「土井先生ー」
「んー、何だー」

土井先生の背中に寄りかかりながら窓を眺める。あー、あの雲、お魚さんみたいだなー。
土井先生は一年は組の良い子達のテストの丸付けをしている。生返事もいいところだけど、こうして土井先生のところに入り浸るのは珍しいことじゃない。むしろ、日常の一部だ。
マンネリした夫婦じゃないけど、いちいち構ってもらえないと不満なんてことはなくなった。…あはは、マンネリした夫婦だって。自分で言っといてなんだけど、素敵な例え。

「先生の初恋っていつー?」
「…初恋、か?」

うん、初恋ー。
俺、思うんだけどさ、土井先生って初恋キラーだよね。王子様…って言うよりは、優しくて近所のお兄さんって感じ。王子様とかよりずっと身近で、いつも自分の傍に寄り添ってくれてるような、そんなん。

先の赤い筆をテスト用紙から離し、考えるように顎元に当てる。
その様子が何となく物憂げに見えて、身体を捻って土井先生の顔を見ていた俺は思わず見惚れた。…土井先生ってさ、罪作りな男だよね。無意識の無自覚ってのが余計性質悪い。そんなんだから、俺みたいな男をほいほいしちゃうんだよ。

「…多分…、六歳くらいだな」
「ふーん、どんな人ー?」
「近所に住んでたお姉さんだ」
「おー、お姉さん!」

先生も、やっぱり近所に住んでる年上の人が初恋だったんだねー。あはは、それにしても六歳で近所のお姉さんかー。…土井先生ってば意外とおませさん?

「きれいな人だったー?」
「…どうだったかな」
「えー、もったいぶらなくてもいいのにぃ」
「もう、思い出せないだけだよ。何年前だと思ってるんだ」

俺と話しているときの土井先生は下を向いて笑う。ただ単にいつも机仕事しているときに土井先生と一緒にいるだけかもしれないが、地面に笑顔を落としているみたいだっていつも思ってた。
そして地面に落とされる笑顔は、俺の目からはいつもいつも見えないんだ。

「じゃあ、どんな人ー?」
「…優しい人だったよ。顔はもう思い出せないけど、優しくて、強くて、太陽みたいに笑う温かな人だった」
「……ふーん」

自分から聞いといてなんだけど、聞かなきゃよかった。

「先生はさ、初恋、叶った?」

気分悪くなったから、一番聞きたかったことを聞く。
答えるまでの数秒が、妙に長く感じる。

「…叶わなかったよ」

小さなはずの、先生の声が大きく聞えた気がした。…その言葉は確かに俺が望んでたはずの言葉。だけど、何だろう。俺ってばもしかしてショックを受けてる?

「お嫁にでも行っちゃった?」
「いや」
「告白したけど振られちゃった?」
「いや」
「…じゃあ、何で?」
「……亡くなったんだよ。丁度お前くらいの年の頃だ」

背中越しに、先生の声が伝わってくる。
先生といつも背中合わせに話しているせいかな。それとも背中越しに先生の感情が伝わってくるのかな。
…多分俺が先生のこと好きだからなんだろうけど。

先生の気持ちがわかってしまった。

「ふーん、そっか。先生、今でもその人のこと好きなんだ」
「何言ってるんだ。もう亡くなった人だぞ」
「相手が死んだからって恋心まで死ぬ訳じゃないよ」
「はは、お前にしては随分詩的なことを言うじゃないか」
「せんせーってばしつれー。俺ほど詩的な雰囲気が似合うオトコノコなんていないよー?」
「あはは、そうだな」

先生、…土井先生。俺、先生のこと好きなんだ。
先生の背中に自分の背中を預けてこうして話す時間が、とても好きなんだ。
背中越しに体温が伝わってくる代わりに、俺には先生の表情が見えない。それは、先生に自分の気持ちを正面からぶつけられないくせに傍に居たがる俺の弱さに似てる気がする。けどね、例え正面から向き合わなくたって、わかることってあるんだ。
土井先生が笑ったときに震える空気の雰囲気とか、さ。

あー、死んだ人ってずるいよね。
残された人は、過去の記憶を抱き締めていくしかない。劣化していく記憶の中で、悪い記憶はどんどん失われていき、いい記憶はよりいい思い出に塗り替えられていく。
きれいにきれいにまるで神様のように理想化されていく人に、生きている俺達が適う術なんてあるのかな。

――…俺が死んだら、先生の心の片隅に居れる?

なーんて、そんなことしないけど。
俺が死んでも、きっと俺は土井先生の心に留まれない。“そんな生徒もいたな”ってたまに思い出してくれるくらいだよ。
先生の初恋の人みたいに、先生の根幹を形成する要因にはなれない。
あー、何か、本当に土井先生の初恋の人が憎くなってきた。ずるいのずるいの。先生の心の中に居てさ。俺も、もっともっと前から先生に会えてたらよかったのに。生徒の一人なんかじゃなくて、先生の友達とかご近所さんとか。
望んだってしょうがないことだってわかってるけどさ。でも思っちゃうんだもん。しょうがない。

とりあえず、

「せんせー」
「んー?」
「大好きー」
「あー、はいはい。ありがとうな」

先生の初恋のお姉さんは憎いです。
それから、先生と同じ年になるまでは、この叶わない初恋を続けてもいいよね?
先生だって、初恋引き摺ってるんだし?



だーいすき、土井先生。


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