数日間の任務を終えて家に帰ってきた頃には、すっかり日付を跨いでいた。
明かりのついていない部屋からは朔の気配がする。帰りは何時になるかわからないから、先に寝ていていいと言ってあるので、言いつけ通り先に寝ているらしい。
気配を消してそっと寝室を覗くと、朔はよだれを垂らして気持ち良さそうに眠っていた。そんなアホ面さえも愛おしくて堪らない。朔の変わらぬ姿に家に帰って来たんだとようやく実感が沸いてくる。半開きになった口元から垂れているよだれを拭って、汗と砂埃に塗れた体を洗い流そうと静かに浴室へ向かった。
目を覚ますと、隣はもぬけの殻だった。出て行ったこともわからないくらい熟睡していたらしい。キッチンからはトントンと小刻みな音が聞こえてくる。昨晩の疲労が抜けきらない体をなんとか起こしてキッチンへ向かうと、エプロンをつけた朔の後ろ姿が目に入る。包丁をリズムよく動かしていた朔はオレに気づいたのかその手を止めて振り向いた。
「おはよう、カカシ」
いつもより控えめに笑う朔に少しの違和感を覚えたが、任務に出ていて数日ぶりに会えた嬉しさが勝り、あまり気に留めることなく朔を抱きしめた。
「ただいま」
「おかえり。今日は休みなんだからもう少し寝ていればよかったのに」
「朔はこの後任務でしょ?お前が行ってからまた寝るよ」
今会わなかったら、次は朔が帰って来る夕方まで会えない。早く朔エネルギーを充電しないと、枯渇しすぎて死んでしまう。久しぶりの朔の感触と匂いに、早く会ってこの手で抱きしめたいと逸っていた心が、徐々に落ち着いていく。
控えめに背中に回された腕が愛おしい。
少し体を離してキスをしようと唇を寄せる。あと数センチ。唇が触れるか触れないかのギリギリの距離に迫った時。
「あ、朝ごはん作らなきゃ。任務で大したもの食べてないと思っていろいろ用意してあるんだよ」
朔が思い出したように言って、スルリと腕の中から抜け出した。
確かに任務中は兵糧丸ばかりでろくなものを食べていないから、しっかりした朝食を用意してくれるのは有難い。けど、今のはあまりにもタイミングが不自然すぎやしないか?もしかして、拒否られた?いや、拒否るなら今まで殴るなり突っ撥ねるなりなんらかの抵抗があった。やはり気のせいか。
朔とキスしたい、という数日間抱えた欲求は、そう簡単には消えてくれない。
鍋に味噌を溶いている朔を後ろから抱きしめると朔は「危ないよ」と注意するだけで腕を解こうと嫌がる素振りはない。さっき拒否られたと感じたのは思い過ごしだったんだ。安心したオレは朔の肩を抱き寄せて唇を寄せた。
「だめーーーーっ!!」
唇が触れる寸前、思いっきり突き飛ばされた。
突き飛ばされた拍子にテーブルの脚に頭をぶつけて座り込む。打ち付けた箇所がズキズキと痛むけど今はそんなことどうでもいい。
朔が示した完全なる拒絶。
朔と初めてキスを交わす前は、朔が恥ずかしがって何度か拒まれたことはある。だがそれもここまで酷くなかったし、最近は受け入れてくれていたのにどうして……。
縋るように見上げると、朔は気まずそうに視線を逸らした。
「ご、ごめん……」
「嫌だった?」
「そういうわけじゃないけど…今は困るっていうか…」
語尾を小さくしながら朔の視線が左右に忙しなく泳ぐ。
「ご飯、朝ごはんにしよう!大変お味噌汁が沸騰してる!」
朔はこれ以上は聞くなとばかりにくるりと背中を向けてしまった。
……朔が、明らかにおかしい。
だが、朔がおかしいのはそれだけではなかった。
「ご飯の量少なくない?」
「そう?いつもこんなもんだよ」
いやいや、ご飯の盛りいつもの半分以下でしょ。おかずやみそ汁もいつもより量が少ない。え、何、ダイエットでも始めたの?
「早く食べないと冷めちゃうよ?」
「あ……うん」
箸で摘まんだ白飯をじっと見つめ思いつめた表情をしたかと思えば、重い溜め息を吐く。オレ達数日ぶりに会ったんだからいなかった間の近況報告とかもっと話があるはずなのに、話も振ってこないし口数もいつもより少ない。
朔とはそれなりに長い付き合いだけど、こんな朔は初めて見る。任務に行く数日前は普通だったのにオレがいない間に何かあったのか。それとも知らないうちにオレが何かしてしまったのか。
唯一ある心当たりといえば、数日間会えなくなるからと出発前に何度もキスを迫ったことくらいだけど、なんだかんだ朔も満更でもなさそうだったから安心しきっていた。数日経った今でも怒ってるくらいには嫌だったんだろうか。
「朔」
声をかけると朔は返事をすることなく視線だけをオレに向けた。え、何、返事もしたくないってこと?
「この前の、怒ってる?」
恐る恐る訊いてみた。
「この前?」
「オレが任務に行く前、何度も迫ったでしょ……あの時はごめんね」
「別に怒ってないよ」
「本当?」
怒ってないようには見えないんだけど……。
箸を置いた朔が急に立ち上がる。
「ご馳走さま。もう行くね」
朔は食器を流しに持っていくとそのまま部屋を出て行ってしまった。
駄目だ……朔が機嫌悪い理由が全くわからない。
朝食を摂ったらあいつの好きな店の大福を買って来よう。今はそれしか朔の機嫌を直す方法が見つからない。
大福と朔が以前食べたがっていたわらび餅もついでに買ってきた。物でつるのはどうかと思うが、朔の機嫌を直すにはこれが一番手っ取り早いのは長い同僚期間のうちに心得ている。
「ただいま」
「おかえり」
「つかれたー」
「お疲れ」
帰ってきた朔はいたって普通だ。
「お前の好きな店の大福と以前から食べたがってたわらび餅買ってきたよ」
「え!本当!?ありがとう!」
大福とわらび餅を見るや否や朔は目を輝かせた。
よかった、食い意地がはってるいつも通りの朔だ。
しかし、みるみるうちに朔の表情は曇っていき、なんとも言い難い表情をしている。まるで自分の中で何かと葛藤しているような……。
「今日は止めておこうかな」
「え!?」
あの朔が大福を前にして、手をつけないことなんて今まであっただろうか、いや、一度もない。
「食欲ないみたいだけど、具合でも悪い?」
「そういうんじゃないの」
「なら、」
「ごめんカカシ。今は放っておいて」
朔はオレの言葉を遮ると、足早に寝室の向こうへと閉じこもってしまった。
だめだ。朔が何を考えているのか全然わからない。
このまま別れるとか言い出したらどうしよう。ようやく恋人らしいことができるようになってきたのに、これで終わりだなんてことになったら……。
寝室の戸に額を当てた。この向こう側に朔の気配がはっきりと感じ取れるのに、触れられないことがもどかしい。
「朔、出てきてよ」
しかし、返事はない。
「オレのこと嫌いになった?オレが何かしたなら謝るから……別れるなんて、言わないでよ」
少しして、寝室のドアがゆっくりと開いて朔が顔を出す。
朔は視線を一度足元に落として服の裾をぎゅっと握って顔を上げた。
「…………笑わない?」
「笑わないよ」
「……実はね」
「うん」
「……」
「……」
「口内炎が痛くて……」
「うん」
「……」
「……」
「それだけです」
「それだけ?!」
「ああもう、だから言いたくなかったのに!」
「どれ、見せて?」
ここ、と見せられた朔の唇には大きな口内炎が二つできていた。確かにこれは痛そうだ。これだけ大きいと食事のペースが遅いのも口数が少ないのも表情が浮かないのも納得してしまう。
「だからってキスまで嫌がることないでしょーよ」
「だって、カカシべろべろするから絶対痛いもん」
「べろべろって……」
確かに最近は朔が拒まないのをいいことに、触れるだけのキスでは飽き足らずやりたい放題だった気がする。まさかそれで避けられることになるとは思いもしなかった。
「口内炎って……ククッ」
「笑わないって言ったのに!」
嫌われたのではないと安心したせいか笑いが止まらない。
口内炎が痛いからって、なにそれ……可愛すぎでしょ。
「朔、それってさ、オレにべろべろされるの期待してたってこと?」
「…っ!そういう意味じゃなくて!」
「ふーん。なら、痛いところ触らなきゃ問題ないよね?」
「え」
「痛くしないから、してもいい?」
「…………うん」
朔が小さく頷いたのを確認して、壊れ物に触れるように唇を重ねるだけのキスをした。
唇を離すと物欲しげに見つめてくる朔と目が合う。
「やっぱり……これだけだと物足りないね」
「そうだね」
「口内炎が治ったら、またいつものちゅーしてね?」
「……」
オレとしては今すぐにでもしたいんだけど、生殺しにもほどがある。
相変わらずな朔に内心溜め息を吐きつつ、もう一度触れるだけのキスをした。
◆一大事件です。
――数日後。
「カカシ、今度は反対側にできちゃった」
「……」
流石に反対側の口内炎まで治るのを待っていられなくなり、痛がる朔にい強引に口づけたのはまた別の話。
2017.07.21