交響


深夜も過ぎ、クルマも人の影すらも無い静けさを誇るこの閑散とした箱根の地に、JZA80のエキゾーストのみが低く蠢く。しかしそれを遮るようにして後方から響く排気音がやけに耳についた。
ノロノロとスープラを走らせる英雄のバックミラーにふと後続車と思われるヘッドライトが映し出され、車内に差し込む僅かな光は徐々にその明るさを増し、やがて後方にべったりと張り付かれた。一体何だと言うんだ。
この夜更けに煽るような挙動で一定の車間距離を保つ姿勢から見ても、同業であるのは一目瞭然な訳で。
ライトの反射により車種までは確認出来ないが、退く気配も追い越す気配も無いそれに英雄が段々と苛立ちを覚えてきた頃だった。
不意にバックミラーから眩しい色が消え去り、何の躊躇も無く反対車線を走行するAWと思しきクルマが横を掠め、物凄いスピードで追い抜いて行った。あっという間にその光を消したAWの咆哮のみが僅かに響く。
それを受けた英雄は何を思った訳でもないけれど、何となく面白そうだなと言うなれば好奇心でそのAWの後ろ姿を追ってみた。あれだけの突っ込みをするという事は地元だろうか。それにしてはあんな暴走車両は記憶に残っていない。
ウインカーを点滅させて駐車場へと滑り込んで行くAWに当然のように倣い、自身のスープラを無造作に鼻先から突っ込んだ。
ブレーキを強く踏んで急停車されたそれの反動で僅かに前に押し出されるような感覚にも無表情な英雄がクルマから飛び出すと、ややあってAWの運転席側のドアが開き白く華奢な御御足がそこから覗いた。
そうして降りてきたのはまだ歳の若い女性ドライバーで、英雄は面食らったような表情で何と声を掛けようかと悩んだ末に彼女の方から救いの手を差し伸べられた。そう言えば自分は何故こいつを追って来たんだったか。
「ごめんなさい、煽ったわけじゃないのよ」
「いや…あんた、ここらの走り屋か」
「そんな立派なものじゃないわ。でも走るのは好きよ」
「そうか。良い走りだ」
「皆川さんにそう言って貰えると嬉しいわ」
「…何故分かった?」
「よくサーキットで上位の方に名前が載っているのを見掛けるもの」
「サーキット出身か」
「まぁね。峠も今は何処も派閥社会だから肩身が狭いのよ」
「一理あるな。名前は?」
「生江、ちなみに18」
「…無免か。なんでまた」
無免許運転。最近では聞き飽きた言葉でもある。
かと言って咎めるつもりもないのを生江はきっと知った上での事なんだろう。
「このAWは父のなのよ。3年前に亡くなったけどね。母は運転出来ないし、乗ってあげないと勿体無いじゃない」
呆れたように苦笑した英雄は何かを言い掛けたようだが、その言葉は呑み込み、変わりに小さな溜め息を漏らした。
最近はどうにも無免許の子供が野放しにされる定番になってしまった峠の道のみならず、プロも走るサーキットにまで顔を出すと言うのは如何なものか。
「プロジェクトDってどうなのかしら」
「相当速いだろうな」
「ふぅん」
興味なさげに呟いた生江は、そのまま目線を英雄のスープラへと移す。慈しむように細められた双眸に、それでも彼女の感情は読み取れない。掴みどころの無いと言うか何と言うか。
「ヒルクライムは皆川さんでしょう?」
「あぁ」
「頑張ってね。群馬のヤンキー上がりでも、それなりの走りはするみたいよ」
「ギャラリーには来ないのか」
「来て欲しいの?」
「…誰がそんな事を言った」
「冗談よ」
楽しそうに笑う生江に英雄は何だか冷やかされたような気がしないでもないが、それでも不思議と気は害されなかった。
隣で大きな欠伸をした生江は一人御満悦そうな表情を浮かべて深い空を仰ぐ。
「私が行っても良いのかしらね」
「何を気にする必要がある」
「それもそうなんだけど」
「いや、別に無理して来なくても良い」
「仕方がないから行ってあげるわ」
「俺を馬鹿にしてるだろ」
「いいえ?なんなら連絡先でも差し上げましょうか」
「面倒だ。生江から連絡してくれ」
「はいはい」
懐から携帯を取り出した英雄の携帯を嬉々として受け取った生江が、自らのそれに指先で器用に番号の羅列を打ち込んで行く。
「おい」
「うん?」
「英雄でいい」
「…そう?じゃあ、またね英雄」
パタンと小気味の良い音を鳴らした携帯を差し出す生江を見下ろし、彼女の身長が大分低い事に気付かされた英雄は思わず笑みを漏らした。口先は随分と御立派な様子だが、実年齢的には彼女の方が年下なのだ。上手く言いくるめられているような気がしないでもないけれど。
所在なさげに差し出されたそれを受け取る拍子に、ほんの一瞬触れ合った指先の熱に珍しくも英雄は戸惑う。らしくも無い動揺を不器用な英雄が上手く隠しきれる筈も無く、そんな彼の表情を見るなり生江は照れくさそうに微笑んだ。
運転するには似つかわしくないようなパンプスの踵をアスファルトに打ち付けながら長い髪を揺らす彼女の背中は思ったよりも小さい。
終始人をからかうような態度の年下の生江にどうも鬼になる事も出来ず、されるがままとはこの事だろう。夏とは言えどそれなりに冷え込む夜の山に、目のやりどころに困るような薄着でふらりと出歩く彼女に余計な心配まで覚えた英雄は流石に頭を抱えた。
そして遠ざかるAWのテールを見送り、ややあってそれを諦めたように視線を逸らし、静かに佇むスープラへと歩を進める。きっと姿を見せるであろう彼女の存在を思えば、この試合は是が非でも負けられない。妙な高揚を隠すように舌を打って、それでも英雄は幾分か楽しそうに、軽快な足取りで歩を進める。
始動したスープラのエンジンとAWの甲高いスキール音が、昇り始めた朝日と共に箱根の峠に木霊する。

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