夏の乙女は空の色

梅雨も本格的に本領発揮し始めた6月も半ば、エアコンなんて贅沢品のあるわけない教室で俺は絶望していた。数週間後に控えた中間試験で赤点をとったら補習で夏休みの三分の一が潰れてしまうことがついさっき明らかになったのだ。来たる長期休みに向けてせっせと遊びに行く計画を立てることに夢中で先生の話なんて1ミリも頭に入るわけもなく。挙句ゼラからは「赤点をとった者には罰として一ヶ月間基地内の清掃当番を命じる」と宣告されていたものだから夏の晴れ晴れとした青空は一瞬で工場の煙に塗れてしまった。そんなお先真っ暗な心境が顔に出ていたのか、雷蔵が心配そうに声をかけてきた。

「やあねタミヤ、イケメンが台無しよ〜」
「よう雷蔵…お前はいいよな、頭いいもんな」
「ちょっと何よ、人の顔みていきなり。もっと褒めるところあるでしょ〜」

くるりと回ってみても学ランは翻りはしなかったが綺麗な黒髪はふわりと揺れ、ふんわりといい匂いがした。きっと雷蔵なら試験もいい点とって、宿題も早めに終わらせて楽しい夏休みを過ごすんだろうなと思うと容姿がいいと言われるだけの自分とは違って中身もちゃんと伴っている雷蔵がとても羨ましく思えてきた。俺だって勉強は苦手なわけじゃない。国語や体育は得意な方だし、理科だって実験なんかが好きでよく勉強する。だけど、どうしても。

「数学が苦手なのね?」
「はい、とても」
「どの位までなら分かるの?」

あの後、余りにも“世も末”のような顔をしていた俺を見るに耐えなくなったのか、雷蔵の方から勉強を教えると提案してくれたのだ。運良く俺の苦手な数学を得意科目としていたので遠慮なく試験までの間、数学の先生をお願いすることにした。のだが……

「こっ、こんな前から分からなかったの…?」
「もう数式が2,3行並んだ時点でちんぷんかんぷんだった」
「だったらなんでもっと早く言わないのよ!重症よ!大問題よ!大体よく今まで補習に引っかかってこなかったわね!? ゼラが知ったら卒倒ものよ!?」

分からないところと聞かれたから正直に答えたらこの有様だ。マシンガンのように次々と飛び出してくる雷蔵を見ながらよくもまあこんなに次々と言葉が出てくるな、とかこいつの方が『弾丸』の称号に相応しいんじゃないか、なんて考えていると聞いてるの!?と先生の注意が入った。

「一体どうやったらここまでひどい状態で放置できるのか教えて欲しいわよ…今までの宿題とかは…聞きたくないけど」
「か、カネダとダフに見せて貰ってました」
「今度から二人には絶対見せるなって言っておくわ」
「ひでえ!これから俺どうすりゃいいんだよ!」
「つべこべ言わず勉強しなさい!!!」
「はっ、はいっ!!」

いつも女性らしい雰囲気は身にまとっていたけど、このときばかりは母さんの姿を見た気がした。あらやだ、ついカッとなっちゃったわ、と口に手を当てる仕草はやっぱり女性っぽくて、たまに雷蔵は女の子なんじゃないかと思うときがある。けれどよくよく見てみると黒い制服に身を包み、少しだけ低い声と少しだけ骨張った手がそこにはきちんとあるのだった。昔、一度だけ雷蔵が螢光湾近くの堤防で涙を流していたのを見たことがあった。雷蔵は俺が見ていたことには気付かなかったみたいだけど、俺は自分の手を広げて見つめたり喉を触ってつーっと一筋の涙を流していたところを。その姿があまりにも綺麗でその後どうしたかははっきりとは覚えていない。何かいけないものを見てしまったような気がしてこのことは誰にも言わなかったし、翌日雷蔵自身もまるで泣いていなかったかのように振舞っていたのでこのことには触れないでいた。あの日から雷蔵は泣かなくなった。もしかしたら家や俺らの知らないところでは泣いているのかもしれないけど、少なくとも俺らの前で泣いているのは見たことが無かった。

「一応教えられる範囲で教えてはみるけど、アンタもちゃんと自分で勉強するのよ?」
「お、おう」

それから中間試験までの間、放課後や光クラブの時間、時々休みの日を削ってまで雷蔵は俺の勉強をみてくれた。自分の勉強もあるだろうに、細やかに丁寧に教えてくれたお陰で俺の苦手意識はだんだんと減り、試験の数日前には赤点を取らない自信の方があった。そんな雷蔵の特別授業の甲斐あって、中間試験では見事数学の試験で人生で初めてではないかと言えるくらいいい点が取れた。他の科目も平均点近くをとれ、無事に俺の夏休みは守られた。そして明日から待ちに待った夏休みが始まる晴れ晴れとした空の下、俺は雷蔵とあの螢光湾近くの堤防にいた。手には水色の氷菓が握られ、真っ黒な制服と真っ黒な海によく映える。

「美味しい〜!やっぱり夏の試験終わりのアイスは最高ね!」

お礼は何がいいかと尋ねたら「タミヤが中間で赤点を回避出来たらでいいわよ」と言ったのだ、回避出来なかったら教え方が悪かった自分の責任だと言って。そんな出来た人間・雷蔵が望んだものは60円で買った駄菓子屋のソーダアイスだった。

「こんなんでいいのか?」
「これが良かったのよ。タミヤがいい点取れて私がちゃんと教えられたご褒美なんだから」

そう言うとまた一口かじって飲み込む。アイスはこんなに綺麗な色なのに目の前に広がる景色は何処までも単色だ。いつもこの螢光湾が綺麗な海で、この螢光町の空がもっと綺麗な青空だったらなと思う。そうすればもっと色が綺麗に見えるのに、例えばこの水色だって。隣で美味しい美味しいと嬉しそうにアイスを頬張る雷蔵を横目に、飲み込んだ水色が溶け出してこいつの制服が綺麗な空色のワンピースにでもならないだろうか、そしたらどんな顔をするんだろうと意味の分からないことを想像していたら、あのね、と雷蔵がぽつぽつと語り出した。

「私ね、昔ここで泣いてたことがあるの。どうして私は男の子なんだろう、どうして赤いランドセルを背負っちゃいけないんだろう、どうしてスカートを履いちゃいけないんだろう、って。背はどんどん高くなっていくし手だってどんどん骨張っていく。声は低くなっていくしこれみよがしに喉仏は出てきて、まるでお前は男だって現実を日に日に突きつけられているようで凄く苦しかったの。こんな真っ暗な町で喪服みたいな制服に身を包んで一生を終えなければならないのなら、いっそのこと海に身を投げてしまいたい、色鮮やかな私が認めてもらえないのならば真っ黒で誰にも見つからない場所へ沈んで、そのまま死んでしまいたいって。そしたらね、アンタが来たのよ、グズグズに泣いて可愛くない私のところにね。そんな状態の私になんて言ったと思う?『雷蔵は可愛いぜ!』ですって!もう涙と鼻水でぐしゃぐしゃだし他の人になら絶対見られたくない顔なのに。タミヤにそう言われた瞬間、呆気にとられたわ、そして思ったの、ああ、こんな事で悩まなくてもいいんだ、こんな私でも可愛いって言ってくれる人がいたんだ、って。それからは馬鹿にされても陰口叩かれても気にしなくなったわ。だってあの螢光町一イケメンのタミヤが可愛いって言ってくれたんだから、ってね」

雷蔵の口から出てくる言葉があの日の光景となって俺の周りに流れた。そうだ、あの時、一筋の涙を流していた雷蔵に思わず見惚れていたらだんだんと涙の量が増えていき、しまいには涙も鼻水も一緒くたにぼろぼろと流す雷蔵を助けなきゃ!と思ってこいつの目の前に飛び出したんだ。止まらない苦しさをどうにかしてやらなきゃって思ったはいいものの、何で泣いてるかも分からなかった俺はとっさに「可愛い」と口走ってしまったのだ。目の前で幼い俺が頬を真っ赤にして雷蔵の元へ走っていく。見られていたとは思ってもみなかった雷蔵は突然の言葉に呆然とするも涙は止まり、にっこりと笑う。

「だからね、私は死のうと思っていたことが馬鹿らしくなってきちゃったの。生きていれば辛いことや苦しいことが山のようにあるのなんて当たり前よ。それでもアンタみたいに私を勇気付けてくれる人が一人でもいるなら、私は私らしくいようって思ったわ。口紅を塗ったり、ワンピースを着て軽やかに回ったり、それが私だもの」

そう言ってとん、と立ち上がり腕を大きく広げて笑う雷蔵の後ろでは煙の切れ目から入道雲と青空が少しずつ顔を見せていた。伸ばした手の先のソーダアイスが空と繋がり、空色がふわりと揺れる。

「雷蔵」
「ん?なあに?」
「死んだら花実は咲かないぜ?」
「えっ?」
「雷蔵は可愛い、強いところも、たまに見せる弱いところも。励ましなんかじゃない。だからたまには泣いてもいいんだ、我慢しないでな。泣き顔も怒り顔も、笑顔も全部ひっくるめて雷蔵が可愛いんだから」
「なっ、ば、馬鹿じゃないの!?」
「その照れたところも可愛いぜ」
「あ〜もう…タミヤに言われたら悔しいけどかなわないわ」

紅い頬が空色によく映える。夏休みはまだ始まったばかりだ。




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