魔の時間

午後4時半を過ぎた頃。


氷帝学園テニス部部員は全員練習に励んでいた。
部室の中にいても聞こえる部長の怒声とボールを打つ音。その音を聞きながら、私と1つ上の中谷先輩はマネ業に精を出していた。

私は新しく部費で購入した物を戸棚にしまい、中谷先輩はドリンクを作っている。


「ねぇ如月さん」


今思えば、先輩のこの一言が事の始まりであったように思う。
まぁ、どんな事をしても避けられなかったようには思うが。

中谷先輩は、私に背を向けたまま話を続ける。
私も戸棚の整理を続行した。


「如月さんはテニス部のみんなの事好きだよね。私も好き。だけど神様って不公平ね。」

『先輩?』


私は手を止めて先輩の方を見た。
流石に何か様子が変だと思ったから。しかし先輩は依然私に背を向けたままで黙々とドリンクを作り続けている。

先輩の名前をもう一度呼んでみたが応答はない。
何処か具合が悪いんじゃないだろうか、と先輩に近づき肩に触れようと手を伸ばす。


『―ッ!!』


パシンと私の手は払われた。手の甲は赤くなっていて、もう一度先輩を見るがやはり何も変化はない。


「私、あなたが大嫌い。何故だかわかる?分からないでしょうね。こんな惨めな思いしてる私の事なんかあなたには到底分からないでしょうね。」

『せ、先輩…』


先輩の肩が震え、背中からは私への敵意が見える。
私の足が何故か震え、背中にぞわぞわと寒気が走っていく。


「もうこんな思いはこりごりなの。それに人の気持ちはきちんと尊重して分かってあげるべきよね。わたしの立場になってみたらきっと分かるよね。」


やっと先輩は振り向いた。
その頃にはすでに、私の足は言う事を聞いてくれない状態で、唯一動いている脳みそをフル回転させた。

しかしその脳みそも、先輩の冷たい瞳にやられてしまったのかうまく回らない。
先輩がさっきまで作っていたドリンクのボトルのうち1つを手にとって眺めた。私からはずされた視線に安堵して座り込みそうになるのを必死にこらえる。




「さて、問題です。このドリンクのボトルを私が頭から被って悲鳴を上げたとします。私は一体どうなるでしょう。そしてあなたはどうなるでしょう。
シンキングタイム、スタート。」


恐ろしく冷たい笑顔を向けられ、さらに足がすくんだ。何も出来ない。
狂ったようにカウントをしている先輩。残り時間は数秒。

私は制限時間内に何も答えられなかった。先輩はブブーッと口で言い、頭からドリンクを被った。
空になったボトルを私のほうへと投げ、ニヤリと笑ってこう言った。



「正解はこれです」


けたたましい叫び声をあげた後、先輩は満足そうに私を見た。


「正解出来なかったね、残念。」



先輩は蹲り、私は呆然と立ち尽くした。
扉の外から大きな足音が聞こえ、やがてその足音は私を囲む。


「紗江どうした!!」


部室に一番最初に入って来たのは跡部先輩。それに続いて次々先輩達が入ってくる。
レギュラーしかここにいない所を見ると、おそらく先輩の悲鳴はレギュラーコートまでしか届かなかったようだ。


「…っ」

「紗江!?どうした、なんでお前こんなびしょ濡れなんだよ…」


蹲っていた中谷先輩は跡部先輩に飛びついた。
泣いている中谷先輩を支えながら、跡部先輩は今この状況をどうにか理解しようとしている。


「何があったのか説明しろ志帆」

『…わ、わかりません……』


そう言った途端、中谷先輩の視線がまた私に突き刺さる。
涙目で私を睨みつけている。


「何でそんな嘘…!!如月さんが私にドリンクかけたんじゃない!!そんなに私が邪魔ならそう言ってくれればいいのに…。何で、こんな…こんな………っ」

「紗江、もういい。大丈夫だ。お前には俺達がいてやるから。シャワー浴びて着替えて来い」


いよいよ訳が分からない。
困惑の表情だった先輩達は、いつのまにか中谷先輩と同じ目で私を見ていて、それが怖くて私は後ずさった。


「何故嘘を言った」

『嘘じゃありません』

「それを嘘って言うんだろ!!お前は今まで雇ってきたマネージャーの中でもダントツで優秀だったが、幻滅した。最低だな。所詮お前も他の女共と同じって事か。」

『違います!!私じゃない!!私じゃありません!!』

「じゃあ何で紗江は泣いてた…!!」


わかりませんとただ答える事しか出来なかった。何も出来なかった。
反論できるような根拠も私にはなく、理解したのは今ここから逃げないと大変な事になるかもしれないということだった。

私の単調な答えに怒りが頂点に達したらしい跡部先輩は、私に近づいてきて手を振り下ろした。
その手は私の頬を容赦なく打ち、力の入っていない足を簡単に折らせた。
膝をついた瞬間、私の鳩尾に衝撃が走った。

跡部先輩に蹴られた事を理解したときにはすでに、次々と攻撃が振ってきていた。
もうどれが誰の足なのかわからない。飛びそうになる意識を保ちながら、私は顔を上げて先輩達の顔を仰ぎ見る。


『私…じゃ、ない……』


最後の反論だった。しかしその言葉も全てを言い切る前に再び蹴りを入れられ遮らざるを得なくなった。
そしてその一撃で、糸が切れたように私の意識は飛んだ。


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