∴ 鳥になった少年



※神話パロ
※二十代が勝手極まりない





風に揺れる青い髪。
大地を軽やかにかける脚。
生命の喜び溢れる力強い瞳。
そのひとつひとつに目を奪われた。

なんと美しいのだろう。
まるで世界を照らす光そのものではないか。
混沌に満ちた地上さえ、あの少年の周囲だけはまばゆく輝いて見える。


欲しい。
あれが欲しい。


そう感じた時、身体は既に大空を舞う鷲へと姿を変えていた。





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「今日はいやに機嫌がいいな」

言って、ヨハンは右手に携えた酒瓶を傾ける。
一目で名匠の作とわかる容器からルビー色の液体が流れ出て、黄金の杯をゆっくりと満たしていく。
その様子を豪奢な椅子にふんぞり返って眺めていた男が、彼の指摘に驚いたように瞬いた。

「へぇ、よくわかったな」
「何となくだけど、そんな感じがした」

ヨハンは酒瓶を丸いサイドテーブルの上に置くと、男の足元へ膝を折り、たった今注いだばかりの杯を捧げた。
天と地を治める神々の神殿・オリンポスに住まう十二神。
その頂点として君臨するこの男――十代に神酒ネクタルを注ぎ捧げるのが彼の役目だ。

「お前を連れて来た日のことを思い出していたんだ」

恭しく杯を差し出すヨハンを懐かしむように見つめ、十代は言う。
穏やかに微笑んでいたヨハンが表情を強張らせたのにも構わず、続けて、

「家に帰してくれってぴぃぴぃ泣いてたよなぁ、お前?」

行儀悪く脚を組み頬杖をつきながらくつくつと笑う。
とても最高神とは思えない、実に底意地の悪い笑い方だった。

「そりゃ、いきなり雲の上に誘拐されればな」

じっと真意を探るように見据えていたヨハンだが、やがてただのからかいと判断したのか、ごく軽い調子で答える。
神々の例に漏れず、人で遊ぶことに悦びを見出だす主と上手く付き合う術を、彼は知っていた。

「びっくりさせたのは悪かったって」
「反省しているとでも?」
「まさか。我ながら良い買い物をしたと思ってるぜ」

お前が来てからというものの酒が美味くて嬉しいよ。
十代は、合格とでもいうように杯を受けとると、ぐっと中身をひと息にあおり、最後に赤い舌で唇をぺろりとなめた。
神でありながらどこか退廃的な色の漂う仕草に、ヨハンは思わず目を逸らす。
主が時折見せるこうした所作は、何か見てはいけないものを見てしまったような気を起こさせるので、ヨハンからすれば何とも居心地が悪い。

「にしても、お前も成長したな。はじめの頃はあんなにくってかかってきたくせに」
「…昔のことは忘れたさ」
「そうか?ま、俺は威勢が良いのも嫌いじゃなかったがな」
「…」
「ああ、懐かしいなぁ」

十代の脳裏に浮かぶのは、彼の生きた年月から考えればほんの一時、しかし耐えがたい空白でもあった期間のこと。


かつて、十代含む神々へ神酒を注ぐのは明日香という娘の役割であった。
彼女の酌する酒宴はすこぶる評判が良かった。
何しろ明日香の容貌は金色に輝かんばかりに美しく、酒の味をひきたてるのに何役も買っていたので。
しかしある日、その彼女が別神の元へ嫁いでしまう。
至宝の酒は、至高の給仕により呈上されねばならない。
十代は急遽、代役を探す必要に迫られることとなった。
天界中から評判の者を手当たり次第に集め、審査し、また集め、審査し…幾度繰り返しても、明日香ほどの者は現れない。
新たなる従者の選定は難航を極め、誉れ高い役目にふさわしい人物が見つからぬまま幾日が過ぎ、その間の酒宴は実に不興。
流石の十代もお手上げであった。
そんな中、何が良い手はないかとたまたま目を向けた地上で彼は碧く輝く光を見た。
それが、山で父親の羊の番をしていたヨハンだった。
電撃が走るとはこのことか。
十代は彼を一目で気に入り、巨大な鷲へと変化して、何の説明も気遣いもなしに神殿へと連れ去った。


『貴方の申し出は身に余る光栄だ。
しかし自分には帰る家と守るべき国がある。
どうか元いた場所へ帰してほしい』

ことのあらましを聞いたヨハンは、言葉を尽くし必死に訴えた。
が、十代はとりつく島もない。
どころか尚も食い下がる彼を面倒臭そうに眺め、やれやれと嘆息してみせる。

『国のことなら心配ないさ。代わりといっちゃあ何だが、お前の父親に不死の神馬を与えておいた』
『馬鹿にするな!父さんは馬一頭のために息子を売ったりしない』
『怒るなよ。神の従者に選ばれたんだ。お前の国にも箔が付くってもんだろ』
『何を馬鹿な…!王子を失った国が、この先どう存続していくって言うんだ!』
『いいか、もう地上のことは忘れろ。辛いだけだぞ』
『どういう…』
『お前がいくらわめこうと、俺から逃げることはできないってことだ』

あまりの言い草にヨハンは言葉を失う。
いくら神とはいえ、こんな理不尽がまかり通るものなのか。
唇を色が変わるほどきつく噛みしめ、ぎっと眼前の男を睨み据える。
ヨハンの義憤に燃える視線を受けてなお、神は表情一つ変えなかった。





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「本当に、随分と聞き分けが良くなったよ。とうとう諦めがついたのか?」
「まぁ、な。…こんな体だし」

十代はヨハンを給仕に迎える際、彼に永遠の時を与えた。
平たく言えば、不老。
ヨハンの成長は十八で止まり、もう進むことはない。
図らずもそれは、彼を人の世と隔絶する決定的な要因となった。

「良いじゃないか。老いも病気も知らず、永遠に美しいままなんて」

言って、十代はヨハンの腕を引き自らの胸の中に閉じ込める。
青い髪からのぞく首筋に唇を押し当て、甘えるようにすり寄る姿はいかにも無害で優しげだ。
けれども枷のごとく背を拘束する腕が、後頭部に添えられた指の強さが、何よりも明白に十代の本質を物語っていた。
決して逃がすものか。
この世のどこにも逃げ場などないのだ。
そんな声が聞こえた気がして、ヨハンはぶるりと身を震わせた。
ただし、その震えは恐怖からではない。
――怒りからだった。
与えるにしろ奪うにしろ、十代のやり方はどこまでも一方的だ。
相手の意向を伺おうともしない、絶対的優位に立つ者特有の高慢さ。
彼の一存で、ヨハンは望んでもいない役目などと引き換えに、家族を、国を、民を、果てには人としての尊厳すら捨てさせられた。
そして何より性質が悪く許し難いことに、この男はヨハンに正当な対価を支払ったと本気で思っている。
こんな理不尽を許していいのか。
たとえ相手が神だろうと糾弾する権利があって然るべきではないか。
じりじりと、遠い昔に蓋をしたはずの情念が再び渦巻き、煮えたぎる熱となって身を焦がすのをヨハンは感じた。


「…ヨハン?」

一向に反応を示さない従者に、十代は愛撫の手を止め訝しげに呼びかける。
その声ではっと我に返ったヨハンは、いつの間にか衣の隙間から手が差し込まれ、肌を直に触られていることに気付きぎょっとした。
思いのほか長く思考の海に沈んでいたらしい。

「…っ!な、何でもない」
「ふーん…」

ヨハンの動揺に気付いているのかいないのか、十代はそれ以上の追及はせず手の動きを再開した。
脇腹から腹、そして胸へと、感触を味わいながらゆっくりと熱が這っていく。
その動きに意識を集中させることで、ヨハンは先程までの考えを頭の隅に追いやる。
十代に仕えて長年経つ今でも、こういうことはたまにあった。
心の奥底に閉じ込め蓋をしたにもかかわらず、ふとした拍子に現れ、正しさを突きつけていく人としての自分。
ヨハンはその度に途方に暮れ、仕方なくもう一度蓋を閉めに向かう、ということを繰り返している。
捨てることも、かといって受け入れることもできず、結局は問題を棚上げし束の間の平穏を選ぶのだ。
もうこれ以上考えるのはよそう。
結論なんてとうの昔に出ているではないか。

「どこにも逃げ場なんかないんだよ…」

諦めたように呟き、ヨハンは当面の快楽に身を任せた。











水瓶座に関する神話をモチーフにしてみました。
十代は文字通り鳥に、ヨハンは籠の鳥になった…ということでこのタイトル。
配役は主神ゼウス→ニ十代、美少年ガニュメデス→ヨハン、青春の女神へべ→明日香でした。


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