護廷落語小噺椿説
『まんじゅうこわい』




最近どうなの。

隊舎の一室、昼休憩も半ばという時間。
向かいの椅子に腰かけ饅頭を頬張る乱菊が、事も無げに問いかける。それを聞いた名前は「ああ、これは饅頭を食べ損なったな」と、菓子受けに伸ばしかけた手を引っ込めながら思っていた。



「最近どうなの?」

「どうなのとはどういう――」

「そういうのはいいから」



ぴしゃりと門前払いされてしまえば、為す術なしと名前は閉口する。それはつまり、乱菊が何を訊こうとしているか、何を言わんとしているかわかっているという無言の肯定でもあった。

自分でも未だに驚くべきことであるが、名前は現在、自隊の隊長であり老若男女問わずそれはそれは人気を博している日番谷隊長とお付き合いをさせて頂いている。それだけでもう乱菊の恰好の餌食となろうネタなのであるが、それに更に拍車をかける変異が起こっていた。
起こっていた、と言いつつ、その変異を起こしているのは他ならぬ名前本人なのであるが。



「最近、隊長と一緒にいるとこ、見かけないわねぇ」



うぐっ、と名前が小さく呻く。まるで何もかもお見通しよとでも言いたげな乱菊の視線に堪えかねて、はらりと横へやった目線は、ちょうど一週間前のとある夜へと移っていた。

恋人同士ということは、それはつまり、そういう行為もして然るべき仲だということである。それは名前自身何となく理解はしていたし覚悟もしていた。…が、いざとなると、処女故の過剰な不安や羞恥心やらで、結局首を振ってばかりだった。その度に日番谷は、名前を責めるでも落胆するでもなく、恐怖心はどうしようもないものだと優しく抱きしめあやしてくれたのである。
そんな夜を二、三度繰り返したある時、罪悪感に堪えかねた名前は、ええいままよととうとう腹を決めた。とうとう腹を決めて本人が最初にしたことは、日番谷のもとへ身を投げ出すでも夜這いに出向くでもなく、経験のある友人へ教えを乞いに回るという少々ずれた行動ではあったが。

そうしてついに、その夜がやってきたのである。

結果から言ってしまえば、正直なところ、あまりよく覚えていないというのが本音だった。
日番谷の寝室で、まるで死刑宣告でも待つかのような面持ちで正座待機をしている名前に、日番谷が少しだけ困ったような呆れたような表情でもっと楽にしろと声をかける。返事一番に名前がしたことは、それ以上伸ばしようがない背筋を無理やり伸ばして居住まいを正すことだった。

それからのことは、あまり記憶がない。緊張と不安と恥ずかしさで吐きそうだと、気持ちが悪いと意識を飛ばしそうになっていた名前であるが、最終的には全く真逆の理由で意識を飛ばしていた。
ただ、それが問題だった。

恋人同士である以上、夜の営みが一度だけ、などということはまずありえない。だからこそ、名前はその夜の自分の行動をしっかりと記憶し、次へ向けての改善点等々を見つけようと思っていた。
それなのに、肝心の行為中の記憶がほとんどない。それは反省と改善を出来ないという意味でも問題だが、何よりも名前の精神的に問題だった。

覚えていないということは、己が行為中にどんな有り様だったか、日番谷にどう見られていたか、何もわからないということである。
ただでさえ、自分の何もかもを曝け出して恥ずかしさの極みに在る中で、もしも可笑しなことをやらかしてしまっていたら。ただでさえ、無知で未経験な処女というハンデがある中で、日番谷を幻滅させてしまうような失態を犯していたとしたら。
顔は、声は、変ではなかったか。そもそも身体に自信があるわけでもない。日番谷を、ちゃんと満足させられていたのだろうか。
尽きることのない不安や疑問は、振り返る記憶がなければ解消されるはずもなく。



「そういえば、一週間くらい前からだったかしらね」



乱菊の鋭すぎる視点に、もはや反論する気も起きないと名前は溜め息を吐いた。結局、尽きない不安や疑問、恥ずかしさから、名前はあの翌日以来それとなく日番谷を避け続けてきてしまっている。
幸いと言うのか何と言うのか、ちょうどこの一週間は仕事も立て込んでいて、業務の合間や仕事終わりに会う暇も会いに行く暇もなかった。だからこそ、こうしてここまでズルズルと、乱菊に心配もといちょっかいをかけられることになっているのだが。



「…やっぱり、ヤっちゃった後は恥ずかしい?」

「!!?」



ぶはあっ。
ど真ん中ストレートな乱菊の言葉に、名前は盛大に噴き出した。どうやらお茶すらも飲み損なったらしい。

どうしてわかったのかと問えば、「あんたを見れば一目瞭然」と何とも言えない答えが返ってきて名前は項垂れる。乱菊も鋭いが、日番谷もまた、人情の機微には敏い。仕事が忙しいといえど、一週間も碌に会話が無いというのは、あまりに露骨である。多かれ少なかれ、名前の心情を読み取られていてもおかしくはない。



「どんな顔をして会えばいいのか、何を話せばいいのか…わからなくて」

「別に、そんなかしこまるようなことでもないでしょうに」

「…だって、怖くて…」



すっかり食べるタイミングを逃した饅頭を、名前はじっと見続ける。いつ見ても美味しそうな久里屋の饅頭。まあ、どうせ食べるなら、今発売中の期間限定饅頭がいいなぁと、ブレる思考は軽く現実逃避である。

馬鹿ねぇ…と、乱菊は呆れたようにお茶を啜った。名前にとってみれば、右も左もわからない初めての行為で何か失態を犯していないか、それで嫌われてはいないか、心配で怖くて仕方がないのだろう。
だがしかしである。
乱菊からすれば、日番谷がそんな小さなことを気にするなんてありえないと、そう言い切れる自信があった。

何度も夜の誘いを断ったことにも名前は罪悪感を抱いているようだったが、日番谷にとってはそれすらも小さなことだと乱菊は感じていた。それもそのはず。日番谷にとっての欲望との戦いは、何も今に始まったことではないのだから。
それこそ付き合う前から続いていた男のさがとの戦い。そんな長期持久戦を戦い抜いた日番谷が思うこととしたら、ようやく名前を抱くことが出来た喜びと達成感に他ならないのである。



「馬鹿ねぇ」

「…わかってますよう」



先ほど盛大に噴き出してしまったお茶を拭きながら、情けなく眉を下げる名前は口を尖らせる。饅頭も食べられなければお茶も飲めない。とんだ昼休みだと嘆息しつつ、いい加減この状況をどうにかしなければならないこともわかっていた。
好きな人を避ける、というのは、やっぱり辛いものだ。



「まるで、“まんじゅうこわい”ね」



突拍子もない乱菊の台詞に、名前は瞠目する。トポトポとお茶の注がれる音を聞きながら、どういう意味かと思考を巡らせる。結局何も得られなかった名前に、「知らないの?」と、乱菊はまた一口お茶を啜った。



「えっと、有名な落語のお話、ってことはわかりますけど…それが一体、どういう…」

「似たようなことをやってるじゃない、あんた」

「え?」

「隊長のこと、好きなくせに」



何となく乱菊の言わんとしていることを感じ取った名前は、しかしそれとこれとは話が違う、と首を振る。
確かに自分は日番谷が好きで、その好きなはずの日番谷を怖いと言っている。ただし、これは落語のように怖がっているフリをしているわけでも、ましてやそれで利を得ようとしているわけでもない。そもそも、怖いのは、日番谷自身というよりも彼に嫌われることだ。
それが、怖くてたまらない。



「でも、好きなんでしょ?」

「だから、それはっ」

「どのみち本意じゃないんだから、どう怖いのかなんて関係ないのよ」



もともと、この場において会話の主導権は乱菊にあって。だから、ここまではっきりと言い切られてしまうと、名前は何と言い返していいのか言葉に詰まってしまう。

まんじゅうこわい。

その小噺通りなら、名前は本当は日番谷が大好きで、そして日番谷に会いたくて会いたくて仕方なかったということになる。もちろん、大好きなのは、否定のしようがない。ならば、後者の方はどうなのか。
否定なんて出来ない、と名前は思った。ずるい、と。否定なんて出来るわけがない。大好きも会いたいも、それを否定出来るのなら、そもそも最初からこんな風に悩んでなどいないのだ。



「ずるいですよおぉ…」



怖いと逃げてみたはいいものの、どう収拾を付ければいいのかわからなくなっていた。だからこそ、余計に乱菊の言葉が痛い。
おいおいと、半べそ状態で名前は乱菊に縋った。好きだからこそ怖くて避けていたのに、今では寂しくて寂しくてたまらない。夜のことだって、今度は記憶を飛ばさずもっと上手にやってみせる。だから、日番谷に会いたい。どうすればいいのか…と。

まんじゅうこわい。

これは、本当は大好きなものを怖いと言ってみせ、まんまとそれをせしめてしまう話である。だから、もし乱菊の言う通りこの状況がその噺によく似ているのだとしたら、それはつまり、そろそろ名前の怖がっている“モノ”が登場してもいい頃だということで。
待ち受ける噺の展開に、終ぞ、名前は気付くことが出来なかった。



「ほう、これはこれは…中々に熱い告白だなぁ名前」



――その瞬間、天地がひっくり返ったのではないかという衝撃をもって、名前の時間はピタリと止まった。
否、本当に止まってくれれば良かったのだが。



「あ、遅かったですねぇ隊長」



ひらひらと手を振り声の主を迎え入れる乱菊を、名前はただただ凝視し続ける。そんな馬鹿な、こんなタイミングの良い事があってたまるかと、毒づいてみたところで現実は変わらない。
ガラララ、ぴしゃり。
戸を閉める音がやけに鮮明に聞こえる中、凝り固まった首を無理やり動かして、名前はその音の主へと目を向けた。



「…ひ、日番谷隊長…」



こうして面と向かって話すのも、その綺麗な瞳を見るのも久しぶりだと、無意識に顔が熱くなってくる。条件反射のように甘い反応を見せる体とは裏腹に、名前の頭の中は荒れ狂う吹雪の雪原のようにパニック状態で。

今しがた、乱菊に泣きついて吐露した何もかもを聞かれてしまっていた。それはもちろん、日番谷に知られることはないと安心していたから出来たことであって、こんな風に聞かれてしまうなんてそれこそ聞いていない。
しかもあの乱菊の態度。まるで、あらかじめ日番谷が来ることをわかっていたかのような…。



「会議ならとっくに終わっている時間だと思うんですけど、寄り道でもしてました?」

「さあな」



人情の機微に敏い日番谷が、あからさますぎる態度の自分に気付かないはずはなく。名前自身、何かしらリアクションがあるものだと思っていたし、心の何処かでそれを期待してもいた。だからこそ、逆に何も無さすぎるこの一週間は余計に堪えるものがあったのだ。仕事が立て込んでいる、それを内心で都合の良い言い訳に使っていた自覚もある。

だけど、もしかして。

どうせ仕事が立て込むのならば、一週間、泳がせるだけ泳がせて。色々と溜まりに溜まったところで首根っこを掴んでやろうという、そんな恐ろしい算段をする日番谷の嗜虐的な表情が名前の脳裏を過っていった。



「まあ、お前のおかげで面白い話も聞けたからな。そこは感謝しておくぞ」

「え、じゃあこの後ちょっとお暇をくれたりなんて」

「休憩中の奴が言う台詞かそれは」



普段はやれ仕事をしろやれサボるなと、追いかけ追いかけ回されているような間柄のくせに、時折、怖いくらいに息の合った連携を見せる我が隊のツートップ。どうせなら普段の仕事でそれを披露してくれればいいものを、と、名前は乾いた笑いで項垂れた。

結局、すべては日番谷の手のひらの上だったわけで。

ともすれば、今回の元凶とも言えるあの夜に至るまでの自分の行動さえも、すべて日番谷の計算だったのではないかと。あの、優しく抱きしめあやしてくれた心地よい香りさえも図られていたのではないかと、名前の背中をひやりとした汗が伝う。



「それで、だ、名前…さっきの台詞回しをぜひもう一度、直接、聞きたいものだが?」

「ひえぇっ…」



遅かれ早かれ自分の葛藤を知られてしまうのならば、せめて理路整然ときちんとした形で白状したかったと名前は嘆く。あんな風に、乱菊に追い立て追い詰められて自白させられたのでは、余計なことまで言ってしまうし言わされてしまう。
恥ずかしさの極みだと頭を抱える名前だが、だがしかし本人が言うところの理路整然とした、本音であって本音でないような講釈では、どうせ日番谷を満足させ得ることは出来なかったであろう。
だからこそこんな回りくどい手を使われたのだということに、名前が気付けるようになるにはまだ時間がかかる。



「怖いくらい好き、とは…まさにまんじゅうこわいだなぁ名前」



笑えない、頂けない冗談だと、名前はふるふると首を振る。いつの間にか先程よりも詰まった日番谷との距離に、高鳴る胸はときめきではなくこの後の展開に対する逼迫感だ。
「喜べよ、久里屋の期間限定の饅頭付きだ」と、得意げに掲げて見せる日番谷に、それはもう文字通りのまんじゅうこわいだと名前の顔が情けなく引きつった。



「何なら、濃くて熱いお茶でも淹れてやろうか」



一応手土産を持って来ている辺り、日番谷なりに名前のことを想い気遣っているのだと。そのことに今この場で気が付けているのは、恐らく乱菊一人だけで。
久里屋の期間限定饅頭は、入手が手間な代物だけあって、中々どうして、緑茶によく合う逸品だった。






end


 

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