∴ walkの約束 アポもとらずに訪れた俺にヨハンは目を丸くしていたが、すぐに破顔して「久しぶりだな!」と温かい声で迎え入れてくれた。 ヨハンは卒業後、一人暮らしをしながら大学に通っているらしい。 てっきりプロになるものだと思っていた俺は、そのことを聞いて驚いた。 旅の途中ちらりと耳にした大学進学の噂は本当だったんだな、とテーブルに置かれた書きかけのレポートを見て今さらながら実感する。 近況報告もそこそこに終えると、俺たちは何を話すわけでもなくソファーの上で寛いでいた。 俺はここまでの旅路で口を開くのも億劫なくらい疲れていたし、ヨハンはヨハンで何か考え事をしているようだった。 温まるからと差し出された淹れたてのカフェオレを啜りながら、ぼんやりともの思いに耽る。 ヨハンのやつ、ちょっと背が伸びたかなぁ。 雰囲気も何だか大人っぽくなった気がする。 あぁでも優しくてきらきらした目は昔から全然変わらないな。 あと、日本好きなとこも。 何せフロアライトとして壁際の台に置かれているのは、和紙でできた灯篭型の照明だ。 次に来るときは何か日本の物を手土産に持ってこようか。 「るびびっるび!」 「クリクリ〜クリィ!」 賑やかな声につられ視線を脇に向けると、こちらも久々の再会となったルビーとハネクリボーが、ドーナツ型のクッションの上でもつれ合うようにしてじゃれていた。 胸によぎったのはアカデミアでの日々。 全てが楽しく、二人でつるんではふざけあっていたあの頃の記憶。 懐かしいなぁ。 俺たちも、傍から見たらあんな感じだったのかな。 微笑ましいような、羨ましいような気持ちで戻らない時間に想いを馳せていると、隣に座っていたヨハンもニ匹に気づき柔らかいまなざしを向けた。 その横顔を見ていたら何だかぎゅっと胸が苦しくなってきて。 俺はカップをテーブルに置き、ソファーの背にぽすりと頭をあずけ瞼を閉じた。 ヨハンには、ここを訪れたのはたまたま近くに来たからだと伝えてある。 だって、この歳にもなって「寂しくなって会いに来た」だなんて恥ずかしくて言えるわけがない。 言ったところでヨハンは馬鹿にしたりしないだろうけれど、これは俺のプライドの問題だ。 内側から響いた、素直じゃないねぇとの声は聞かなかったことにした。 穏やかな沈黙が部屋を包み、夜は静かに更けていく。 たった一言寂しいのだと言えないまま、いっそもう寝てしまおうかと思い始めたとき。 ふいに額に温かな重みが加わり、そのまま後頭部の方へ流れていったことに気がついた。 そしてその感触は一度きりでなく、頭の上をゆったりとしたペースで何度も行き来している。 もしかしなくても、これはどう考えても――ヨハンに撫でられている。 ぱちりと目を開け横を見れば、視線に気づいた翡翠と目が合った。 「ああ悪い、起こしたか?」 「いや…」 悪い、という言葉とは裏腹にヨハンは撫でるのをやめようとしなかった。 時おり指先で頬にはりついた髪を梳きながら、白い手がゆるりと頭を撫でてゆく。 ヨハンが何を思ってこんなことを始めたのかはわからない。 でも、理由なんてどうでもよかった。 「なぁ、ヨハン」 「んー?」 「俺、今すげー眠いんだ」 「うん、そんな顔してるな」 「だからさ、頭ぐちゃぐちゃでわけわかんねぇこと言うかもしれないんだけど…」 寝言だと思って聞いてくれないか。 優しい手に促され、ようやく口をついて出たのは我ながら実に面倒くさい言葉だった。 ヨハンが真摯に受けとめてくれることを見越した上で、別に大した話じゃないのだけど、なんて風を装ったのだから、これも一種の甘えに違いない。 どうやら俺は自分で思っていた以上に意地っ張りの捻くれ者らしかった。 ヨハンが小さく頷いたのを確認し、俺は心のままに話を進めた。 旅をはじめたきっかけ、数々の出会いと別れ、道中での失敗談、とある村で見た人と精霊の共生の形。 その時その時感じたことを、俺自身整理しながら言葉にする。 ヨハンは最高の聞き役だった。 夢うつつで語るとりとめのない話に決して疑問を挟まず、ただ静かに相槌をうち続けた。 「十代は、良い旅をしてるみたいだな」 数年間のできごとをあらかた聞き終えたヨハンは、そう言ってわしゃわしゃと俺の頭をかき混ぜた。 「そうかな…そうだといいな」 「自信持てよ。お前、最後に会ったときよりずっといい顔してるぜ」 「惚れたか?」 「ばか、茶化すなって」 「ははは」 ぐしゃぐしゃになった髪を手櫛で戻しつつ、他愛ないやり取りで笑いあう。 結局弱音らしい弱音は吐かなかったものの、俺の気分は不思議とすっきりしていた。 もともと話を聞いてもらうこと自体が目的みたいなものだったから、当然と言えば当然かもしれない。 ふっとひとつ息を吐き、身体の力を抜いてヨハンに寄りかかる。 そしてはねのけられなかったのをいいことに、ちょうど手ごろな高さにある肩に頭を乗せ、そのまま目を閉じた。本格的に、眠い。 「ヨハン、俺さ…たぶん、怖かったんだ」 「怖い?」 「うん…。世界中飛び回ってるうちに、帰ってくる場所がなくなってるんじゃないかって」 深いまどろみの中、頬から伝わるほのかな熱に安堵して、ずっと心のどこかに引っかかっていた不安がぽろりとこぼれ落ちた。 俺が寄る辺のない旅を続けられた一つの理由である、帰るべき場所の存在。 それは日本にいる両親のもとであったり、ヨハンのような友人の隣であったり、果報者の俺にはいつだって受け入れてくれる人がたくさんいた。 ――だからこそ、恐れていることがある。 超融合を果たし半ば精霊となった俺の寿命は、きっとヨハンたちよりずっと長い。 みんないずれ俺を置いて、手の届かないところへ行ってしまうだろう。 そうして帰る場所を失った世界で今回みたく寂しさに耐えきれなくなったなら、俺は一体どうすればいいのか。 これまであえて考えないようにしてきた不安は、一度口にしてしまうと堰を切ったように溢れ出た。 明確な答えなんて誰にも出せるはずがないのに、ずいぶん馬鹿な話をしている。 そう分かっていても止められなかった。 「ごめんな。いきなりこんなこと言って、困らせて…」 自分の発言の愚かさにいたたまれなくなり口を噤んだ俺に、それまで沈黙を貫いていたヨハンはきっぱりとした口調で「十代、お前ちょっと勘違いしてるぜ」と言った。 「…かんちがい?」 「ああ。確かにお前の言うとおり、俺はお前より早く死ぬと思う」 死という不吉な言葉にどきりとする。 たとえ事実であっても、自分で言うのと人の口から聞くのではやはり違う。 改めて突きつけられた現実を受け入れたくなくて、俺はいっそう強く目を瞑った。 「でもな。だからって、お前を大切に思う奴がいたって事実はなくなったりしないんだ」 「なんだよ、それ」 「帰る場所は出会った人の数だけ増えるってことだよ」 いまいちヨハンの言っている意味がわからず黙っていると、頭上でくつくつと笑う気配がして、寄り掛かっている肩が軽く揺れた。 「納得いかないって感じだな。ま、正直さぁ、先のことなんて俺にもわかんねーよ」 「うん…」 「だからさ、いけるとこまで付き合ってやる」 ぽん、と元気づけるようにヨハンの手のひらが頭にのせられた。 小さな子供を宥めるような手つきが、固く強張った心をほぐしていく。 「旅を続けてもっともっといろんなものを見るといい。で、疲れたときはここに帰ってこい。頑張って長生きして、お前のこと待っててやるからさ。…そうしていつか、俺の言ったことが理解できたなら。お前はもう、自分の居場所を見失ったりしないよ」 ヨハンの言葉はまるで暗号で、うつらうつらと聞いていた俺は半分も理解できなかった。 それでもたぶん、俺はこの言葉を忘れない。 重い瞼を上げ久しぶりに目にした光の中、見上げた翡翠は泣きたくなるほど優しい色をしていたから。 いつか、いつか遠い未来。俺とヨハンが離れ離れになる時が来たのなら。 俺はこの色を思い出そう。 どんなに悲しい出来事があっても、雪を溶かす春の陽射しのように、この記憶は俺の中で永遠の糧となる。 ふたたびおろした瞼は、今度こそ安らかな眠りを運んできた。 |