夏に沈む(冒頭版)

【※未完です】




何かが終わる時というのは、きっと電源が落ちた時のような感覚なんだろう。

例えば、物語の最後のページをめくるような。
例えば、夕方の放送が家路へと急かすような。
例えば、一つの季節が過ぎ去っていくような。

時間が過ぎるのはあっという間だけれど、とりわけ夏は、他よりも早く過ぎていくような気がする。
楽しい出来事はいつのまにか夕焼けに溶け、夜の訪れと共に静かに気化していく。目を覚ませば、そこには名残惜しさだけが残っている。
終わり過ぎ去っていったものほど物足りなさを増長させ、望まない虚しさを広げるだけ広げて、ある日音も無くいなくなる。
それなのに、もっと長く留まりたいと思ってしまうほど、夏には僕らを魅了させる見えない何かがある。
しかし、その『何か』は決してこちらに姿を見せることはない。たっぷりと楽しい時間を送らせた後、惜しむ間も無く姿を消す。そして残された僕らだけが、酷く淋しい気持ちに苛まれる。

そんな自分勝手な理由で、僕は昔から夏が苦手だ。


1.

夏はさらいの季節だ、と誰かが言った。

さらいは【攫い、去い】と書く。
夏は終わりが近づくと、その名残惜しさと共に大切なものを連れ去ってしまうのだという。
なにが連れ去られたのかに気付くことはとても難しく、まるで始めから無かったかのような錯覚に陥るのだと。
そしてその『なにか』を誰もが忘れてしまった時、連れ去られたものは永遠に夏に閉じ込められ、その中を彷徨うのだと。

初めてその話を聞いた時、ひどく怖かったのを覚えている。
戒めるように話すばあちゃんは背中に夕焼けを背負い、カラスたちが相槌を打つように高く鳴いていた。
十七時の夕焼け小焼けがゆっくり流れるのはただの時報だからではなく、幼子や弱き者を守るための合図であり、あちらとこちらの世界が入れ替わる線引きの報せの役割を担っているから。
カラスが夕暮れに強く鳴くのは、家に帰るまでに禍物を寄せ付けないよう追い払ってくれているから。
烏が鳥より一本棒が少ないのは、本当は鳥ではなく守り神の使者だから。そしてその羽はお守りになるからとその一本を差し出したから。
夏は特に日が長い。それだけ外に出れる時間が伸びる、そんな時が一番油断しやすく一番危ない。
まだ明るいから、そう言って帰ってこなかった人もいる。その人は、未だ暮れることのない日の中で一日の終わりを待ち続けているだろう。
だから、夕焼け小焼けが鳴り終えるまでに帰っておいで。烏と一緒に帰っておいで。でないと夏に攫われるぞ、と。
あまりにも落ちていく夕日がばあちゃんと町に影を落とすものだから、僕はわんわんと声を上げて泣いたらしい。ばあちゃんも僕がこんなに怖がるとは思わず、ごめんねぇと泣きじゃくる僕を抱えては何度も背中をさすってくれたそうだ。
けれど、実のところ僕は泣いたことも背中をさすられたことも覚えていなかった。攫われるかもしれないという怖さは覚えていたのに、ばあちゃんの腕の中の安心感をすっかり忘れていた。
そして、安心感よりも、もっと鮮烈で、もっと衝撃的な記憶が同時に蘇っていた。

2.

今年の夏は異常だった。
どこを見ても汗を流している人ばかりで、何を聞いても開口一番には「暑い」だった。

亜熱帯低気圧が発生しやすい島国・日本。
その亜熱帯低気圧は頼まれもしないのに嬉々として台風を連れてくる。
毎年この国の夏にあたる八月から九月は誰もが空模様を心配し、関心は常に天気予報に集まり、この時期が近づくと誰もが家の戸を固く閉める準備を始める。
いつもならば雨風を伴う強風に耐え、嵐の後の晴れた空を仰いで秋へと向かうのだが、今年は違かった。
連続で発生する台風、災害級の熱波、更新し続ける最高気温。
暑いと思う頃にはもう遅く、次から次へと人は倒れ、植物は枯れ、動物たちは弱っていった。
昔ならば熱中症だと言われる気温が今では涼しい部類に入ってしまう。それほど、今年の暑さは異常だった。
かくいう僕も例外ではなく、口を開けば「暑い」以外の単語は出ず、壊れたオウムのようにひたすら暑い暑いと唱えていた。
雨が降ったのは、異常気象が続くでしょうと予報がされた週の始めだった。
しばらく日照りが続いていただけあって、初めこそ驚きはしたものの、久し振りの雨に皆が喜んでいた。
枯れ果てた植物はほんの少しだけ息を吹き返し、熱を溜めすぎた道からは喜ぶように湯気が出ていた。

様々なものの照り返しを受け疲れていた目はひんやりとした空気に癒され、時折、日差しの強い時には見えなかったものを見せる。
曲がり角には日光と同化して気付かなかった小さな白い花がいくつも咲いていて、目一杯雨を浴びては踊っていた。
酷暑で下ばかり向いていた顔をやっとあげられた時、遠くの山が装いを桃色から幾重もの緑に変えていたことを知った。
雨は外で遊べなくなるから好きではなかった。
けれど降ってみると今までとは別の世界を見せてくれることを知り、この時ほんの少しだけ、雨が好きになった。
夏の日の雨っていいよね、と親友に話すと
「夏は暑いからこそ夏だろ!」
なんて言われてしまったけれど。
それでもこの酷暑の最中に慈悲のように僕らを冷ましてくれた夏の雨は、今でも少し特別なものだった。

そんな雨もすぐに止んでしまい、僕らはまた暑さの中に放り出された。
明日も暑さが和らげばいいな、なんて思ったのも束の間。
雨は夜のうちに引き上げ、東の空からは再び太陽が昇った。雨が降ったのが嘘のように地面は乾き、ようやく過ごしやすくなるかと思ったのにと不満を言う間も無く、じりじりと身を焦がす日々へと逆戻りしてしまった。
遊べなくなることを惜しんでいた僕らは半ば強制的に外へと追いやられ、少しでも涼しいところへと公園の木陰に身を寄せ合うことしか出来なかった。

「また夏が来たな」親友のタミヤくんが呆れる。
「まだ終わってないよ」もう一人の親友、ダフががっかりする。
「昨日の雨は幻だったのか?」
「もうしばらく降っててもよかったのにね」
「そのまま秋になって欲しかった」
暑さのせいで弾みのない会話になるのも、秋に焦がれるのも、公園の温度計が三十二度を示していれば十分立派な理由だろう。
僕らの他には誰もいない、地獄のような公園でひたすら涼しくなるのを待つ。水飲み場の蛇口も、滑り台も、ブランコの持ち手も、火傷をするからと触るのを控えるように言われている。
なんならあまりの酷暑で全国的に外出を控えるようにも言われていたが、家にいたところで勉強するわけでもないし、かといって図書館に行けば本も読まずに寝てしまう。適度に話せて適度に涼しい場所を探した結果、炎天下の公園の日陰に行き着いてしまったというわけだ。
別段することもなく、僕らは夕方の時報が流れるまでしばらく涼むことになった。
今日あった先生の話、クラスメイトが溶けそうだった話、雨がまた降って欲しくて逆さまのてるてる坊主をクラスに下げた話。
さっきよりかはいくらか弾んだ会話も、終わればまた暑さが襲う。蝉の声や流れる汗が暑さを助長させて、せっかく忘れていたのにまた「暑い」としか言えなくなる。

気分を変えようと目をこすったその時、竹林が見えた。そしてその奥に、ぼんやりと白っぽいものが見えた。
公園は木々に囲まれてこそはいるものの、近くに竹林なんてない。見間違えたのかともう一度目をこすってみるけれど、さっきと寸分違わず、竹林はそこにあった。
生まれた時からずっとこの公園で遊んできたけれど、竹林なんてあったっけ?そう尋ねるとダフが呆れてこっちを見る。
「カネダ、暑さで頭やられちゃったんじゃないの?」
昔からあったでしょ、とTシャツの襟元から風を送る。タミヤくんも同じ意見だった。
「あったぜ。昔よく探検してはカネダのばあちゃんとかに怒られたっけな。神様がいるんだから入るんじゃない!って」
「あの時のカネダのばあちゃん怖かった!鬼婆かと思ったもん」
「帰ったらばあちゃんに言っとくよ」
「今の前言撤回!」
わははと笑う声に合わせて笹の葉が鳴く。
きっと僕が勘違いしてたのか、忘れてちゃってたのかもしれないともう一度竹林の方を見る。
けれど、確かに竹林に見覚えはなかったし、さっきの白いぼんやりとしたものは消えていた。

体が異常な暑さに慣れきってしまった頃。
いつものように少しでも涼しい格好をしようと着替えていると、タン、タタンと軽快な音が聞こえた。聞き覚えのあるその音に急いで窓の近くに寄ると、空気がひんやりとしていた。
急いで薄い上着を羽織って外に出ると、地面はすっかり濡れていた。奥の方にしまった長靴を履き、綺麗に閉じられた傘を開くと、雨の音に包まれた。
それから再び訪れた夏の日の雨に興奮してあっという間に一日は終わり、忘れた頃にやってきた雨に下校中の僕らはすっかりはしゃいでいた。
水たまりに入ったり、傘を回してみたり、どこか諦めていた雨をお祝いするかのようにびしょ濡れで騒いだ。どうか明日も降って欲しい、そんな気持ちを込めて雨の中を帰る。

帰り道、僕らはいつもあの公園の横を通る。
雨の日の竹林は晴れの日とは格段に雰囲気が違っていた。
いつかばあちゃんが言っていたように、あの竹藪の中には本当に神様がいるのかもしれない。暑い日には日差しを遮る奥に篭って涼み、今日みたいな雨が降ったら出てくる、言い伝えの中の神様。
もしかしたら呼んだら出てくるかもしれないな、とぼんやりと眺めていた。
「出てくるかもよ?神様」
声音を変えてダフが僕をおちょくる。
「や、やめてよダフ!本当に出てくるかもしれないじゃん!」
「あれ、怖いの?カネダ」
「い、いや、怖くなんかないけど!」
言い合う僕らをタミヤくんが宥めてくれるも、そういえば、と何かを思い出した。
「あそこの竹藪にいる神様って、カラスの神様じゃなかったっけ?」
「竹藪になんでカラスの神様なんているの?」
なんでだっけかなぁと頭をかくタミヤくんと不思議に思うダフの隣で、僕は昔からばあちゃんに聞かされていたあの話が思い浮かんでいた。

烏は禍物から人々を守る神の使者。

きっとそうだろうと僕は確信していた。
真っ黒な身体では日中目立つから竹藪に身を潜めている。夕暮れ時、影と自身が溶け込める頃合いになったら人々を守るために外へと出てくる。
いい神様のはずなのに僕は幼い頃と同じように怖くなり、その事を二人には言えなかった。
「なんでだろうね」そんな曖昧な返事しかできず、遅くなるから帰ろうと二人を急かして竹林をあとにした。

「なんでこんな日に日直になっちゃうかな」
烏の話を思い出してから数日経った雨の日、僕は不幸にも日直になってしまった。あの日からいくらか酷暑は和らぎ、同時に雨の降る回数も多くなっていた。
雨の日はなるべく二人と帰るように、一人の時はあの公園の横を通らないようにしていた。なんとなく、あの公園の横を通ったらいけないような気がしたから。
別に雨でも晴れでも、三人で通った時でも一人で通った時でも、特に何も起こったことはないけれど、なんとなく怖かった。ダフの前では絶対に認めないけど、一人の時にあそこを通るのはやっぱり心細かった。
今日も雨の予報が出ていたから二人と帰ろうとしたのに、当番表にはしっかりと金田の文字が記されていた。
「待っててやろうか?」とタミヤくんが言ってくれたけど時間もかかるし悪いからと断った。ダフは前日に用事があって早めに帰ると聞いていた。
日直の仕事も何とか終えて荷物を抱えると、急いで帰路に着いた。薄手の上着でも少し暑いくらいに小走りで家へ向かう途中、あ、と立ち止まった。慣れというのは怖いもので、僕は無意識のうちにいつも通り慣れている道を駆けていた。そして何かに引き寄せられているとでもいうかのように、気付けばあの公園の横の道にいた。
「き、今日こそ通っちゃいけない日なのに……」
夏といえど雨の日は薄暗く、あたりはもうすぐ夜の支度に入ろうとしていた。その時、近くで大きな音が鳴り響いた。
ギャッと反射的に叫んで辺りを見渡すと、公園に設置されているスピーカーからゆうやけこやけが流れていた。
「もうそんな時間!」
鳴り終わるまでに帰っておいで。
烏と一緒に帰っておいで。
遠くでばあちゃんの声がする。早くしないと、早く、早く。
気持ちはとっくに家にいるのに足が動かない。
どうしよう、ゆうやけこやけが終わる前に帰らないと。でも、足が動かない。体が言う事を聞かない。
「誰か……」
消え入るような小さな叫びもゆっくりと、そして大きく流れる童謡にかき消される。じんわりと視界がぼやけ、音楽が終わりかけた。

「もう大丈夫」

突風が、僕を吹き抜けていった。








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