八月の亡霊

蝉の高らかな鳴き声が古い団地住宅に響き渡る。その短い寿命を全うするかのような叫び声は夏の風物詩だが、劈くような大合唱は毎年この時期を憂鬱にさせる。耳障りなその声は頭の奥に残り続け、しばらくの間は鳴り止まない。窓の近くに木が無い自室にも構わず突き抜けてくるその騒音についに集中力が途切れ、走らせていたペンを止める。小さく伸びをしてうっすら額に浮かんだ汗を拭い、机に置いておいたコップに手を伸ばすと中身は空っぽだった。気付かぬうちに麦茶を飲み干してしまっていたらしい。我慢することも考えたが、一人寂しく熱中症で死ぬのはやるせない。暑さと喉の渇きと孤独死に耐えることなど到底無理だと観念し、冷蔵庫へと向かった。
扉を開けるとひんやりとした冷気が火照った顔を包み込む。今、家には自分一人しかいない。電気代が食うから普段は必要最低限の開閉を要求される冷蔵庫を開けっ放しにしても誰にも怒られない。その事が少しばかり新鮮で、我が物顔で全開にすると、一気に地獄が天国へと変わった。この歳にしてこんな幼稚なことで楽しんでいるなんて我ながら本格的に暑さにやられてしまったのではないかと心配になるが、逆に今までが年不相応に、無理に大人過ぎた。何事もくだらないと見下しては子供染みていると唾を吐き、大人ぶっていた嫌な子供だった。きっとその反動なのだろう、何度か開閉を繰り返して涼をとると自分の中の何かが満たされた。涼しくなったことにいくらか満足して目的の麦茶を注ぎ、冷気を後にする。
ふと、全開になっている居間の窓を恨めしげに見やる。騒音が自室にまで到達する理由を見つけた。居間側のサッシは全開で、その近くの木に此処ぞとばかりに声を張り上げる苛立ちの原因がいた。全くと言っていいほど入ってくる気配のない風を期待して開けておいたのだろう。クーラーなんて高級品の付いていない集合住宅では自然の風は頼みの綱だが、四方八方を似たようなコンクリートの建物で囲まれている上にここは工場地帯。入ってくるのは嗅ぎ慣れたものの決して好きにはなれない煙の臭いと、たまに漂ってくる他所の家の晩御飯の匂いくらいだった。かえって煩いし、家の中が臭くなるのでその隙間を小さくする。その近くには申し訳程度に扇風機が鎮座している。入ってくればラッキーな自然の風の補助のつもりだったのだろうけど、今となっては人工の風の方がメインになっている。大方、弟が出かける間際までその恩恵を受けていたのだろう、首が斜め右に傾いていた。真正面に位置を直し、部屋へ戻ろうとした時、タイミング良くチャイムが鳴った。
出た先で受け取ったのはこの棟の回覧板だった。
ご苦労様です、なんて作り笑顔で受け取ったその向こうに、灰色に覆われた空が見えた。この自治体では読んだら印鑑を押して次の家へと回す。しかし、町内会にもボランティアにも参加していない僕に回覧板の内容など分かるはずなどなかった。母親が帰ってきたら適当に読んで回すだろうと開く事すらせず玄関へと放った。今度こそ部屋に戻ろうと玄関に背を向けるも、先ほど目に入った空がどうも頭から離れなかった。この暑さに自ら外へ出るのは自殺行為だと十分理解している。してはいるものの、足は無意識に洋服タンスへと向かい、手は自然と外出用の服を手にとっていた。
「気分転換に散歩でもするか」
幸いにも今は夏休み、時間はたっぷりある。灰色に導かれるように部屋を出る直前、カレンダーが目に入る。暦は葉月、日は友引だった。


***

しばらく団地に沿って歩き、そこから町の近辺をうろうろしてみたものの早くも後悔していた。家では騒音に悩まされていたが、屋外ではそれに熱が加わった。蝉よりも更に厄介なのはこの気候だったことに今更気付く。照りつける陽射しは容赦無く降り注ぎ、体中の水分は奪われていく。滴る汗はTシャツの色を変え、頼まなくともべっとりと肌にまとわりつく。その気持ち悪さといったら天下一品で、毎年経験していてもなかなか慣れることは出来ない。普段はあまり汗をかかない自分でも、この時期だけは例外だった。
何をせずともじんわりと汗ばむ陽気に毎度のことながら苛々させられる。それは家の中でも外でも同じことなのに。外に出れば少しは空気も変わるだろうと期待してみたものの、ここが何処だかすっかり忘れていた。ここは黒い煙に覆われた忌み嫌われた町、螢光町なのだ。そんな町にテレビや映画に出てくるような真っ青な空や遠くに広がる入道雲を望むことがそもそも間違いなわけで、誰も頼んでいないのに勝手に落胆しては「何をやってるんだ、僕は」と独りごちる。
とりあえず日陰に入ろうと休めそうな場所を探すと、表通りから一本奥に入った所にひっそりと石段が伸びていた。それに沿うように並んだ木々がちょうどいい具合の日陰をつくり、石段の一帯は心地良い避暑地となっていた。その上には何の神様が祀られているかは分からないが、小さな神社があった。誰もいない神社はまるでそこだけ切り取られた別空間のようで、しかし自然と不気味さは感じなかった。というのも、ここは以前来たことがあった場所だった。一人ではなく、とある人物と共に。その顔を思い浮かべるとそういえば、とあることに気付く。幾分前からこの季節、特に茹だるような暑さの時には、何故かその顔が浮かぶようになっていたことに。
知り合ってからだいぶ経つが、その浮世離れした容姿と人間味の無さは未だに理解出来ていない。というより、理解する云々以前にその人物は色々な点において規格外だった。白く透き通った肌、大きな瞳に長い睫毛、艶やかな黒髪に筋の通った高い鼻、極めつけは紅を引いたような真っ赤な唇。これはもう天も二物以上を与えすぎだろうと思うほど完璧なものだった。
そんな完全無欠な容姿を持っていたが、その人に唯一残念な点があるとすれば、その神の最高傑作とも言える容姿を全てぶち壊すほどの奇行だろう。黙っていれば道行く人の全て、老若男女を問わず誰もが息を呑むであろう恵まれた容姿の持ち主が、実はとても口には出来ない、それどころか口にするのが憚られる程の数々の所業に及んでいたなんて誰が想像できただろう。


***

螢光中学校二年、雨谷典瑞。光クラブにおいて「八番 漆黒の薔薇 ジャイボ」と呼ばれる奴の奇行は突然始まる。大概はその場の思いつきで開催が決定されるので、一緒にいた身としてはたまったものではなかった。
ある時は、いきなり道端にしゃがみ込んだと思ったら蟻の行列を巣穴もろとも破壊していた。やめろと止める頃には、破壊に飽きたのか、ぶちぶちと雑草を抜いては道へと放り捨てる、をしばらく繰り返していた。
またある時は、教室で静かに寝ていたと思ったら無言で一枚の白紙をひたすら真っ黒く塗り潰していた。周りには目もくれず一心不乱にサインペンを走らせる姿には一種の狂気を感じた。それと同時に、幼き日の自分の姿が重なった。部屋一面に広げた白紙の中央には真っ黒く塗り潰された星の絵。学校のノートには見開き一ページにびっしりと星が描かれている。呪われたかのようにただひたすら星が並んでいるそのノートは今も引き出しの奥に入っている。ヒトラーにも付いていない星がある。かつて胡散臭い占い師に呼び止められたのもそういえば道端だった。

そんな突拍子もないことが日常と化していたからか、本当に読む気があるのか怪しげな専門書を引っ張り出してきた時にはもう特に気にすることもなくなっていた。それよりも、それを隣で見ていたにも関わらず疑問や疑念を抱くことすら忘れていた僕の方が大概おかしかったのだろう。傍から見たら意味の無いようなこれらの行為も、ジャイボにとってはきっと何かしらの意味を持っていたのかもしれない。……いや、あれは単に自分の興味が湧いた結果か、本当の思いつきだった可能性が高い。いずれにしろ、これらの奇行に理由や説明を付けようと思ったら溶けた思考回路が更に蒸発しかねない。この時期にそんな自殺行為はやめておこうと頬を伝う汗を拭う。
これまではジャイボだから、という理由であらゆる奇行を気にも止めていなかったが、一つだけ忘れられないことがある。今だに鮮明に覚えていて、脳裏にこびり付いて剥がれない。まだ肌寒さが残る、春先の夜の基地での出来事だった。


***

皆が解散し、閑散とした秘密基地。そこに並ぶのはたわいもない話をする二つの背中。彼らにとって誰もいなくなった秘密基地での会話は日課だった。

「明日が何の日か知ってる?」
「ああ、エイプリルフールだろう?皆もこぞって明日はどんな嘘を吐こうか話してた。まあ、丸聞こえだったがな」
「あれって嘘を吐いていいのは午前中だけで、午後には本当のことを言わなきゃいけないんだよね。じゃないとその嘘が本当になっちゃうんでしょ?なんか変だよね」
「珍しいな、お前がそんな風に言うなんて。ここぞとばかりにそれを利用してとんでもない嘘を吐いて、皆を撹乱させそうなのに」
「そんなことないよ」

普段なら「きゃは、ばれた?」とすぐに認めて企みの内容を嬉々として語るのに、この時はいつもとは違った。「そんなことないよ」とやんわり否定し、ほんの一瞬だけ下を向いた。そしてすぐに顔を上げると「だってさ」と腰掛けていた台座から飛び降りる。そして僕の方へぐるんと顔だけを向け、普段と変わらぬ様子で言い放った。
「エイプリルフールだからって特別嘘を吐くような事なんてないよ。だって僕は君と初めて出会った時から君に嘘を吐き続けてるんだから、きゃは。」

お決まりの笑い声が僕を嘲笑うかのように廃工場に谺する。もちろん実際にしているわけでは無いのだが、聞き慣れたはずのその笑い声はいつまでも秘密基地に響き渡っていた。そんなこととは露知らず、ジャイボはいつものように帰り支度をし始める。呆然と固まったその時の僕は、きっと豆鉄砲を食らった鳩よりも間抜けな顔をしていたに違いない。さっきまでたわいもない話をしていただけのはずなのに、突然の攻撃に面食らったのだから。唖然とする僕をよそ目に何事もなかったかのような顔でジャイボは帰り支度を終える。そして、動かない僕に首を傾げながら

「なにぼーっしてるのゼラ、早く帰ろうよ。風邪引いちゃうよ?」

と帰路へ誘う。あ、ああと我に返り返事をするも、その頭は完全に働いていなかった。またいつもの気まぐれな発言だろう、そう結論づけた僕は小走りで先を行くジャイボの後を追った。
ジャイボはいつもと何ら変わりはなかった。エナメルをカツカツと鳴らして僕の隣を歩き、上機嫌に鼻歌を歌う。ジャイボの首に巻かれたマフラーは踏み込むたびに奴に合わせてぴょんぴょんと跳ねる。その度に僕の心臓もテンポを合わせ、どくどくとリズミカルに跳ねる。歩みを進めるごとに妙な違和感が僕の心臓を圧迫する。どうせ、僕に何か気付かせたい事があるんだろう。僕が鈍感だからまた何かしらのサインを見逃した。それに腹を立てた、だからあんなことを言ったんだ、きっとそうに違いない。
何時ものことだが、放っておくと後々面倒なことになるのがジャイボという人間だ。機嫌が悪くなるとライチより手が付けられなくなるばかりでなく、何をしでかすか分かったものではない。一体どうすればあの天邪鬼は治るのだろうか。やっぱり僕が折れるしかないのだろうか。でもそれだといつまで経ってもジャイボに振り回されたままだ、それは気に食わない。何かいい案はないものか。そうこう悩んでいるうちに分かれ道へと来てしまった。まあ、明日なんとか宥めて事の真実を聞こう。そう決めて十字路でジャイボと別れる。

「じゃあな、ジャイボ、また明日」
「うん、おやすみ、ゼラ」

明日になったらどうせ忘れているに違いないが、一応話は聞いてやらないと拗ねる。全ては明日にしよう、だから今日はもう寝よう。そう言い聞かせて落ちた眠りは酷く浅く、寝心地が悪かった記憶がある。たかが違和感、されど違和感。ジャイボの気まぐれは厄介なだけあって、意図が分からないと泥を抱いているような気持ち悪さに見舞われる。昨晩の泥はどうにも拭い切れず、僕の腕の中に抱えられたまま悶々とした罪悪感へと形を変え、翌朝には爆発していた。この時ばかりはジャイボの気まぐれだから、では気が済まず、お決まりの黒服に身を包み急いで家を出た。


***

秘密基地にはもう何人か集まっていて、今日のために用意した嘘を吐きたいといわんばかりにそわそわしている。そこにジャイボの姿は無かった。遅刻してくるなんていつものことで分かりきっていたはずなのに、何故かそれに気付かなかった僕は、ニコにまだ点呼を取らないのですかと声をかけられるまで無意識にその姿を探していた。
落ち着け、そう言い聞かせていつものように点呼と10ヶ条の読み上げを終え作業に入る。予想通り何人かが見え透いた嘘を吐いては僕に見破られ、悔しがったり落ち込んだりしている。ここまでは想定通り。あとはジャイボさえ揃えば今日の僕は盤石だ。そんなあと一歩、という時に何処からか声が飛んできた。

「あれ、ジャイボはまた遅刻なのか?」
「あ、そういえばしばらくは来れないんだって」
「珍しいな、あいつが来ないなんて」
「理由は聞かなかったけど、『僕当分光クラブには行けないからゼラに伝えといてね、根暗』って帰りに言われたんだ。わざわざ根暗って言いに来たんだよ、ジャイボのやつ」
「ジャイボらしいな」
「おい君達」
「は、はいゼラっ!」
「今の話は本当か?」
「え?あ、はい。昨日の帰り際に僕らのところにに来て…ね、ダフ?」
「う、うん。ゼラに直接言えばいいのにって思ったけどなんか凄い念を押されて…」
「念?」
「『この伝言は、エイプリルフール当日に言え』って」
「エイプリルフールに…?」

思わぬ事実を知ったと同時にまた違和感が胸を支配する。何故直接言わないのか、何故伝言を頼んだのか、そしてーー何故エイプリルフールを指定したのか。どんなに難問でも理路整然と考えれば答えは簡単に導き出せるはずなのに、これだけは考えれば考えるほど混乱し、悶々と黒い煙が頭を覆い尽くした。ジャイボの言葉が脳裏をよぎる。

『エイプリルフールだからって特別嘘を吐くような事はない』
『初めて会った時から嘘を吐き続けている』

ずっと嘘を吐いているのならばエイプリルフールを指定したことには意味が無いのか、別の意味を含めたものなのか、そもそも昨日のこの言葉自体がジャイボの戯言なのか、今だに判断がついていなかった。光クラブの間も答えを見つけようと試みたものの結局腑に落ちるものはなく、僕はその煙を振り払えぬまま、新学期を迎えた。結局その日以降、ジャイボに会うこともないまま。


***

年度始め特有の浮かれぶりが学校を包んでいた。毎年鼻で笑っていたこの時期も、今年はそんな余裕は無かった。急いでジャイボのクラスを確認し教室に行くも、その恐ろしいほど人間離れした容姿で人混みに紛れていても一目で気付くその人はどこにもなかった。まだ登校していないだけだ、よくあることじゃないか。春休みに抱いた感情に既視感を覚え、何をこんなにジャイボに固執しているんだと今一度考える。今まではジャイボの方から僕を求め、僕に縋り、僕を追いかけていた。きっと、普段追いかけられてばかりいたから自分から追うことに慣れていないんだ。そうに違いない、なんて簡単な事だったんだろうと自らを納得させ、目的を失った教室に背を向ける。あの日の事を僕は引きずり過ぎている、そう考え自分の教室に戻ろうとした時、見覚えのある黒髪が曲がり角から消えた。たった今納得させたばかりの思考が瞬時に吹き飛び、足は自然とその後ろ姿を追っていた。曲がった先は階段でその背中はもう踊り場の先にあり、またしても黒髪だけが視界に入る。

「待ってくれ!」

柄にもなく叫び、必死に後を追うも虚しく、次の曲がり角にはもうその姿は無かった。普段これといって運動をしないせいか、少し走っただけで息切れをする己の身体を恨めしく思いながら元来た道を引き返そうとする。しかし足は動かなかった。後ろ髪を引かれる思いどころか、見失った黒髪を肩ごと引き寄せられなかった後悔は思ったより長く尾を引いた。結果、その日、光クラブでは幾つもの単純なミスをするわ、皆からは異様に心配されるわで、とんだ一日だった。今日はこれ以上何をやっても上手くいかない、そう決断し早々に光クラブを解散させてまだ少し肌寒い帰路につく。数日前にはここを並んで帰っていたのに、今日、僕の隣には誰もいない。いつも孤独だったから一人には慣れていたはずなのに隣にジャイボがいないだけでこんなにも虚無感が襲ってくるなんて思ってもみなかった。

「僕も弱くなったものだ」

こんな風に呟けば、もしかしたらどこからともなく「そんなことないよ、ゼラ」とジャイボが現れるかもしれない。そんな淡い期待も虚しく僕のささやかな希望は夜風に吹かれて消え去った。それから数日が過ぎたものの、相変わらず学校でも光クラブでもジャイボの姿を見かけることは無かった。もう光クラブに飽きたのかもしれない。僕に愛想を尽かせてしまったのかもしれない。僕という人間に飽きたのかもしれない。ジャイボの気分は季節の如く移ろうので、もう違う何かに興味の対象が移っていたとしてもおかしくはない。
こちらを向いたかと思えばいつの間にかいなくなっている少年。その姿をずっと追い続ける事など到底不可能で、それ故に失った時の喪失感はとてつもなく大きく、同時に失った後の価値が莫大なものになる。ジャイボもきっとそうなのだろう。しかし、僕はそれを認めたく無かった。認めてしまったら自分もジャイボを求めていることになってしまうからだ。確かに綺麗な顔立ちだし美しい、いわゆる美少年で、面白いほど僕に忠実ではある。けれど所詮は男だし、少女捕獲の間までの暇潰しの玩具くらいにしか思っていなかった。なのにいつの間にかそれに情が移り、愛しくなり、焦がれていただなんて口が裂けても言えない。そんな訳のわからないプライドだけがいつも真っ先に出ていた為、ジャイボが好きだなんて認めることなど到底出来なかった。ジャイボに縋っていたのは僕の方だったのだ。それでもまだ意固地になって、自分は興味なんてないと虚勢を張る。

「ま、まあジャイボ一人くらいいなくなったところで、光クラブにはなんら影響は無いがな」
「えーそうなの?」

突然、後ろから声がした。聞き覚えのある、ここしばらく聞いていなかった、そして今一番聞きたかった声がした。そんなに経っていないのにもう何十年も会っていなかったように思えたその存在は、真っ黒な制服に身を包んでいた。いつもと何も変わっていなかった、それが夏服だということ以外は。

「ちょっと時間ある?」


***

何一つ変わっていなかった奴はすっと僕の横に並ぶとそう言って、近くの神社の石段まで僕を連れて行った。暦の上ではようやく気温が上がり始めたばかりでまだ衣替えの時期には早すぎるにも関わらず、鳥肌一つ立てずに肘より少し上までしか隠れない袖から腕が覗く理由は相変わらず分からなった。しかしそこにはジャイボがまだ生存していたことに少なからず安堵していた自分がいた。

「ずっと光クラブに行ってなくてごめんね」
「本当だぞ、もう来ないのかと思ったじゃないか」
「きゃはっ、僕がいなくて寂しかったんだ」
「馬鹿言え、そんなわけない」
「なんだ、そっか」

普段のやりとりのはずなのに、何かいつもと違うジャイボにまた違和感を覚える。しかし今はそれよりも、またこうしてジャイボの姿を確認出来て言葉を交わせている事の方が自分にとっては大きかった。

「ねえゼラ」
「なんだジャイボ」
「ゼラの幸せって何?」
「僕の幸せ?」

唐突に聞かれた疑問。自分の幸せなどじっくり考えてみたこともなかった僕は、一瞬ジャイボの問いに言葉が詰まった。僕の幸せとは何なのか、そもそも幸せとは何なのか。僕自身、ライチを完成させ、少女一号を捕獲出来た今を幸せだとは思っていない。ロボットの完成、少女の捕獲という目標が達成出来たという結果を幸せだと感じるならば、それは一時の満足でしかない。最終的な目標は永遠の少年になって世界を征服することであって、まだそれには程遠い。幸せになるというのであればまだまだやらねばならぬことが山のようにあるし、そもそも幸せなんて曖昧な概念は歳を重ねるごとに変わっていくものなのだから答えようがない。まあ僕らは歳を重ねるほど大人になるまで生きることなんてないのだから、答えるもなにもないが。

「うん。ライチが完成して、少女一号も捕獲出来て、次は何処を目指しているんだろうって。」
「それは勿論、世界を手に入れることさ」
「そうじゃなくてさ。幸せって自分が思ったような方向に物事が進んだ結果じゃないの?例えば世界を手に入れたとしても、帝王一人じゃ国は動かせない。だからその為には忠実な部下が必要だけど、ゼラには信じてる人なんているのかなって。いなかったらゼラの国は思うように動かないし、それは幸せじゃないでしょ?」
「……」

最奥を見透かされた気分だった。確かに光クラブ内において僕が心から信用している人間なんて誰一人としていなかった。光クラブをチェス盤に見たてて物事を進めてきただけの僕にとってメンバーはただの駒にしかすぎなかったし、どうせ裏切る輩も出てくるだろうとしか思っていなかった。けれど図星を突かれたことを認めるのも癪なので、僕は張らなくてもいい見栄を張った。

「いるさ。光クラブの面々は僕の指示に忠実に従ってくれるし、逆らう人間もいない。まあ、タミヤとカネダとダフは例外だけどな」
「ふうん……」

僕はこの時のジャイボの目を今でも覚えている。虚ろで無気力で吸い込まれそうな闇のような目。光は無く、何かを悟ったような諦めたようなそんな目をしていた。風が神社の周りを覆う木々を揺らしザワザワと葉を鳴らす。ジャイボの髪もそれに倣い、その目を隠すように綺麗な黒髪が靡く。それに目を奪われていると葉の擦れる音に合わせるかのように胸騒ぎがした。このまま風が止んだらジャイボがいなくなってしまうのではないかという根拠も無い不安に苛まれる。隣にはちゃんとジャイボがいるにも関わらず、手を掴んでおかないと何処かへ行ってしまう気がした。そんな無意識が僕の手を動かそうとするより先にジャイボの手が僕の手を握った。

「ゼラ、僕、ゼラに謝っておかなきゃいけないことがあるんだ」
「な、なんだ?」
「エイプリルフールの前にさ、ゼラと初めて会った時から嘘を吐いてるって言ったでしょ?あれ、嘘なんだ」
「……は?」
「だから、嘘って言ったのが嘘なの!最初から嘘なんか吐いてないんだ。ゼラに隠すことなんて何もないし、むしろ全部見て欲しい。僕ばっかり好き好き言ってるからちょっと意地悪したくなっちゃったんだ」

あまりにもあっさり言い放ったジャイボに呆気にとられる。あれだけ不安な気持ちになり、あれだけペースを乱され、あれだけ呼吸も乱されたにも関わらず、今までの違和感の結末はジャイボの気まぐれという形で収束した。やっぱりな、そう思うかと思いきや、今回ばかりはそんな気持ちより安堵感の方が優っていた。混乱が落ち着いて深い溜息を一つつく。はあ、と項垂れて顔を押さえると隣から恐ろしいほど美しい顔が覗き込んできた。

「ごめんねゼラ、怒ってる?」
「いや、少し拍子抜けしただけだ。またお前の気まぐれかと思ってたのに、姿は現さないわ連絡は取れないわでいつもより調子が狂ってた。ここ数週間はいつもの僕じゃなかった」
「それって、僕の事を少しは考えてくれてたってこと?」
「まあ、そういうところだ。」
「本当?嬉しいなあ。僕、ゼラに嫌われてたとばかり思ってたから」

そんなことはない、伏せ目がちに放たれた言葉をそう否定することは出来なかった。少なからず迷惑だと思っていた部分はあり、その罪悪感からか、また嘘を重ねることは憚られた。代わりに自分の手に重ねられた手を握り返す。

「すまないジャイボ」
「え?」
「確かに僕は今までお前をそういう目で見たことがなかった。いくら愛の言葉を囁かれても身体を重ねても、僕はお前を心から愛そうとは思わなかった。愛したくなかったんじゃない、愛せなかったんだ。僕は人を愛することにも、愛されることにも慣れていない。だから光クラブでも愛という言葉を禁じた。それなのに初めてストレートに感情をぶつけられて困惑していたんだ」
「……」


ジャイボは何も言わなかった。返事が来ないのは虚しかったが、これが今までこいつが僕にされてきたことなのだろう。自分がしてきたことを自分の身をもって知る。こんなにきついものだとは思わなかったがそれが真実だ。今なら申し訳なさを口からいっぱい吐きそうだ。ジャイボがいない間に感じていたことを素直に零す。罵倒されてもいい。今更遅いと叩かれてもいい。今伝えなければジャイボはいなくなってしまう。心のどこかで何かがそう訴えてきた。

「躊躇いも無く僕を好きだと、愛していると言うジャイボが羨ましかった。昔から人に距離を置かれていた僕に興味があるといって近づいてきてくれたことが嬉しかった」


「好きだ、ジャイボ」


普段なら考えられないほど自然と言葉が紡がれていく。光クラブの帝王・ゼラではなく、一人の中学生・常川寛之として思いを伝える。ジャイボがどちらの僕を好きかなんて知ったことではない。これが僕の抱いた泥を洗い流した結果だ。
口にしてしまってからはっとし、ジャイボの顔を見る。そこには目を見開き口をあんぐり開いた、今の状態で見たらあまり美少年とは言えない顔があった。口を閉じ、いつもの切れ長の目に戻る。そして、ほんの少しだけ口を開く。

「……ちゃった」
「え?」

僕の顔から視線を外して何かを呟いた。聞き取れない大きさだったので何と言ったのかは定かでない。けれどすぐに大きな瞳が僕の顔を捉える。すると、そこから雨垂れのように大粒の涙が溢れ出した。ぶわっ、という効果音が付きそうなほど勢いよく流れだすそれは止まることを知らず、ジャイボの言葉も遮っていく。

「うえっ……なんで、ぼっ、ずっとあぎらっ、でだのに……ずるいよぜらぁ…………」


途切れ途切れに出る言葉を懸命に繋ごうと必死に涙を拭う。僕は今まで泣いているジャイボを見たことがなかった。こんなにも人間味のない奴が、こんなにも人間のように涙を流している。あまりにも人間味が無いので、もしかしたらジャイボは星を食べて宝石の涙を流しているのじゃないかと考えたこともあった。でもジャイボは人間だった。僕らと同じ血の通った、何処にでもいる中学生だった。人を愛し、ぐずぐずと鼻を鳴らし、目元をくしゃっと歪めてはわんわんと泣くのだ。
改めて、人間・雨谷典瑞を見る。僕という人目を憚らず涙を流す彼を美しいと思った。そして、とてつもなく愛おしいと感じた。

ひとしきり涙を流し終えたのか、ジャイボは目元を腫らしながら僕に問いかける。今までの言葉が本当かどうか確かめるように。

「光クラブの十箇条に反するよ?」
「大丈夫だ」
「他のメンバーに抗議されるよ?」
「心配するな。僕は帝王だぞ?規則を変えるなんて容易い」
「でも、僕は男だよ?ゼラの好きな少女じゃないよ?」
「今更だな、あれだけ事を行ってきたのに。それに僕が好きなのは少女じゃない。あれは永遠の美の象徴に過ぎない。僕が愛しているのはお前だ」
「……ふっ」
「何がおかしい?」
「やっぱりな、って思って」
「何がだ?」
「ううん、なんでもない。僕ね、きっと今、世界で一番幸せだよ、ゼラ」
「僕もだ、ジャイボ」
「今なら世界征服も出来るかもね」
「僕らなら無敵だな」
「だね、きゃはっ」


いつの間にか数時間が過ぎていた。暖かくなり始めたとはいえまだ夏には早い。夏服のジャイボを見やる。相変わらず鳥肌一つ立てていないが、風邪を引かれては困る。そろそろ帰ろうと石段を後にする。手は相変わらず繋がれたままだった。
やっと煙や泥を払い拭え、家に帰ってからは自分が自分ではなくなっていた。人を愛することを怖がっていた幼い自分の元へ行って聞かせてやりたい。初めて人を愛することが出来たのだ、と。


それから数ヶ月は驚くほど穏やかなものだった。光クラブは盤石で、作業もとても捗った。多少のトラブルはあったものの、さして計画に支障をきたすものではなくすぐに解決出来た。
学校なんて義務感で行っていた退屈なものだったが、ジャイボの存在により白黒だった世界に色が付いた。相変わらず大人は嫌いだったが、前ほどではなくなった。

僕自身にも変化は訪れた。外に出て歩くようになったのだ。今までは家と光クラブと学校の往復だった。この街を歩いて回ったところで黒く唸る工場や錆びた廃工場、年季の入った民家しか目に入らないと思っていたが違かった。
意外と広い線路は先がずっと見えなくて何処に繋がっているのかとても気になったし、転校してきた小学校の周りには自分の知らない店も沢山あった。黒く汚れた螢光湾も、小さな命が懸命に息をしているのだと初めて知った。海は死んでしまったのだとばかり思っていたけれど、こんな場所でも生きている命があった。

夏祭りにも行った。人混みが嫌いな僕を気遣ってか、人が少なく穴場だという場所から見た花火は今でも頭から離れない。初めて、生きていると実感した。そして、そんな時には必ず隣にジャイボがいた。今までいろんな場所に連れて行ってくれたのは他でもない、ジャイボだった。よく学校を抜け出しているのは知っていたが、まさかこんな町中にまで繰り出しているとは。そういうと憎らしげに笑う。

「だってゼラと来たかったんだもん」

そんな事を言われたら僕が何も言い返せないのを知っているからタチが悪い。僕を言い訳にするなと返すときゃはっと笑う。こうしてあっという間に月日は流れ、早いもので一年が経った。
かつて道端で呼び止められた占い師にこう予言された。

「君は十四歳で死ぬ、もしくは三十歳で世界を手に入れる」


幸運にも、僕は十五歳の誕生日をとうに迎えていた。万が一あの占い師に予言の能力があるとするならば、あおは世界征服をするだけだ。なんて素敵な人生なのだろう。
そう皮肉り、また今日も新しい朝を迎える。今はちょうど夏休みだが、光クラブに休みはない。また宿題が終わらないといってみんな持ち寄って見せ合うのだろう。僕とデンタクは夏休みが始まって一週間で殆ど終わらせてしまっていたので、頭を抱えるメンバーに教える側に回っている。今日もカネダやダフが頭を抱え、タミヤや雷蔵、ヤコブが鉛筆を投げるのだろう。光クラブの面々が補習なんて僕が許さない。何としてでも宿題を終わらせてやるべく、いつもより遅く家を出て光クラブへと向かう。暦は葉月、日は友引だった。


そそこは、家を出る前の想像とは全く違った。早いことにもう皆が集まっていた。相変わらずジャイボはいなかったが、そのうち来るだろうと動かないベルトコンベアを下る。そんな僕にどっぷりと汗をかき、しかし顔面蒼白なメンバーが駆け寄る。宿題が終わらないのか、そう尋ねるとそれどころじゃないと真剣な眼差しが僕を射る。洗い流したはずの泥がどっと降り注いだ。


「ジャイボがいなくなった」


***


ひんやりとした石段を後にする。この辺りは昔から歩き回っていたので大抵の事は知っていた。どこに何が建っているだとか裏道がどこに続くだとか。一通り歩き終えると一本の十字路に突き当たる。ここで手を振り背を向けたのが昨日のことのようだった。
その十字路の一角に掲示板がある。町内での決まりごとや行事のお知らせがまばらに目に付く。その中に、一枚の張り紙があった。雨風に吹かれ、この町の煙を浴びに浴びて所々破けたり変色したりしている。それでも内容はまだ読み取れる。何度か貼り直しているのだろう、画鋲の下には劣化した同じ張り紙が何枚か重なっている。
一番新しいものに手を添える。破り捨てたくなる衝動を必死に抑え、震え始めた手でポケットから一本の黒いサインペンを取り出す。


あの日、僕らはジャイボを探した。話によると、タミヤたちが光クラブに行くと、一枚の書き置きがかった。誰かのいたずらかと思ったそれをよく見たら、どこかで見覚えのある字だったという。見せてもらったが、あれは間違いなくジャイボのものだった。

「僕を見つけてね」

たったそれだけの言葉で何も分かるわけがなかったが、それだけが唯一の手がかりだった。その書き置きを頼りに初めは基地内を探したという。ジャイボのことだから秘密の抜け道でも作っているのではと、この基地の構造に一番詳しいタミヤ、カネダ、ダフほ三人がくまなく探した。けれど基地にジャイボの姿はなかったという。次に家へ向かおうという話が出たらしいが、誰もジャイボの家を知らなかった。ちなみに僕も一度もジャイボの家を訪れたことがなく、聞かれたが分からないとしか答えられなかった。光クラブも家もないとしたら残るは学校となった。僕以外の面々は学校へと走った。夏休みにも関わらず正門は施錠されておらず、そのままジャイボの教室へ向かった。メンバーの前に広がったのは、文字通り“無”だったという。
何を言っているのかさっぱりわからず、一度引き返してきた皆と一緒に学校へと向かう。彼らの証言は本当だった。ジャイボに関するものが一切無くなっていたのだ。机、椅子、給食着入れ、体育着入れ、壁に飾られた習字。極めつけは、いつも教卓の上に置いてある座席表。雨谷典瑞の名前は塗り潰され、いないものとなっていた。悪ふざけにしてはあまりにも手が込み過ぎている。そう言って学校を出る直前、僕の目に飛び込んできたのは木の板が打ちつけられて使えないようになっていた下駄箱だった。
くしくもそこは、ジャイボの靴箱だった。


その後のことはよく覚えていない。学校や警察に電話をしたような気がする。すると、ちょうどジャイボの親御さんからも捜索願が出されていたという。

「こんな時にかくれんぼでもしているつもりか……シャレにならないぞ……」

僕らは町中を探した。夏休み中、宿題のことも忘れて走り回った。蝉の劈くような鳴き声に急かされ焦らされ、精神的にも肉体的にも追い打ちをかけられ、それでも探し続けた。しかし、とうとうジャイボは見つからなかった。


蝉の高らかな鳴き声が古い団地住宅に響き渡る。その短い寿命を全うするかのような叫び声は夏の風物詩だが、つんざくような大合唱は毎年僕を炎天下の中へと誘い出す。暑さに目が眩むと、いつも蜃気楼が僕に手招きをする。星を食べて目から宝石を流す、美しい少年の姿をして。



【探しています】

雨谷典瑞(あめやのりみず)(当時14歳)
螢光中学校 三年生

身長165cm 色白 はっきりとした目鼻立ち
肩まである黒髪

当時の服装:
白いワイシャツに黒いズボン
(螢光中学校指定夏制服)

××年○月△日の夜中に家をでたきり
行方が分からなくなっています。

些細なことでも構いません。
情報提供はコチラまで
螢光警察署捜査本部 ××-××××-××××




雨でべったりと張り付き掲示板と一体化してしまった部分に『特徴:奇行』と書き足す。

遠くの方で子供たちの遊ぶ声がする。炎天下の中、暑さも忘れて走り回る姿はいつぞやの僕たちと同じだった。唯一違うのは、鬼が隠れている子を未だに見つけられていないことだ。


『もういいかい』
『まあだだよ』


子供達の叫び声に合わせて小さく口を開く。僕の呼びかけに返事は返ってこなかった。すると、そよ風が耳元をかすめた。髪がさらりと靡き、思わず後ろを振り返る。遠くの蜃気楼にあの日の少年が佇んでいた。いつの間にか体はそちらへと向き、朝は自然と動き出す。その蜃気楼に導かれるように。


「ジャイボ、いつまで隠れているつもりだ。僕はもうこんなに大人になってしまったよ」




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