※ノボリさんが神父でご都合設定信仰を作ってますが他意はないです。
※かなり信仰にnot親和的な話ので、嫌な予感がする方はお戻りになるのをおすすめさせていただきます。
七年前、この村で殺人事件が起きた。一家五人中、四人殺害。生き残ったのは、当時井戸まで水を汲みに出ていた娘ひとりだけだった。彼女が帰宅すると、彼女の家族が惨殺され、一人の男が立っていた。手にもっていたのは、血で濡れた銀色に光る――おそらくナイフ――で、男がそれを振り上げた瞬間、彼女は大声を上げながら、近くの宿屋に駆け込み、助かった。家族と顔見知りだった宿主が彼女の自宅に踏み込んでみたところ、男の姿はなく、四人の死体が無惨に転がっていたのだと言う。
「その犯人を、私は見つけてしまいました」
偶像に跪いた彼女の言葉に、わたくしは息をのんだ。
「雇われた酒場で、聞いてしまったのです。彼は数人のグループでいました。大声で笑い声をあげては小声でひそひそ話をするのです。酒を運んでいるうちに、過去の武勇伝を話していることが分かりました。その内容は麻薬を運んだ、何人も強姦したなど、とても人に自慢していいようなものではなかったのですが、彼らにとってはそれが武勇伝だったのでしょう。
そして、聞いてしまったのです。彼の『この村で4人殺した』という言葉を。
舎弟のような者が言いました。『アニキ、そりゃ何度も聞いたよ。一人取り逃がしちまったってところまでな』。男は言いました。『うるせえ、あれで全員だと思ってたんだよ。水汲みの娘がいるなんざ知るかってんだ。でも賭けでは優勝だ、こりゃ誇れるってもんだ』。
震える手で酒をおいて早々に裏に戻りました。そのままトイレに駆け込み、戻しました。お店の女将さんが心配して擦ってくれましたが、彼女に何があったのか話すことはついぞありませんでした。言えないでしょう?自分の家族を皆殺しにした犯人がそこにいる。その動機は「誰が一番多くの人を殺せるかという賭けのため」だなんて」
わたくしは、神父だというのに、不甲斐ないことに彼女になんと声をかけていいのか分からないままだった。
「…神父様、私は、彼を赦さないといけないのでしょうか。…神が説くように…みんな等しく尊い命ならば……、彼の命をも尊重しなければ…ならないのでしょうか…っ」
ああ、どうして差し上げればよいのか。神に誓いをたてた彼女が、今その信仰に縛られている。どんな罪人にも赦しを与え受け入れることと、家族の仇を赦せない思いに挟まれて、焼かれて苦しんでいる。彼女の境遇を思えば、なおさらその葛藤は重く大きなことであろうことは想像に難くない。彼女は家族が殺された後、この教会に養子として迎え入れられた。家族を守ってくれなかった神と、神を崇め奉るわたくしたちに育ててもらったという思いが、彼女のなかで争っているのが痛いほど分かる。だというのに、わたくしは彼女に何も言えずにいる。そしてどうすればいいのか分からず、戸惑いながら、ただ彼女の肩を擦るしか――
「でも、もう決めました」
彼女に触れないまま手が止まった。彼女の震えていた声が色を失い、冷たい声にぞっとした。
「決め、た…とは……」
情けない。この時間が始まってから久しく発した言葉が、これとは。そしてそれは、聞いてはいけない問いであると、脳内で警鐘が鳴っていたのに。聞いてしまったのだ。
「…私は、大切な家族と、神を、裏切ります」
破戒の言葉を。
「…名前、」
「分かってます!身寄りをなくした私を養子に迎えてくれて、暖かく接してくれて、ここまで育ててくれて…心から感謝しています!私の決意が神、神父様、先代の神父様と奥様、クダリ様、私を慈しんでくれた全てを傷つけ、恩を仇で返すものであることも…」
「…分かっていて、なお?」
「……それでも、私は、赦せないのです…私から大切な家族を奪ったあの男を…賭けのために彼とは縁もゆかりもない家族を殺したあの男を…赦せないのです…」
再び震える声で、嗚咽を呑み込みながらながらそう紡いでは、手を白くなるほど強く握りしめる。涙がはたはたと大理石の床を穿つ。ああ、その涙を止めるのは、何時だってわたくしの役目だった。家族を恋い偲んで流す涙も、クダリの悪質な悪戯に驚いて怒り流した涙も。やはりあのときも何も言えなかった、今だって何も言えない、神父として無能なわたくしだが、彼女は「ノボリ様が隣にいて、背中を撫でてくれることが、どんなに素晴らしいことか」と言ってその泡沫を萎らせた。しかし今回に限っては、わたくしが傍にいたところで止められるものではない。
「…私の愚行を、お許しくださいとは、言いません。……いえ、絶対に、赦さないでください。…神父様、私はこれから『家族』を裏切り、神を裏切り、人間としての在り方をも裏切ります。…あの男とその罪を最も憎んでおきながら、彼と同じ罪に身を堕とすのです。
最後のお願いです、神父様。私を、赦さないでください」
これが神に捧げる最後の懺悔と祈りです。その言葉のなんと重いことか。懺悔にきて赦しを乞うどころか赦されないことを願う、わたくしでは拭えぬその拭えない罪悪感。唇を噛み締め、瞳を強く閉じ、そうして願いを終え立ち上がった彼女の眼差しは、もう誰の静止も聞かぬと、強い覚悟を宿していた。その眼に映ったわたくしの、なんと頼りないことか。
「…今まで、ありがとうございました。……ノボリ様」
ついぞ彼女を止めることの叶わなかった右手が、教会を後にした彼女の背中を求めて浮いていた。
昔から、神とは何か考えていた。神父の家系に長男として生まれ、行く末を神父と定められた自分の人生に意味をつけるために。…正直にいうと、わたくしはこの押し付けられた信仰に抵抗があった。信念に不満があったのではない。問題なのは、その信仰に自分の未来が奪われるという事だった。教会に生まれたからと言って、何故神父にならないといけないのか。クダリはわたくしよりずっと信心深いのに、なぜ長男が此処を継がなくてはならないのか。わたくしの人生はわたくしのものではなく神のものであるということが、とても腑に落ちなかった。そのまま、神は本当に存在するのか、疑問に思うようになった。
彼女がやって来たのは、木枯らしの吹く頃だった。心に傷を負った彼女と生活しながら、その心に持つ葛藤に気付いた。家族を助けてくれなかった神、神を崇め奉るこの家庭で世話になっている自分。思い詰め、一人苦しみと悲しみに堪えられず泣く彼女を見つけた時、思った。本当に神がいるのならば、何故罪もない彼女の家族は殺されたのか。何故罪もない彼女が、教会にやって来て、葛藤を抱くに至ったのか。ただ彼女を見ていて気付いたことは、神は彼女の涙を止められないということと、そして、彼女の涙をどうにかして止めたいと思う、自分の熱情だった。
……もういいでしょう?今や科学が発達し、教会に来るものなどいないのだ。あるいは神父でありながら神を信じない自分の所為かもしれない。ご先祖様方に申し訳ないという気持ちも無くはない。けれど。もう、いいでしょう。
彼女の涙を止められない神なんて、もういらない。
「ノ…ボリ……さ…」
神が彼女に何を与え給うた?愛する家族の無惨な死体を見せつけ、彼女一人だけを生かし、神を疑う彼女を教会に入れ、それでも何とか生きてきた彼女に、知らなくてよかった犯人を合わせ、良心を裏切るよう唆して。
「ノボリ様…何を…して……?」
「…名前」
「……どいてください…その男から離れて…」
崩れた瓦礫の上で、彼女の敵を組み敷く、わたくしを見上げる、名前。わたくしに首を絞められて、喘ぐ殺人犯。
「どいて…とは…彼は貴女の敵でしょう?離してしまって良いのですか?」
「私が!私がやります、から…だから…!」
ああ、何故彼女は焦っているのでしょうか。自分の獲物をわたくしに奪われているからでしょうか。
「いいですよ、これは貴女の獲物です。二人でやりましょう」
わたくしの言葉に彼女は訳がわからないと言うように目で訴えてくる。
「そうじゃなくて…!」
「…では何と?」
「…やめてください、ノボリ様……なぜ神父である貴方が…神に背くのですか…いけません…聖職者が殺人の罪を負うなんてこと…!」
「…名前」
「彼は私の敵です…だから私が殺します…ノボリ様が手を汚す必要はありません!ノボリ様は…神父様は…お願いですから綺麗なままでいらしてください…」
「……名前」
…それは、わたくしも同じ思いなのですよ。
「…貴女がこれ以上不幸になる必要はないのです。貴女がその美しく尊い手を汚す必要はないと、わたくしも思っているのですよ」
「は…」
「……貴女のためならば、この手が汚れようが、神に背き身を堕とすことになろうが、どうでもいいのです。これはとても独り善がりな、わたくしの……」
あなたに向けた愛情なのだ。
「…名前、
『神は死んだ』」
「っ……!?」
神は死んだのだ。名前を苦しめ続けた『神』という観念はもうない。だから、彼女が罪を背負うと言うのなら、わたくしは彼女の代わりにそこまで堕ちよう。
用意しておいた銀色の凶器――ナイフを、ゆっくりと持ち上げる。「あ…あ…」涙と涎でグシャグシャに歪む、犯人の怯えた顔に映ったわたくしは、もう情けないなんてことはない。
…せいぜい苦しむがいい。彼女の家族と、彼女が今日まで背負ってきた、痛みを。
「…待って、やめて…やめてください、お願いだから……!貴方は、ノボリ様は私の――っ神様なの…!」
彼女の懇願が聞こえる。わたくしが、神…。ふふ、おかしい、わたくしが神だなんて。貴女を苦しめ、わたくしが捨てたものなのに、それでも貴女は神を『聖なる存在』と捉えるのか?神、わたくしの存在によって彼女の心が救われたことはあったのだろうか…そうであったならば、嬉しい。……けれど。
「ごめんなさい、名前。
――もう神は死んだのです」
降り下ろした。
断末魔、血飛沫、啜り泣き。ああ、本当に堕ちてしまった。聖職者が、人を殺めてしまった。
それでも後悔はない。たとえこの身が穢れても、たとえその名前が泣いていても。
わたくしの神が、赦されない罪を背負う運命を防げたのだから。
(140830)