∴ 南風はすぐそこに



この日の朝、ヨハンは目玉焼きを焦がしてしまった。

時間を節約しようと火をつけたまま着替えに行ったのがまずかった。
足元にじゃれつくルビーの相手をしながら身支度するうちに、卵の存在がすっかり頭から抜け落ちてしまったのだ。
あわててキッチンに戻り確認したときには表面はひとまず無事だったものの、裏面が白身ならぬ黒身と化していた。

バターをたっぷり塗ったトーストに瑞々しいトマトサラダ、透明なグラスに注がれた冷えた牛乳と――焦げた哀れな目玉焼き。
本日の朝食を前に、ヨハンは大きなため息を吐く。
本来ならおいしく食べられたものを、自分の不注意で台無しにしてしまった。

食べ物を大切に、を信条とするヨハンに捨てるという選択肢はない。
最近使い方を覚えた箸で軽く黄身に穴をあけ、これまた最近使うようになった醤油を数滴たらす。
準備が整ったところでヨハンは覚悟を決めた。
小さく切り分け、ぱくりと一口。
途端に黄身のまろやかさでもごまかしきれない苦みが舌の上に広がった。
これは食べない方がいいと訴える味覚を無視し、黙々と胃に流し込んでいく。
責任感うんぬんというより、もはや意地であった。


--------------------------------




悪いことが続くというのは本当らしい。
そんなことを、ヨハンは今まさに実感していた。


ルビーの案内でレッド寮へ遊びにきたヨハンは真っ先に十代の部屋を訪ねたものの、生憎不在だった。
そこで食堂にでもいるのだろうと当たりを付けそちらへ向かっていると、途中で十代らしき声を耳に拾った。
レイの部屋――元々は万丈目の部屋であったと聞いている――からだった。
本人か確証が持てず扉の前で立ちつくすヨハンの耳に、室内から複数人の声が漏れ届く。
探し人の十代、部屋の主であるレイ、そして万丈目、翔、剣山。
何を話しているかまではわからなかったが、時折怒声があたりを震わせ、ついで楽しそうな笑い声が木霊する。
おそらく万丈目が十代かレイあたりに突っ掛かり、それを翔と剣山が諌め――あるいは煽っているのだろう。
この場に明日香がいたら、些細なことで騒ぎ立てる友人たちに呆れた視線を送るに違いない。

十代と知り合って日の浅いヨハンですら容易に想像がつくほど、彼らの漫才染みたやりとりは日常の一部となっていた。
とてもバランスのとれた十代とその旧友たちの関係。
そこにヨハンの居場所は、無い。

そっと、内外を隔てる薄い扉に触れる。
もしここでヨハンが呼べば、十代はすぐに扉を開け外に出てくるだろう。
けれど、それではきっと駄目なのだ。
名残惜しむようにゆっくりと手を放し、ヨハンはその場を離れた。



--------------------------------




どうして一人になりたいときに限ってやっかいな相手に出くわすのか。

逃げるようにしてブルー寮まで戻ってきたヨハンは内心毒づく。
自室まであと一息というところで、同じく部屋に向かっていたらしい南からの留学生――ジムとぶつかってしまった。

衝撃で床へ尻餅をついたヨハンに、ジムは「Sorry!」と手を差し伸べた。
反射的にその手をとろうしたところで、ヨハンは衝突の際相手がびくともしなかったことにはたと気付く。
頭一つ分以上身長差があるとはいえなんてざまだ。
同じ男としてきまりの悪さを感じ、ヨハンは一度伸ばしかけた手を引っ込め自力で立ちあがった。
腕を差し出した姿勢のまま目を丸くするジムに「こっちこそ悪かった」とだけ返し、そのまま横をすり抜ける。
ようやく一人になれる、とほっとしたところで背後から「お詫びに飲み物でもごちそうさせてくれ」と声がかかる。
首だけで振り返ると、親切をふいにされたことを気にした風もなく、ただ心配そうに自分を見つめるジムが映った。
どちらかと言えば前をよく見ていなかったヨハンに非があるのだが、ジムにとってそこはさして問題でないらしい。

心底申し訳なさそうに顔を歪める姿に良心がちくりと痛む。
丁重に断ることもできなくはないが、このままでは律儀なジムが気に病むことは目に見えており――結局、ヨハンは首を縦に振った。