確信犯
はあ、と名前は溜息を吐いた。
鏡の前で、さらりと髪を掻き上げる。袴を履き、腰紐を結びながら朝の支度。部屋の主は一足先に出掛けた後で、少しだけ寂しいと思いつつ変に恥ずかしがらずに着替えられると一息ついていた…のだが。
「…これ…」
首筋左側、鎖骨の少し上辺り。
濃い赤色に少し紫がかった鬱血痕がちらりと襦袢の縁から覗いていた。
キュッと襟元を合わせてみても、ぎりぎり見え隠れしてしまうそれは、ぶつけたわけでも怪我をしたわけでもなく、口にするのは幾分羞恥心を煽る…いわゆるキスマークというもので。もちろんこれを付けたのは、言うまでもなくこの部屋の主、日番谷である。
「どうしてだろう、中々消えないな…」
自分が今この部屋にいるということは、それはつまり昨夜もそういうことがあったわけで。日々仕事に忙殺される恋人、日番谷ではあるが、時間がある時は半ば強制的に彼に抱かれ倒されていた。だがしかし、そうは言っても、流石に連日連夜、というわけにはいかないし、そもそもそれは名前の方が無理な話である。
「んんー…」
日番谷の行為は、普段のそれからは想像出来ないほど濃く、激しい。もちろん、彼が初めての名前にとっては比較対象がないので何とも言えないが、その名前がそう感じてしまう程度には凄かった。
だから、いつも日番谷との翌日には鏡を見ると身体中大変なことになっていて。鬱血痕や噛み痕が至る所に散りばめられていて目も当てられない。ただそれでも、半日もすればそのほとんどは薄っすら消えて目立たなくなっているのだ。
それなのに。
「…なんでここだけ…」
一カ所だけ、赤く赤く主張しているそこ。
昨夜一緒に付けられたであろう他のものより一層も二層も濃く、薄らいで消えてゆく気配がない。いつの間にこんな風にされたのだろうと昨日を思い出そうとして、そうして思い出すより早く顔が熱くなってきたのを感じて慌てて名前はやめる。そもそも、思い出したところで記憶は飛び飛びだろうから元より無意味な話なのだ。
はあ、と再びの溜息。
そういえば、今朝方、まだ覚醒しきらない頭の片隅で、これと同じような所に熱を感じた気がする。
昨晩、今日は朝早くから新入りの隊員たちの修練を見ると話していた日番谷。その言葉通り、今朝方早く、小鳥たちのさえずりがやけに大きく聞こえるような静かな朝の中に立つ日番谷の姿を、名前は半分夢の中で見つめていた。
気だるげな雰囲気を纏いながら、それでもてきぱきと素早く身支度を整えていく姿に、時折朝の陽射しに眩しそうに目を細めながら髪を掻き上げる姿に、夢見心地でうっとりしていたのが名前である。
はらりと裾を靡かせて羽織を纏った日番谷は、ふと気づくと、こちらの方を振り向いていた。ぼんやりとした瞳のせいか、眩しすぎる朝日のせいか、振り返ったその顔は良く見えない。
そうして名前のすぐ横まで来た日番谷が、覆い被さるようにして、顔の両脇に手を突いて見下ろしてくる。さらりと髪を撫でられ、頬をなぞられ、気持ちよさに目を細めながら見上げれば、ようやく日番谷の顔が見えた。
その瞳は普段のそれと同じ、鋭くて冷ややかで凛とした翡翠色。夢うつつ、ぼんやりとした瞳で見つめ返したところで、名前には何の意思も読み取ることは出来ない。そうしているうちに視線はゆっくりと下って、首筋、鎖骨の辺りでぴたりと止まる。
瞬間――。
薄く禁欲的なその唇から牙が覗いて、首筋左側、鎖骨の少し上辺り。ちくりとした痛みと熱が、身体を走った。
「もしかして、ここ、だけ…?」
水滴が岩に穴を穿つように、薄紅色も、重ね続ければ真っ赤に燃えるような赤になるのだろうか。
まさか流石にそんな面倒な、馬鹿げたことはしないだろうと、名前はかぶりを振る。朝の陽射しの中で見た日番谷の瞳は、いつもと変わらない射抜くように鋭利で清廉なものだった。そのまま小難しい会議の話でもし出しそうな自制的で理知的な唇も、普段と何ら変わりない。
でも、だったら、どうして。
繰り返される、いつも同じ場所。
だから、本当に痣になってしまった?
そんなことあるはずがない、出来るはずがないと、名前は苦笑しながら腰紐をキュッと締め上げる。意図的に、こんなにも濃く赤く染み付けようものなら、それこそ一度や二度では無理な話だ。もし、身体を重ねる度に意図されていたとしたら、なんて。良くも悪くもクールと評される日番谷に限って、そんなことをするなんて名前には考えられなかった。
たまたま、濃く痕が残ってしまう時もあるのだろう。人間の体も、そう合理的なものではないのかもしれない。いつもより襟をきつめに合わせて、名前は身支度を整える。
ちらりと鏡を見やって、それからよしっと小さく気合いを入れ直した、少しだけ揺らめく瞳。その胸の奥底。夢の中では、どうしてだろう…あの禁欲的な唇が、妖しく淫靡に、ゆるりと弧を描いていた。
end
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