30

 どうしよう。

 今、私の目の前には見慣れた門がある。数ヶ月ぶりに私はそれをくぐらなくてはならないわけだが、どうもその一歩が踏み出せない。

 何が恐ろしいのか、何を緊張しているのか。私は自分に鞭を打つわけだが、足は言うことを聞かない。私を迎えにやってきていた兵たちはそわそわし始めるし、今の私の心境を例えるなら、くだらないテレビ番組のカメラの前で、バンジージャンプを飛べない芸能人の心境。これがきっと一番近い。

 唯一の救いはこの場に長曾我部がいないことだ。船の修繕とかで、後から来るという。この無様な姿を見られなかったことだけは、不幸中の幸いかもしれない。

「は、晴久」

「なに躊躇してんだよ。帰ってきただけじゃねーか」

 晴久に助けを求めてみても、どうしようもないのは分かっている。

 でも、会うのが怖い。帰ってこなくてもよかったのにと、そんな顔をされるかもしれない。それは今までの私の行いが悪いから、自業自得なのだけれど。気にしなければいいと言われればそれまでだ。

「しかし」

 でも、怖い。そう思うのは、私がまた心を拾い上げたから。捨てたはずの思いを思い出してしまったから、私は怖い。

 皆が皆、晴久のように私を受け入れてくれる訳ではない。今まで人の優しさを無下にしてきた私に見切りをつけた者もいるだろう。

 例えばそれが志道だったら。私はこれから家と国を守っていける自信がない。

 例えばそれが隆元だったら。せっかく家と国を自分のものとしたのに、私を鬱陶しいと思う可能性は十分にある。

 例えばそれが、杉様だったら。私は、私は。

「いいから黙って入れ頭でっかち」

 どん、と強く背中を押され、私は驚いた。晴久は私が逃げ出さないようにしっかりと肩をつかみ、無理やり屋敷の中へ押し込まれる。

 自分でできるというのに、赤子のように履を脱がせられ、担がれそうになった。私は立ち上がって必死に拒否をする。

「待て、まだ」

 心の準備ができていないと叫びかけた、そのとき。私は心臓が跳ね上がった。

「もとなり、さま」

 一番会いたくて、一番会いたくない人の声。振り返ると、大きな目をさらに大きくして、杉様が私を真っ直ぐに見つめていた。

 私は目をあわせていられなくて、すぐに下を向く。はやく、はやく何か言わなくては。頭の中は空っぽで、それでも絞り出した言葉はありきたりな言葉だった。

「……た、ただいま、戻りました……」

「っ……!」

 ひゅ、と息をのむ音に、私ははっと顔をあげる。

 大きな瞳から大粒の涙が溢れ出して、杉様はその場に泣き崩れてしまった。どうしたらいいのか分からず、おどおどしていると晴久に睨まれた。

 私が、この人に触れても良いのだろうか。しかし晴久ははやくなんとかしろと目で訴えてくる。私はそっと杉様に近づいて、しゃがみこんで声をかけた。

「杉様」

 声をださないように肩を震わせて泣く杉様。私は初めて杉様が涙を流すところを見たかもしれない。いつも明るく笑っていて、時々怒って、涙なんて縁のない人だと思っていたのに。

 手を伸ばし、涙を拭うと、私の手に杉様の手が重なる。暖かくて、真っ白な手。

「よかっ、た……元就様、良かった……」

 良かったと、杉様は繰り返し呟く。私はその言葉が懐かしい。

 泣いている杉様は、とても小さく感じた。子供のころは私がこの人の腕の中で震え、泣いていたのに。私もつられて泣きそうになったけれど、収拾がつかなくなりそうだから我慢した。その体をぎゅっと抱きしめると、背中に腕がまわる。私も杉様の腕の中に入ったようで、酷く安心した。

 背をさすっていると、嗚咽が小さくなってくる。ここに何時までもいるわけにもいかない。私が杉様を立ち上がらせようとすると、すっと横から手が伸びる。

「……志道」

「元就様、よくぞご無事で」

 この男、また痩せたようだ。せっかく私が領主になってから、体型が戻ってきていたのに。

「苦労をかけたようだな」

 私の言葉に、志道は少し笑う。彼は杉様の手をとって、ゆっくりと立ち上がらせた。私もつられて立ち上がる。

「お入りください。ここでは色々と面倒でしょう」

 志道の視線の先で、兵士がこっそり集まっていたのに気づいた。私は何だか恥ずかしくなる。一番恥ずかしかったのは杉様だったようで、目元を袖で抑えながらきゅっと口を結んでいたけれど。

「あ」

 兵たちに混じって、見慣れた顔がちらりと見えた。晴久がすぐに近づいていって、兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていったが、ひとり晴久に捕まえられていた。

「隆元、こそこそするんじゃねーよ」

「だ、だって……でていき難いじゃないですか」

 もじもじする甥っ子と目があい、隆元は音が出そうなくらい顔を真っ赤にした。何も変わっていなくて、安心したような、がっかりしたような。私は苦笑いするしかない。

 私が笑うと、志道がとても驚いたような顔をした。杉様はまた泣きそうな顔をするし、私は何か不味いことをしただろうかと晴久を見る。晴久はただニヤニヤしているだけだ。

「さ、今日は、ぱーっとやろうぜ。あとから客も来るしな」

 私が首を傾げているのを無視して、晴久は言う。急に皆が笑いだしたので、まったく意味が分からない。

「では、用意させます」

「わ、わたくしが」

「大方様はお疲れでしょう。我々にお任せください」

「そういう訳にはまいりません。元就様のお客様にみっともないところをお見せする訳にはいきませんから」

 志道と杉様がとても楽しそうに言い合いをしている。何故こんなに彼等が楽しそうなのかは分からないけれど、どうやら私は、ここに帰ってきても良かった、ということらしい。

「さあ、元就様、参りましょう」

「……あ」

 微笑む杉様に、こみ上げてくるものがある。何で今まで、私はこの人たちの優しさを受け入れることができなかったのだろう。

 いつかどうせ裏切られるのだと、くだらないことを信じ込んで。自分以外誰も信用ならないのだと、信じ込んでいた。それなのに、こんなに弱い私をこの人たちは受け入れてくれる。

「……あり、がとう」

 こんなの私の柄じゃないけど、また死にそうになったときに後悔するのが嫌だから。

「元就……さま」

 杉様がとても嬉しそうな顔をしている。でもまた泣いてしまいそうだ。

 私は恥ずかしくてたまらない。でも、心の底から帰ってきて良かったと思うのだ。こんなに素敵な人たちに囲まれて、私は生きている。今の私にはそれがとても素晴らしいことだと思えるのだから。


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