「終わってみれば、……案外、あっという間なものだ」
 未練があるわけではないが、それでも長い時間過ごした場所に愛着がないと言ったら嘘になる。振り向かずに歩く俺の横を通り過ぎた二人組がケラケラ笑いながら肩を組んで歩いくのをつい見入ってしまったのは、その二人が昔の自分に重なったから。ガラスに映る自分は、彼らのように若く、なんでもできると自分の力を過信していたころとは違い、しわも白髪も増えて老けた顔だ。警察学校の同期で、馬鹿ばかりやっていたあいつらがいたらお互い年を取ったなと笑いあい、馬鹿な話をしながら酒を酌み交わしていただろうか。何度考えても年相応に、落ち着いて話をするなんて想像ができないのは、あいつらが皆、今の俺の半分か、下手したら三分の一くらいの年で逝きやがったせいである。記憶の中のあいつらは、いつまで経っても若いままで、今俺があっちに逝ったら上司と部下、いやそれ以上の年齢差があるだろう。まあ、警察官になりたて二十そこらのあいつらと、今日定年を迎えた俺とはそれだけの差が開いて当然なんだが。フィクションの中では都合よく若い頃の姿に戻って笑いあうなんてのをよく見るけれど、そしたらそしたで今の俺しか知らない孫なんかが来た数十年後に誰か認識してもらえないだろうな。まあ天国なんて存在自体がフィクションだし、あったとしても俺が行けるなんて思ってはいないのだが。先日五歳になったばかりの孫は、その親である息子は俺に似たはずなのに、目元のあたりが妻によく似ている。成長したら彼女のように美しくなるんだろうかと考えて、俺もずいぶん年を取ったと苦笑した。家に帰れば、妻がいて息子がいて娘がいて、おかえりと声がかかる。それに対してただいまと返す俺が、その度に幸せだと柄にもなく泣きそうになっていたと知っているのは妻である彼女だけだろう。息子が家を出て、娘も嫁に行って、新婚当初のように二人の生活に戻っても彼女は俺が帰るたびに花がほころぶ笑顔でおかえりをくれるのだから。
「そういえば俺は今日で恋人と別れたわけか。」
 正確にいえば違うのかもしれないが、それでも一区切りがついたことは間違ってはいないだろう。零くんの恋人はこの国だものね、と笑う彼女を思い出す。初めて言われたのはまだ、彼女の姓が降谷ではなかったころ。結婚するまえからこの国が、仕事が恋人だという俺に愛想をつかすこともなく、ずっと隣にいてくれた彼女。左手薬指の銀色をくるくる回しながら、いつまでたっても可愛いままの彼女を想う。ふと思いついて足を止めたのは、個人経営だろうか、小さな一角の花屋だ。声を掛けてきた店員に希望をつい耐えながら考えるのは彼女のことばかり。喜んでくれるだろうか、なんて考える俺は、いつまでも彼女に恋をしているらしい。



「ただいま」
「あー!おかえりおじいちゃん!」
「え。……ああ、来てたのか」
「おかえり零くん」
 玄関のドアを開けてすぐ、トトト、と軽い足音と共に飛び込んできたそれを抱きとめる。にっと笑っておかえり!と言ってくれるその目元は相変わらず愛しい妻に似ている。その奥でにこにこと笑う彼女にただいま、と言うが、内心の俺の嘆息に目敏く気付いたのだろう、「どうかした?」と声を掛けられた。相変わらず隠し事はできないらしい、と苦笑いして「何でもないよ」と返し、孫にカバンを持たせ、リビングのソファに置いておいてと言えば、素直なその子は言う通りに駆けて行った。
「で、どうしたの?今日は零くんお疲れさま会って言ってみんな集まってるけど、体調悪いなら帰ってもらう?」
「いや、大丈夫だよ。みんな、ってみんな?」
「息子も娘も、お嫁もお婿も、孫もそろってみんな、よ」
 ありがたいことではあるのは分かっているが、なんで今日、と思わないと言ったら嘘になる。眉を寄せて、本当に大丈夫?と尋ねてくる彼女に「何でもないから」と返しても、その目は信じていないとありありと語っている。
「……本当は、きみと二人で食事に、と思ってたんだ。好きなものを食べに行こうって柄にもなくはしゃいでた」
 そういえば彼女は肩を撫でおろし、「じゃあ、二人でデートは明日以降に延期ね」と笑った。「そうしよう」と返して、わざとらしく「車に忘れ物をしたから、先にリビングに戻ってくれないか?」と、ポケットからキーを取り出して告げれば、分かったわと苦笑した彼女。あの子たちが待っているから早くしてね、と続ける彼女に、頷いて返事をした。レストランを予約したのも本当だから、早いところキャンセルと再予約の連絡を入れなければならないのだ。本当の目的はほかにもあるが、それを彼女は気付くはずもない。
 車の後部座席に積まれているのは、白のアイリスとサンザシの花束だ。これを渡したら、分かっているようで実は分かっていない俺の最愛はどんな顔をするだろう。一つの花びらも損なわぬよう、丁寧に持って再び玄関に向かう。ふう、と息を吐いて、いままでのすべてを思い返す。出会って、付き合って、結婚して、子どもを授かり、今度は孫をこの手で抱いた。そのすべての思い出に彼女がいるというのは、どれだけ得難く、幸福なものだろう。
 玄関を開けて、そのままリビングに向かえば、全員の視線が俺に集まる。それでも他を見ることなく、まっすぐに彼女のもとに向かって膝をついて、その左手を取った。きょとん、とする彼女の薬指にキスをして、持っていた花束を渡す。
「な、れ、れいく……!?」
「今までさんざん待たせてすまなかった。今日からようやく、きみだけの俺になれる。だから、きみを幸せにする権利を改めて、俺にくれないか」
 白のサンザシは“ただひとつの恋”、そして白のアイリスは“あなたを大切にします”だ。真っ赤な彼女の頬を撫でながら、「返事をくれ」と言えばあの頃と同じように「喜んで」と俺の大好きな笑顔で応えてくれた。その唇にキスをしながら、「もう一度白無垢を着るか」と問えば、「もうさすがに似合わないわよ。……でも待って、零くんの紋付き袴はにあうわよね」と真剣な表情でつぶやくのだからこっちが笑ってしまう。
「俺はなんでもいいけど、きみが似合わないわけがないだろう」
 そういってもう一つキスをしようと顔を寄せれば、ゴホン、とわざとらしい咳払いが二つ響く。
「いいところだってわかるだろ邪魔するな」
 誰が、なんてわかりきっているから振り返らずにそういえば「子供の前だろ自重しろ万年新婚夫婦!」と怒鳴られた。うるさいな、ここは俺と彼女、二人の家だぞ。何したって勝手だろ。そう返せば、「そういう問題じゃない!」と言われてしまう。だが、それすら幸せだと思うのだから俺はどうかしているのかもしれないな。
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