C'est juste


束の間の休日に珍しくも午前中の間に目を覚ました、否、意思にそぐわずに叩き起こされた広也は折角の他人様の快眠を妨げる元凶となる己の携帯をむんずと掴み、充電器を雑に引き抜くと渋々ながらもそれを耳に押し当てた。
「もしもし」
『もしもし広也?』
「…え、生江かよ」
寝起きには予期せぬ声の主に一気に頭が覚醒した広也は慌てて力の抜け切った上半身を起こし、思わず落としかけた彼女に繋がる携帯をしっかりと握り締め改めてベッドに腰を落ち着けた。
『寝起きでしょ?分かりやすい』
「うっせ…」
恐らく先の自分の声は如何にも寝起きですと言わんばかりの応答だったに違いない。
そんな自分の素っ気ない対応に気を害すでもなく、こちらの準備が整うのをただ静かに待つ彼女の姿があまりにも容易に想像出来てしまう。
だからこそ、人一倍気を遣っているつもりではいるんだけれど。
しかし惚れた腫れた相手の女性に対し、何とも情けない声を裏返らせた愚かな己自身に後悔するも時既に遅し。
何度かこんなこともあったが、流石に愛想を尽かすかなと思っていた広也にとってそれは少し意外だった。
焦る心情を悟られまいと取り敢えずは平静を装ってみるも、全てお見通しだと言わんばかりの彼女の微笑が耳朶を擽る。
それが無性に居た堪れなくなり広也は軽く咳払いをして誤魔化した。
「珍しいな、こんな時間に」
『ごめんね。寝てるとは思ったんだけど』
「全然良いけど。それより、どうかしたのか?」
『今から少し会えないかなって…駄目かな?』
「20分で行くから待っててくれ」
『悪いわね』
「俺も近いうちに連絡しようと思ってたんだ。丁度良かった」
『そう?じゃあ待ってるわ』
「おう」
規則的に響く無機質な機械音に相手との通話が切れたのだと確認した広也は幾分か軽くなった腰を上げ、定位置に佇むS15のキーを握り暖機を始める。
寒がりの彼女を迎えに行く日には決まってこれを行うのはすっかり馴染んだ習慣と言っても過言では無い。
暖機の合間に身支度を済ませ、申し訳程度に切り揃えられた前髪を気にしながらもスニーカーを突っ掛けて重たい玄関のドアを押し開く。
眩しい太陽が顔を覗かせ、最近ではすっかり雲に覆われる日々が続いたその鬱憤を晴らすかのようにしてアスファルトを照らしつける光景に広也は眩しそうに双眸を細めた。





かくして時間通りにきっちりと自宅の前に横付けされた青いS15のナビシートに収まった生江はどうやら本日はとりわけご機嫌が宜しいらしく、いつになく饒舌に今朝の出来事やら何やらを楽しそうに話しているが、偶に冗談も交えて自分を暇にさせないようにと気を遣ってくれているのも知っている。
普段は他人の長話には聞く耳を持たない広也でも彼女と二人のこの時ばかりは不思議と、意識しなくとも勝手に相槌も打たさる訳で。
「お前、何か良い事でもあったか」
「なかなか鋭いわね」
「そりゃまあな」
「聞きたい?」
「…勿体ぶらないで教えろよ」
「実は私、先日免許を取得致しました」
「良かったな。勿論マニュアルだろ?」
「当たり前でしょうが」
「なんならコイツ、運転してみるか。シルビアなら初心者でも比較的扱い易い筈だ」
「それは流石に…」
「何事も試してみるのが一番だぜ。ぶつけても良いからやってみろ」
「考えておくわ」
よく使われるお誘いを断るフレーズを隠そうともせずにそのまま流用した彼女の煮え切らない返事に思わず広也は苦笑い。
長く待たされた信号も過ぎて次の角を曲がり、続く直線と交通量の少ない状況に調子に乗った広也が少し強めにアクセルを踏み込んだところで隣の彼女の積もりに積もった世間話も一段落ついたのか、シートに深く背を預ける様子を横目で一瞥するなり広也は漸く本題を切り出した。
「それで、俺に何か話があったんじゃないのかよ」
「それは後ほどね」
何となく含みのある彼女の言い回しに微妙な違和感を覚えたが、今問い詰めたところで納得のいく返事を貰えない事はわかりきっている。
広也は考えるのを中断し、無理やり話の方向性を逸らした。
「昼飯は?まだならどこか寄るけど」
「そうしてもらえると助かるわ」
「リクエストはございますか生江お嬢様」
「お任せで」
「それまた結構ハードだな」
「広也と出掛けるとどこでも楽しいもの」
隣から思いもよらぬ言葉を発せられた気がしたが、それに関しては今この場で触れても良いのだろうか。
何となくそうさせない雰囲気に流されるように広也はちょっとした腹いせにステアを利き手の指の背で軽く叩いた。
細かく指定されるとそれはそれで確かに面倒だが、この幾つも立ち並ぶそれも何処も似たような雰囲気の店の中から一つ厳選しろと言うのもなんだかな。
そんな心がどうやら知らずと顔に出てしまっていたらしく、ややあって助手席から「適当なファミレスで良い」とお声を掛けられた。
昼間から良い歳の男女でファミレスというのも何だか味気ないような気がしないでもないが、この際小さな文句を言っている場合では無い。
頷くでも返事をするでもない広也のそれが了承の意味だと知っている生江は特に気にする様子も無く、そのまま車内には暫しの沈黙が訪れる。
こういう時間は嫌いじゃない。どっちつかずな位置から動こうとはしないそんな二人の合間を縫うようにして流れる穏やかな空気にも慣れてしまえば随分と心地良くすら感じられるものの、隣で呑気に窓の外を眺めてはその手のクルマと擦れ違う都度興味ありげに微笑む彼女がそんな事を気にするような様子を見せた事はたったの一度も無いけれど。
本当に先の発言には一体どういった腹積もりがあったのか。
気にしたところでどうなる訳でもないであろうそれを、馬鹿だ馬鹿だと思いながらも気にしてしまうのはやはり彼女のことが気になってしまうからだ。
この付近と言えばあそこか、箱根の麓に位置する小洒落た外見のレストランくらいだろう。
交差点の少し手前で車線変更したS15がウインカーを点滅させ、そう遠くない目的地を目指してその洗練されたご健脚を走らせる。
休日の真昼間からわざわざ箱根まで繰り出す羽目になるにしても、彼女と一緒なら悪い気がしないでもない。





適当に昼食を済ませた二人はおよそ尽きる事を知らない他愛ない会話を繰り広げながら、広也の運転する青いS15で通例のように箱根を下る。
その助手席で微動だにしない生江がどことなく哀愁を帯びた表情で、それでいていつもより気持ち覇気が無いように感じたがそれでも単に退屈をしている訳でも無さそうな生江にどうしたものかと広也もまた頭を悩ませていた。
無表情で窓の外を眺める彼女は何を考えているのだろうか。
そうして必然的に無言状態となる車内に響くアクセルに応じたロードノイズが、今日に限って妙に大きく感じられる。
決して居心地の良いものではないそれに何か切り出そうと言葉を探してみても、凍ったような空気を解すような妙案は一向に浮かびやしない。
助手席の彼女の白く華奢な細い腕が投げ出され、指を折るでもないそれにどう言った意味もなさないことはおのずと理解できた。
普段とは違い比較的安全運転とは言えど、それでも右足の集中力を切らしてはいけないなどと意識すればするほどにその傍らの存在が気になってしまって、その時ふと視界の端で僅かに揺れた彼女の黒く美しい髪の毛に目を奪われた広也の集中力は今度こそ限界を迎えた。迎えてしまった。
ひゅっと小さく息を吸う音が広也の耳を掠め、その温かい息をゆっくりと吐き出すように彼女が丁寧に言葉を綴る。
「私ね、広也と会えるのは今日が最後になるの」
「え?」
思いもしない言葉に広也は全身の力が抜けてステアを握る指先から冷えていくような、そんな感覚に襲われた。
当然ながら右足のアクセルを踏む力も一気に弱まり泳がせた視線の先に映るタコメーターの中で揺れ動く細い針がそれまでとは反対回りに円を描き、窓の外を流れる景色が不規則になる。
それでも生江はそれを気にも止めない口調で淡々と、抑揚もなく機械的に言葉を並べていく。
「婚約者がいるみたいよ」
「いつから…」
「さぁ?親同士で勝手に進めていた話だから、最近の話ではない筈だけど」
「それで良いのか。生江は」
「良いわけないでしょうが」
「だったら」
「それでも、仕方ないわ」
「仕方ないで済ませて良いのかよ!」
思いの他強く踏まさったブレーキと同時に声を荒らげた広也に、驚いた様子を隠そうともせずに視線を落として押し黙る生江から、それまでの表情が一切と消えた。
代わりに伏せられた愁いげな瞼に、広也は次なる言葉を呑み込んだ。何を言っているのか。
この状況が一番辛いのは当事者である本人以外に他ならないなんて事は、冷静に考えてみれば一目瞭然たる事実だと言うのに。
「広也だったらどうする?」
意表を突くその言葉には、一体どう言った意味が込められているのだろうか。そもそも意味なんてあるのか。
彼女がそれを意識したのか、それとも単なる質問という形で投げた言の葉でしかないのかその腹を探ろうと、じっと答えを待つ彼女の目と自身のそれを交えた。
そうしなければいけない気がしたからだ。
「俺なら、迷わずに断るけど」
「どうして?」
「好きな人がいるからだろ?」
「…なんだ、気付いてたの」
「いや?」
「え?」
「ただのカンだ」
「ああそう」
悪戯に成功した小学生みたいに自慢げに笑う広也に、なんだか溜め息を吐くタイミングすら与えてもらえなかった生江は苦笑する他なかった。
つまるところは相手の方が一枚上手だったというだけの話である。
このまま気持ちを吐き出してしまえばどれほどに楽なことか。
「それなら、二人で逃げようか。人目を忍んで、誰も知らない遠い場所まで」
「それは」
「戸籍も新しくして、名前も、全部」
「生江」
「でも私は知ってるよ。広也はきっと誰よりも優しいから」
「…もういい、無理するな」
再び訪れる沈黙に、それでもどちらも動きを見せようとはしない。そうするのが当たり前のように。この場で自分が言うべき言葉も、取るべき行動も、そして最善の判断も広也は知っている。
だからこそ何も言えないし、言えはしない。
それは生江もまた然り。
他人様の事情など知ったことかと刻まれる時は一秒たりとも止まる事を許さず、それどころかこの瞬間を嘲笑うかのようにしてじわりじわりと急かすばかりで。
できることなら、この温もりを失いたくはなかった。
それでもこの別れ際にどちらかが何かを言わなければいけないとしたら。
生江は指先に僅かな力を入れて、その空虚な掌を握り締めた。
「広也に会えて良かったわ。素敵な人を、見付けてね」
「…わかってる」
「ありがとう」
それなのに、酷く痛々しく微笑む愛しい彼女を引き止める術も、幸せにできる術も、実際は何一つ知らない。
本当はとても臆病で、身勝手で、それでいて自分のことを好きでいてくれたら、なんて。
愛していますと皆までは言わないが、見え透いたそれに気付かない彼女では無い。
生江もまたこの現状をどうすることもできないなんて百も承知の上でそれでも精一杯の強がりで言った言葉だとしたら、そうせざるを得ないのだ。
暗がりの空に浮かび始める月は冷たく、先の茜色の面影はもうどこにも感じさせない。
唇をきつく結んで苦しそうな嗚咽を抑え、静かに頬を濡らす彼女との最後に見た景色はどこまでも深くそれは冷えていく15の光を灯さない硬いボディと同じ「蒼」だった。
先まで確かに在った彼女の温もりと、引きずり込まれるように新淵へと沈まる意識も、そして何より視界を覆うこの「蒼」はそれは一生忘れられる筈が無いと言うのに。

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