具合と顔色の悪さに気付いたのだろう。家まで送ると言って私の家を目指して進めていた足を止めた彼は、私の行く手を阻むように目の前に立ち塞がった。顔を覗き込んでくることはないけれど、頭頂部に注がれる視線はひしひしと感じる。
「何を覚悟している?」
「それは……」
「俺の身に何かあったかと訊いたな」
「うん」
「何もない」
「本当に?」
「何かあったわけではないが、考え事はしていた」
彼は嘘を吐かない。良くも悪くも常に真っ直ぐだ。だから今の言葉も真実なのだろうと思えた。
しかし、彼の言う考え事とは何だろうか。私はボーダーのシステム系統の仕事にほんの少し携わっているだけの身だから、ランク戦の策略がどうのこうの、みたいな内容だったら確実に役立たずだろう。
けれども彼のことだ。その手の悩み事があったとしても、私の前で不審な行動は取らないと言い切れる。ボーダー関連の悩み事ではないとすれば大学関連? 勉強……のことは悩む必要などないはずだし、そうなってくるとやはり濃厚なのは、プライベートに関することだ。
「考え事って?」
「……もう付き合い始めて一年経った」
「う、うん」
「俺はそろそろ考えても良い頃だと思っている」
ごくり。無意識に喉が鳴った。付き合い始めて一年。そろそろ考えても良い頃。それってやっぱり、
「覚悟できてるって言ったけど、やっぱりさっきのなし!」
「は?」
彼の口から「潮時だろう。別れよう」なんて言われたら、道端だろうがなんだろうが、みっともなくわんわん泣いてしまう自信がある。それだけはどうにかして避けたい。せめて私の家に着いてからゆっくり……ゆっくり、別れ話をしましょう、って?
結局、時間も場所も関係ないのだ。私はまさくんと別れたくない。それに尽きる。だから、決定的な言葉を聞きたくなくて逃げているだけ。
「何か勘違いされているような気がするんだが」
「勘違い?」
「俺はなまえと」
「待って! ちょっと、まだ心の準備がっ」
「一緒に暮らしたいと思っている」
「…………へ?」
私が想像していたセリフとは正反対の言葉が聞こえてきて、思わずポカンと口を開けて彼を見上げてしまった。その顔を見て察したのだろう、彼は「やはり変なことを考えていたんだろう」と顔を顰める。
私の考えていたことが彼にとって変なことになるのかどうかは分からないけれど、彼の考えていたことが私にとって予想だにしていない内容だったことは間違いない。一緒に暮らしたい、なんて。私はそこまで考えが至っていなかった。短い時間でも一緒に過ごせるだけで幸せだと思っていたから、それ以上のことなんて考えもしなかったのだ。
彼は私の一歩も二歩も先を行く。けれど、置いて行ったりはしない。きちんと私が追いつくのを待って手を引いてくれる。そういう人だ。
「私、てっきり別れ話をされるのかと、」
「お前は」
「はい」
「……なまえは、俺を何だと思っている」
「何って……彼氏、です」
「簡単に心変わりするような男だと思うのか」
「そうは思わないけど、ほら、まさくんはモテるから」
「俺がどれだけ苦労したと思ってるんだ」
「うん?」
最後のセリフはあまりにも小さな声でぼそりと呟かれたものだから、きちんと聞き取れなかった。けれど、聞き返しても彼はもう何も言ってくれない。
「それで、どうなんだ」
「え? あ、一緒に住むっていう話?」
「それ以外に何がある」
「まさくん、最近ずっとその話を切り出すタイミング窺ってたせいで様子がおかしかったの?」
無言。つまりそれは肯定である。
表情はいつも通りで、焦ったり照れたりしている様子はない。整った顔立ちだけれど、喜怒哀楽の感情表現は乏しい方だ。そんな彼が、私のことを考えて多少なりともそわそわしてくれていたなんて嬉しい。そして私よりずっと大きな彼のことを可愛いと思ってしまった。
「まさくん、お返事はお父さんとお母さんと話をしてからでも良いですか」
「挨拶に行って俺から話そう」
「えっ」
「当然だ」
「でもお父さんもお母さんも私がまさくんと付き合ってることは知ってるし」
「同棲するとなれば話は別だろう」
「でも挨拶って、なんか、まるでその、ねぇ?」
「そのつもりで話せば良い」
彼は涼しい顔で「行くぞ」と止めていた足を何歩か進めたけれど、本日二度目のポカン顔で固まっている私が動かないのを見て戻って来た。でも、そりゃあ固まっちゃうでしょ。「そのつもりで話せば良い」って、どういうつもり? なんて訊かなくても、私はちゃんと察することができる。
彼が私の手を取るのと、私が彼に手を伸ばすのはほぼ同時だったと思う。お互いちょっとびっくりして顔を見合わせて、私は笑って、彼もほんの少しだけ頬を緩めた、ように見えた。
「今日話すの?」
「……ご両親どちらもいるのか」
「お父さんはどうかな。まだ帰ってないかも」
「日を改める」
「まさくんはキッチリしてるよねぇ」
「なまえが緩すぎるだけだ」
「そうかなあ」
ぷらぷらと手を振る私に「子どもみたいなことをするな」と苦言を呈すくせに、手を離そうとはしない。いつも私に付き合ってくれる。歩調を合わせてくれる。
彼をよく知らない人は、無愛想だとか怖そうだとか何を考えているか分からなくて接し方が分からないとか散々なことを言うけれど、そんなことを言う人たちに教えてあげたい。まさくんはこんなに優しい人なのよ、って。でもそんなことを教えてしまったら彼を狙うライバルが増えてしまうに違いないから、やっぱり内緒にしておこう。
同棲。したいけど、したくない。だらしないところを見られて幻滅されたくないから。家事全般きちんとやったことがない私をダメな女だと見限って、切り捨てられたら嫌だから。
でもやっぱり、好きな人と一緒に暮らすというのは魅力的だ。今より一緒にいられる時間が格段に増えることが何よりそそられる。
私の両親は彼のことを絶対的に信頼しているから、たぶん同棲を反対されることはないような気がする。なまえが良いなら、って言われそうだ。あれ、どうしよう。じゃあ同棲するかしないか決めるのは私になっちゃうのか。急展開すぎてまだ頭の整理ができていない。
「あ、の」
「どうした」
「さっきの同棲の話なんだけど」
「ああ」
「したいけどしたくなくて」
「どういう意味だ」
「自分でも分からなくて、だから整理させてほしいなと思って」
「……そうだな。悪かった」
「私の方こそごめんね。嬉しいんだけど、あの、」
「分かっている」
「ありがとう」
歩幅が狭くてスピードもゆっくりな私を、彼は急かさない。だから、大丈夫。このままの速度でも進めるもんね?
きゅっと控えめに彼の手を握ったら、ぎゅっと強めに握り返された。それがまるで「どれだけ時間がかかっても逃がさないからな」と言われているようで、心臓まで握り潰された。……なんてことは、勿論口には出さないけれど。